第12話 紙灯籠の夜、違世界から届く封蝋
灯籠流しの宵が来ると、月代の川面は、昼間の熱をまだ抱えたままでも、ひんやりした気配を返した。夕暮れの風が稲の匂いを運び、岸に並べた紙灯籠の糊を乾かしていく。
咲月は袖をまくり、竹枠に紙を当てる手を止めずに、乙女の声だけを背で聞いた。
「短冊は右。火皿は左。並べ直したら、迷子は出ない」
「迷子、出たら困るのは私だけどね」
そう返したつもりが、声は思ったより軽くなってしまった。咲月は自分の喉を一度叱って、紙の端を指で押さえた。糊が指先にひやりと残る。
川沿いには屋台が並び、仁愛の屋台だけ、なぜか「泣ける塩味」と書いた札がぶら下がっていた。咲月が眉を寄せると、仁愛は大きな扇で自分をあおぎながら、わざとらしく胸を張った。
「塩むすびに泣けるほど塩が効いてるって意味じゃないよ。泣けるほど、うまいって意味」
「嘘。あんたの札、だいたい嘘」
「嘘じゃない。誇張。あと、今夜はこっちもある」
仁愛が差し出したのは、薄い皿に乗った白い菓子だった。冷えた杏仁豆腐の上に、刻んだ梅がちょこんと乗っている。
「酸っぱいから、泣き止む」
「泣いてない」
「うん。だから、泣く前に食え」
仁愛は言い切って、次の客に笑いかけた。咲月は皿を受け取りかけて、手を引っ込めた。目の前で「泣く」なんて言葉を立てられるのが、妙に落ち着かなかった。
紙灯籠の列の向こう、川風に混じって、桂花の香りがひとすじ紛れた。咲月が顔を上げると、蒼生が河原の石段に腰を下ろしていた。浴衣ではない。いつもの衣の襟を整え、ただ、手元に筆を持っている。
子どもたちが集まり、声を弾ませていた。
「それ、何の字?」
「龍の字、書ける?」
「難しいのはいや! 可愛いのがいい!」
蒼生は困ったふりをして、筆先を水に浸し、紙灯籠の側面にさらさらと書いた。細い線が一度で決まり、最後に小さな丸を添える。
「……これで、可愛い」
「可愛いのそれ!?」
子どもが笑い転げ、隣の子が「じゃあ、うさぎの字!」と無茶を言う。蒼生は眉ひとつ動かさず、「うさぎは書けない」と即答した。
「書けないの!?」
「書けない。僕は点心なら作れる」
「点心の字、書いて!」
「それは書ける」
どっちだ、と周りが一斉に突っ込む。咲月も思わず口元が緩みかけて、慌てて唇を結んだ。
笑うと、胸の奥の冷えが見えなくなる。見えなくなったまま夜が終わるのは、楽だ。けれど、楽なまま朝が来ると、決まって、何かが遅れる。
咲月は皿の杏仁豆腐を持ったまま、蒼生の方へ歩いた。砂利が足の裏で鳴り、川の水音がそれに重なった。
「……書いてるの、何」
「願い事。君たちの」
「私たちの?」
「ここは月代側の灯籠流し。だから、月代側の言葉で、ね」
蒼生は筆を止めず、咲月に目だけ向けた。灯籠の白い紙が、夕闇の中でまだ乾ききっていない光を吸っている。
咲月は杏仁豆腐の皿を石段に置いた。
「じゃあ、私のも書いて」
「君は、自分で書けるだろう?」
「書けるけど……あなたの字だと、後戻りできない感じがする」
言ってから、咲月は自分の言い方にぎくりとした。後戻りできない。そんな言葉を、今夜の川辺で口にするつもりはなかった。
蒼生は筆を置き、指先で灯籠の枠を軽く叩いた。
「後戻りできないのは、道じゃなくて、君の癖だ」
「……静かにして」
咲月は反射で言い返し、視線を川へ逸らした。川面にはまだ火が浮かんでいない。浮かんでいないのに、胸の内側だけが、先に揺れた。
灯籠に火が入り、ひとつ、またひとつと川へ滑り出す。揺れる橙の光が、水に伸びて、夜の腹を薄く照らす。紙が湿って、竹が鳴る。誰かの願いが、音を立てて流れていく。
咲月は手を合わせるふりをして、掌の内側を見つめた。そこに、ムーンストーンがあるわけではない。けれど、掌の中心に残る重さだけは、ずっと消えない。
人が散り始めた頃、裏鳥居の方から霧が薄く伸びてきた。川辺の灯りが遠のき、代わりに、朱の柱が近づく。
月下茶楼の戸を開けた瞬間、湯気と香りが頬を包んだ。今夜は桂花だけではない。蜜と、ほのかな薬草。蒼生は灯籠流しの帰り道を、いつの間にか先に戻っていたらしい。
咲月が声をかける前に、茶楼の卓に、見慣れないものが落ちた。
封蝋の赤が、灯の下で鈍く光っている。
薄い封筒の角が濡れていて、霧をくぐった匂いがした。紙の質も、月代のものと違う。しなやかで、指に吸いつく。
蒼生の手が止まった。炉の火を足す動きも、湯呑みを整える動きも、そこで切れた。
咲月は、何も言わずに湯を足した。急須の口から落ちる音が、やけに大きく聞こえる。湯気が立ち上り、封蝋の赤を一瞬だけ曇らせた。
蒼生は封を切った。赤い蝋が割れる音は小さいのに、咲月の胸にははっきり届いた。
紙を開く指先が、わずかに震える。蒼生は震えを隠そうともせず、ただ読んだ。
咲月は読まれる文字を追わない。追うと、先に崩れてしまいそうだったからだ。代わりに湯呑みの縁を揃え、卓の端の糸くずを摘み、無意味に整え続けた。
「……境目が、縮んでる」
蒼生の声が落ちた。湯気の向こうで、瞳の色が深くなる。
「秋祭りの、満月までに……石を戻さないと、龍城の灯が消える」
言葉の最後が、炉の火に吸われたみたいに細くなった。
咲月は、息を吸って、吐こうとして、途中で止まった。喉が詰まる。詰まったまま、いつもの癖が口から出かける。
「なら、段取りを――」
言いかけたところで、声が震えた。震えを誤魔化すために笑おうとして、頬が引きつる。笑えば、整えられる。笑えば、先へ進める。そう思ったのに、笑いは出てこない。
蒼生が、咲月の手を握った。湯呑みに触れていた指ごと、熱いまま包み込む。
「怖いなら、笑うな」
咲月は唇を噛んだ。握られた手から、逃げたいわけじゃない。逃げたいのは、言葉の方だ。
「……笑ってない」
「笑いかけた」
蒼生は繰り返した。
「怖いなら、笑うな」
咲月の目の奥が熱くなる。熱くなるのに、背中は冷たい。過ぎ去った季節の砂利の音が、頭のどこかで鳴り出す。迎えに来ると言った人の背中。見送った夜。待った朝。待ったまま、終わった日。
咲月は手の甲で目元をこすりかけて、止めた。袖が濡れるのが嫌だった。嫌な理由が自分でも分かって、さらに嫌になる。
蒼生の指が、咲月の手の甲を親指で一度だけ撫でた。叱らない。慰めすぎない。湯気みたいに、そこにいる。
戸口の方で、のれんが揺れた。仁愛が入ってきたわけではない。入ってきたのに、入ってきていないみたいな顔で、仁愛は盆を置いた。
盆の上には、塩むすびと、熱い餃子が並んでいる。今夜の屋台の残りだろう。湯気がまだ立っている。
仁愛は二人を見ない。見ないまま、ぼそりと落とした。
「腹が減ると泣ける」
それだけ言って、背を向けた。扉が閉まる音が、妙に優しかった。
咲月は、湯気の向こうの餃子を見た。腹が減ると泣ける。泣けるほど腹が減っていたことに、今、気づく。
咲月は震える喉で、やっと言った。
「……秋祭りの満月って、いつ」
「月代の暦で、九月の半ば」
蒼生は答えた。すぐ答えるのが、苦しいほどありがたい。
咲月は頭の中で、紙灯籠の列を並べ直すみたいに、日を並べようとした。けれど、並べるほど、終わりの形がくっきりする。
咲月は首を振った。
「違う。日を数える前に……私、言わないと」
言わないと、また遅れる。遅れたまま、誰かを見送る。
咲月は握られた手を、そっと握り返した。指先が熱い。熱いのに、逃げない。
「今日こそは……先に言う」
蒼生の瞳が揺れた。炉の火より小さく、けれど確かに。
咲月は餃子の皿を引き寄せ、箸を取った。箸が震えるのを、湯気に隠す。
「……食べてから。泣くのは、その後」
自分でも変な順番だと思って、咲月は鼻を鳴らした。笑いではない。息の抜ける音だ。
蒼生が、咲月の箸先を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「うん。食べてから」
咲月は餃子を割った。中から生姜の匂いが立つ。腹が鳴りそうで、恥ずかしい。
恥ずかしいのに、今夜は、それを隠さない。
咲月は湯気の向こうで、封蝋の赤をもう一度見た。赤は、終わりの印じゃない。始め方を選べ、と言っている色だ。
咲月は湯呑みを持ち上げ、湯気で喉を温めた。
今日こそは。
口にしなくても、胸の中で、短い言葉が熱を持って燃えていた。




