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月下茶楼、まずは一服 巫女咲月と点心職人の恋帳  作者: 乾為天女


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第11話 風鈴だらけの合言葉

 盆明けの夕方、稲荷社の石段はまだ昼の熱を抱えたままだった。咲月は社務所の戸を閉め、袖で額の汗をぬぐう。蝉の声が一段落したところへ、ちりん、ちりん、と薄い金属音が重なって落ちてくる。


 昨日まで、こんな音は無かったはずだ。

 咲月は境内を見回し、思わず眉を寄せた。手水舎の梁に、拝殿の軒先に、杉の枝先に、風鈴が吊ってある。しかも一つや二つではない。短冊が風に踊り、白い紙が夕日に透けるたび、音が増える。


 「……誰が、こんなに」

 言いかけて、咲月は口を閉じた。答えの出そうな名前が一つ、思い浮かんだからだ。


 裏鳥居の向こう。朱の柱。湯気の香り。

 咲月は札袋を抱え直し、裏鳥居へ向かった。砂利を踏む音に風鈴の音が絡み、足元の霧がふわりと揺れる。霧が揺れると、境目が揺れる。頭では分かっているのに、胸の奥が少しだけ跳ねる。


 裏鳥居の先の朱塗りの扉は、いつも通り、そこにあった。けれど今夜は軒先に、見覚えのない形の風鈴が並んでいる。丸ではなく、細い筒が束ねられたようなもの。触れるたび、ちりん、ではなく、からん、と低い。


 咲月が手を伸ばす前に、戸の内側から声がした。

 「入って。足元、霧が濃い」

 蒼生だった。戸が開くと同時に、桂花と蜜の匂いが頬に当たる。


 茶楼の中にも風鈴がある。梁から、柱から、屏風の端から。湯気に溶けるように揺れて、音が重なって、笑っているみたいに鳴る。

 咲月は思わず言った。

 「静かにして。……っていうか、増やしすぎ」

 自分でも変な言い方だと思ったが、引っ込みがつかない。


 蒼生は湯呑みを差し出しながら、肩をすくめた。

 「増えたのは、僕じゃない」

 「じゃあ誰」

 「風が、勝手に連れてきた」

 さらりと言う。咲月は湯呑みを受け取り、熱で指先が落ち着くのを待った。


 蒼生は炉の横に置いた籠を見せた。籠の中には、短冊がぐしゃっと丸まったもの、割れたガラス片、紐の結び目。拾い集めたらしい。

 「境内に落ちてた。鈴が増えると、霧が揺れる。霧が揺れると、霞の路が回りやすい」

 「回りやすいって……同じところを、ぐるぐる?」

 「うん。戻れなくなる人が出る前に、手を打った方がいい」


 咲月は湯呑みの縁を親指でなぞった。霧が揺れる。灯が揺れる。期限が揺れる。揺れるものばかりで、胸が忙しい。

 蒼生は咲月の顔を覗き込まず、代わりに、風鈴の短冊を一枚、指先で伸ばした。

 「合言葉を決めよう」

 「……は?」

 「迷い道って、言葉に弱い。ちゃんと『ここにいる』って言えたら、道はほどける」

 蒼生は湯気の向こうで、湯呑みの月を揺らした。

 「僕が迷ったとき、君が呼べるように。君が迷ったとき、僕が呼べるように」


 咲月は喉が熱くなって、また変な言い方をした。

 「そういうの、急に言うな。……静かにして」

 叱っているのか、隠しているのか、本人にも分からない。


 蒼生は笑って、湯呑みを置いた。

 「じゃあ、君が決めて」

 「私が?」

 「帳簿も席割りも、君の方が速い。言葉も、君の方がちゃんと届く」


 褒められているのに、咲月はむず痒くて、畳の端を指で押した。押したところで、何も変わらない。

 咲月は、ひとまず真面目に考える顔を作った。

 「……『蒸籠、焦げてる』」

 言った瞬間、蒼生が吹いた。

 「それ、合図じゃなくて叱責だ」

 「だって、蒸籠焦げてたら困るでしょ」

 「困るけど、迷い道は動かない」


 咲月は次を出す。

 「『八角、入れすぎ』」

 「君、僕を止めたいだけじゃない?」

 「止めないと、むせる」

 「それは、僕の勝ち」


 蒼生が軽く返すから、咲月の頬の熱はさらに上がる。風鈴が、ちりん、ちりん、と煽るように鳴る。まるで「その調子」と囃している。

 咲月は意地になった。

 「じゃあ、あなたが言って」

 「いいよ。『君、逃げるな』」

 蒼生は湯気に紛れない声で言った。


 咲月の指が止まった。湯呑みの熱が、急に強く感じる。

 胸の奥を見透かされた気がして、咲月は視線を逸らす。逸らした先の壁に、影が二つ並んでいた。夕方の光が薄く、茶楼の灯がそれを押し返している。二つの影は、近いのに、触れてはいない。


 「……そういうの、合言葉にするな」

 咲月は小さく言った。叱っているふりをして、声が揺れるのを隠す。


 蒼生はすぐに別案へ逃がした。逃がし方が上手いのが、悔しい。

 「じゃあ、もっと軽く。『月餅、半分こ』」

 「それ、食べ物ばっかりじゃない」

 「君の喉、落ち着くから」


 咲月は唇を噛んだ。言い返そうとして、思いついた。

 食べ物でも、叱責でも、からかいでもない言葉。

 咲月は湯呑みを置き、両手を膝に揃えた。こういうときだけ、神前みたいに姿勢が整う。


 「……『今日こそは』」

 言った瞬間、風鈴の音が一つ、すっと引いた。重なっていた響きが、糸をほどくみたいに整って、ちりん、と一つだけ澄んだ音が残る。


 蒼生が目を細めた。

 「続きは?」

 「続きは……あなたが言って」

 「ずるいね」

 「ずるくない。半分こ」

 咲月は自分で言って、また頬が熱くなる。月餅の話を今引っ張るな、と心の中で自分に突っ込みを入れた。


 蒼生は湯呑みを持ち上げ、湯気越しに咲月を見た。

 「今日こそは、月下茶楼で」

 声が落ちた瞬間、茶楼の灯が、ふわり、と柔らかく揺れた。炉の火が強くなったわけではないのに、光の温度だけが上がった気がする。壁の影が、ほんの少しだけ近づく。触れたわけじゃない。けれど、間が縮まる。


 咲月は息を吐いて、笑ってしまった。笑った途端、風鈴がまた賑やかに鳴り出す。まるで「合格」と言っているみたいに。

 「……これ、誰かに聞かれたら、どうするの」

 「聞かれたら、答えなければいい」

 「答えないって、私が一番苦手」

 「だから、合言葉にしたんだろう?」


 蒼生の言葉は、柔らかいのに逃げ道を塞ぐ。咲月は湯呑みを持ち上げ、熱で喉を湿らせた。

 壁の影をもう一度見た。二つ並ぶ影は、今は温かい。温かいのに、胸の奥の別の場所が、ひゅっと冷える。


 もし、影が一つになったら。

 もし、灯が消えたら。

 もし、合言葉を呼ぶ相手がいなくなったら。


 咲月は湯呑みを置き、袖口で指先の水気を拭いた。泣きそうなときの癖を、蒼生に見せたくなかった。

 蒼生は何も言わず、短冊の端を指で揃えた。揃える動きが、咲月の胸の冷えを少しだけ押し戻す。


 咲月は、合言葉をもう一度、口の中で転がした。

 今日こそは。

 先送りしないための、短い刃みたいな言葉。

 そして、湯気の中で温めるための、柔らかい布みたいな言葉。


 「……ねえ、蒼生」

 呼ぶと、蒼生は顔を上げた。

 「なに」

 「霧が揺れても、迷っても……呼ぶから」

 咲月は言い切ってから、慌てて付け足す。

 「呼ばれたら、ちゃんと返事して。静かにしないで」


 蒼生は、笑わなかった。代わりに、湯呑みを軽く鳴らした。からん、と低い音が、風鈴の音に溶ける。

 「返事する。君の声なら、霧の向こうでも聞こえる」


 茶楼の灯が、また一度、柔らかく揺れた。

 咲月は壁の影を見つめた。影はまだ二つある。二つあることが、今夜は嬉しい。

 その嬉しさを、怖さに譲らないように、咲月は合言葉を心の中で固く結んだ。



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