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月下茶楼、まずは一服 巫女咲月と点心職人の恋帳  作者: 乾為天女


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第10話 乙女の段取り、二人きりの茶会……のはずが

 盆の夜の月代は、昼間の熱を少しだけ残したまま、提灯の光で柔らかく丸くなっていた。稲荷社の参道には白い紙灯籠が並び、線香の匂いが、山の風に乗って薄く流れる。


 咲月は社務所の前に水桶を置き、柄杓で手を洗う参拝客へ声を掛けていた。小さな子が手のひらを見て「黒い」と言い、大人が慌てて拭く。咲月は黙って桶の水を替え、次の柄杓を渡す。黙って手を動かすほうが、泣き言より早い。


 そこへ、乙女がずい、と顔を出した。浴衣の襟元がきっちりしていて、帯の結び目がほどける気配もない。

 「咲月、今夜、裏鳥居の先へ行ける?」

 「……社務のあとなら」

 「よし。じゃあ決まり」

 乙女は返事を聞き終わる前に頷き、紙包みを咲月の手に押しつけた。中から、乾いた桂皮と陳皮の香りがふわりと立つ。


 「何これ」

 「お礼参りの茶会。ほら、今までの分。犬のことも、腹痛のことも、帳簿も、餡の大喧嘩も」

 乙女は指を折って数え、最後に咲月の額を、扇子の骨で軽くつついた。

 「それでね。今日は二人きりにする」

 「……は?」

 咲月は思わず柄杓を落としそうになった。乙女はにこりともせず、当然の顔で続ける。

 「茶楼の主にも、お礼を言う。咲月も、言う。今日のうちに」

 「……皆で言えばいいじゃない」

 「皆だと、咲月が先送りするから」

 乙女はそう言い切り、咲月の反論が形になる前に、肩を押して参道の掃き掃除へ戻っていった。段取りという名の突風だけ残して。


 子の刻が近づくと、境内の喧騒は少しずつほどけた。提灯が揺れ、灯の輪が石畳に落ちる。咲月は最後の賽銭箱を拭き、札袋を抱え、裏鳥居へ向かった。


 霧は薄い。踏み外すと同じ場所を回る迷い道なのに、今夜は足元の石がはっきり見える。まるで、誰かが「迷うな」と言っているみたいに。


 朱塗りの茶楼は、いつものように、そこに“咲いて”いた。戸を開けると、桂花と焙じ茶の甘い香りが鼻をくすぐる。

 「いらっしゃい」

 蒼生が湯気の立つ杯を差し出した。盆の夜なのに、いつもと同じ落ち着いた声だ。咲月は杯を受け取り、紙包みを机に置く。

 「乙女が……」

 「うん。聞いた」

 蒼生は短く頷き、蒸籠の蓋をそっと持ち上げた。白い湯気の中で、小さな点心がふくらんでいる。形が可愛いのに、湯気が本気だ。


 咲月は椅子を一つ引いた。二つしかない席が、今日はやけに広く見える。胸の奥が、空っぽみたいに響く。ここに言葉を落としたら、跳ね返って戻ってきそうで怖い。


 蒼生が盆の菓子の器を出し、向かいに座ろうとした、その瞬間だった。


 どどど、と階段を上る足音が、茶楼の外から押し寄せた。

 「咲月ちゃーん!」

 「乙女ちゃんが『お礼参り』って言ってたから!」

 「蒼生さんにも、手ぇ合わせたいってさ!」

 声が重なり、戸が開く前に、湯気の間に町内会の顔が次々と現れた。豆腐屋の奥さん、犬の首輪を新しくしたあの人もいる。団子の親父は紙包みを抱えて、月餅の若い衆は木型を持っている。子どもは提灯をぶら下げ、老人は扇子であおぎながら「ここが噂の」と目を細めた。


 乙女が最後に入ってきて、ぴたりと固まった。

 その表情は一瞬だけだ。すぐに口角だけ上げて、空気を切り替える。

 「……うん、皆、元気でいい。じゃあ、席割りするよ」


 咲月は反射で動いた。頭の中で机の数と椅子の数を並べ替える。二つしかない椅子が、増えるわけじゃない。

 「子どもは奥。熱いのに触らないで。お年寄りは入口側、段差が少ないところ。団子の親父さん、その包みはこっち、匂いが広がるから」


 言いながら、咲月は椅子を運び、敷物を引き、茶楼の柱の間に即席の席を作った。普段は静かな床が、今夜は畳のように人を受け入れていく。誰かが「うわ、ほんとに増えた」と言い、別の誰かが「増えてない、咲月が詰めた」と笑った。


 蒼生はその間に、蒸籠を二段、三段と積み上げていった。湯気の勢いが増し、蓋を開けるたび、雲が一枚ずつ浮く。手が速いのに、器の置き方は丁寧で、湯呑みがぶつかる音ひとつ立てない。

 「点心、倍でいける?」

 咲月が息を切らしながら言うと、蒼生は眉も動かさず返した。

 「倍じゃ足りないね」

 その言い方が、妙に楽しそうで、咲月は思わず笑ってしまった。


 仁愛がいつの間にか戸口に立っていた。屋台の布を肩に掛け、手には小さな銅鑼。

 「はいはい、詰めたら入れるよー! 盆の夜は腹が減るぞー!」

 歌うように呼び込み、銅鑼をちん、と鳴らす。茶楼の中がどっと笑い、誰かが手を叩いた。笑い声に混じって、外の線香の匂いが薄まり、代わりに八角と桂皮の香りが濃くなる。


 点心が回り始めると、茶楼は一つの大きな湯気の輪になった。犬の首輪の話で盛り上がり、帳簿の回転印の話で笑い、団子と月餅の折衷菓子の紙包みが回って「また作れ」と言われ、団子の親父が「俺の手ぇが足りねえ」と叫び、月餅の若い衆が「今日は譲る」と言って赤くなった。


 咲月は湯呑みを配りながら、ふと炉の近くに目をやった。淡い青白い光が、湯気の向こうで、ほんの一瞬だけ脈打った気がする。ムーンストーンの冷たさが、掌の奥で思い出される。人が集まるほど、境目は揺れる。けれど今夜の揺れは、怖さより先に、温かさが来る。


 夜更け、町内会が「ごちそうさま」と頭を下げて帰っていく。提灯の列が鳥居の向こうへ消え、茶楼の中にようやく静けさが戻った。畳代わりの敷物を畳み、湯呑みを洗い、蒸籠を重ねる。咲月の袖は湯気で湿っている。


 最後の皿を拭き終えたとき、蒼生が咲月の手から布をそっと取った。

 「今日は、疲れた?」

 「……疲れた。けど、変な疲れ方じゃない」

 咲月がそう言うと、蒼生は少しだけ笑って、戸を閉めた。外の霧が音もなく薄くなる。


 椅子は、また二つに戻っている。最初から二つだったのに、今はそれが、ちゃんと二人のための形に見えた。


 蒼生が湯を足し、咲月の前へ杯を置いた。指先が触れない距離なのに、熱だけが近い。

 「二人きりは、いつでも作れる」

 蒼生は、それを当たり前のことみたいに言った。咲月の胸が、どくん、と跳ねた。湯呑みの中の月が揺れ、揺れがそのまま喉へ落ちてくる。


 「……じゃあ、次は」

 言いかけて、咲月は口を閉じた。次は、何を? いつ? どこで? 言葉にした瞬間、期限みたいに形ができてしまう気がして、怖い。


 蒼生は咲月の迷いを追い立てない。代わりに、杯を自分の口へ運び、湯気越しに目だけで言う。

 急がなくていい、と。

 でも、逃げなくていい、と。


 咲月は息を吸い、頷いた。頷くだけで、胸の奥の霧が少し薄くなる。

 そのとき、屋根の軒先で、ちりん、と小さな音がした。風鈴の音みたいな、薄い金属の響き。咲月は顔を上げる。茶楼には、まだ風鈴なんて吊っていないはずなのに。


 蒼生も同じ方向を見て、微かに首を傾げた。

 「……合図みたいだね」

 咲月の喉が熱くなる。合図。今日のうちに、先送りしないための。


 咲月は杯を両手で包み込み、湯気に紛れない声を探した。


 茶楼の片づけが終わり、最後の灯りを消す前に、咲月は乙女の顔を見た。乙女は「ごめんね」と言わず、帳面の端を指で押さえ、席割りの線をなぞる。失敗を笑いに変えるときの手つきだ。


 「次は二人きりにするから」

 乙女が小声で言う。咲月は返事をせず、湯呑みを布で拭いた。拭くほどに、手の中の温さがはっきりする。



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