第1話 月下の鳥居に茶楼が咲く
春の終わり、山あいの城下町「月代」は、昼の名残をすっかり手放していた。社務所の明かりを落としたあと、咲月はひとり、稲荷社の石段を下りる……はずだった。
鈴の紐を束ね、賽銭箱の脇を拭き、落ちた柏手の紙片を拾う。いつもなら、ここで終わりだ。なのに今夜は、境内の隅から甘い香りが漂ってくる。梅ではない。線香でもない。湯気に混じった、花と蜜の匂い。
咲月は足を止め、手提げの札袋を持ち直した。
「……また誰か、勝手に屋台でも出したの?」
独り言は、木々に吸われる。返事はない。代わりに、裏鳥居の方から、かすかな鈴のような音がした。風鈴ではない。もっと低く、銅が触れ合う乾いた響き。
裏鳥居は、普段は闇に溶けるように立っている。だが今夜、その先に、朱塗りの柱があった。昨日まで、無かったはずの朱塗りだ。
咲月は目を細める。月明かりの下で、柱の輪郭がはっきりしている。まるで、長い年月そこにあったかのように、雨の筋まで染み込んでいる。
「……え?」
咲月は思わず石畳を一歩踏み出した。足の裏が、冷たい。境内の石にしては、妙に滑らかで、模様が細かい。和の紋のようでいて、どこか異国の渦が混ざっている。
戸がある。扉の取っ手は、丸い輪。咲月は札袋から祓い札を抜き、胸の前で構えた。
「夜更けに人を呼び込むような真似は……」
言いかけて、止まる。扉の隙間から漏れる光が、あまりにも温い。火の色は、赤いのに、目が痛くならない。湯気が、ゆっくりと流れてくる。
咲月は、祓い札を持ったまま、取っ手に指をかけた。戸が、きい、と鳴る。木の鳴き方は、稲荷社の古い扉より、ずっと新しい。
中は、茶の香りで満ちていた。棚には見慣れぬ器。壁には細い絵。灯は紙に包まれて、柔らかい。
そして、卓の向こうに、ひとりの男が立っていた。
男は、熱い湯を注いだばかりの湯呑みを、両手で差し出した。咲月の視線が札に落ちると、男は眉をほんの少し上げるだけで、笑いも驚きもしない。
「どうぞ。冷えるよ」
言葉は、月代の訛りに似ているのに、どこか舌が違う。咲月は、札袋を強く握った。
「……私は、ここに来るよう頼まれていません」
「頼まれてなくても、来たんだね」
男は湯呑みを下げない。湯気が、咲月の頬を撫でる。香りが、鼻の奥をくすぐる。思わず息を吸ってしまって、喉がふっとほどけた。
咲月は、祓う側だ。客ではない。なのに、先に茶を出されて、立場が崩れる。
「……勝手に建てたなら、町内会に——」
「建てた覚えはないよ。ここは、もともと“間”にある」
男は淡々と言い、卓の端に置かれた小さな皿を指した。丸い点心が二つ。片方は白く、片方は淡い金色。どちらも、今作ったばかりらしい。
咲月の腹が、きゅ、と鳴った。夜食の時間はとっくに過ぎている。恥ずかしくて、咲月は咳払いをした。
「……私は、食べに来たわけじゃありません」
「うん。祓いに来たんだろうね」
男はようやく湯呑みを卓に置いた。置き方が丁寧で、音がしない。
咲月は、視線を男の手に移した。指先に、薄い火傷の跡がある。さっきまで蒸籠を扱っていたのだろう。なのに、それを隠すでも、誇るでもない。咲月の目がそこに留まったことに気づくと、男は袖を少し引いて、火傷を見えにくくした。
その仕草に、咲月は自分でも意外なほど胸がざわついた。理由は分からない。ただ、何かが“いつもの夜”からずれた。
「あなた、名前は」
「蒼生」
男は短く答えた。咲月が札袋に印を押そうと筆を探すと、蒼生は先に言葉を重ねた。
「君は、咲月だね」
「……どうして」
「君の手」
咲月は、そこで初めて、自分の掌が淡く光っていることに気づいた。
指の付け根あたりに、青白い光が滲んでいる。咲月は慌てて掌を閉じた。指の間から、光が漏れる。熱くない。むしろ冷たい。
咲月は掌を開く。そこに、小さな石があった。淡い青白さを内側に抱いた、丸みのある石。昼間、境内の隅で拾ったものだ。落とし物だと思い、社務所の棚に置いたはずなのに……なぜか今、手の中にいる。
「……戻ってきた」
咲月が呟くと、蒼生は目を細めた。驚きではない。確認の視線だ。
「ムーンストーン。月の封の核だ。境目がずれたのは、それが——」
「待ってください。今、私は、何を見せられて……」
咲月は問い詰めたい。誰が、いつ、何のために、こんな茶楼を。そう思うのに、口がうまく動かない。香りのせいだ。湯気が喉をやわらげ、怒る勢いを奪う。
蒼生は、咲月の迷いを急かさなかった。代わりに、湯呑みを咲月の手の届くところへ、すっと寄せた。
「飲まなくてもいい。匂いだけでも、落ち着く」
咲月は「落ち着いていられるか」と言い返すつもりだった。だが、湯気が鼻先に触れ、言葉が溶ける。香りの中に、ほんの少しだけ生姜の匂いが混じっている。寒さで縮んだ指が、ふっと緩んだ。
咲月は歯を食いしばり、湯呑みに触れないように膝の上で拳を作った。
「……蒼生さん。ここは稲荷社の裏です。勝手に通すわけにはいきません」
「うん。だから君が来た。君が“通す”側だから」
蒼生は淡々と頷き、棚の奥から小さな布袋を取り出した。布は、古いのに汚れていない。袋の口に、二色の糸が結ばれている。
「その石を、境目へ戻さないといけない。戻る場所は、君の裏鳥居の先……霧の薄い道の途中だ」
「霧の道?」
「霞の路」
その言葉を聞いた瞬間、咲月の背中が冷えた。月代では、子どもが裏鳥居へ近づくと、年寄りが必ず言う。「霧が薄い夜は、同じ場所を回る」と。迷い道の話だ。昔話だ。なのに、今夜は、甘い香りと温い灯が、その昔話を現実にしている。
咲月は札袋の口をきゅっと絞った。強く結びすぎて、指が痛い。
「……私は、迷い道を使って商いをする人を追い返したことがあります。霧に足を取られ、戻ってきたのが朝でした」
言い終えると、咲月は自分で驚いた。誰にも言わないつもりのことが、口から出た。蒼生はそれを笑わない。頷きもしない。ただ、湯気の向こうで静かに聞いている。
茶楼の灯が、ふっと揺れた。外の霧が濃くなったのだろう。窓の外は白い。
咲月は立ち上がり、扉へ向かった。逃げるつもりではない。確かめるためだ。足元の石畳が、さっきより冷たい。
戸を開けると、裏鳥居の向こうは、霧に沈んでいた。さっきまで見えていた石段の端が、もう見えない。境内の木々の形も、ぼやけている。
咲月は思わず振り返った。茶楼は、そこにある。朱塗りの柱は、霧に滲んで、灯だけが浮いている。
「……戻れなくなったら」
咲月が小さく言うと、背後で蒼生が扉口まで来た気配がした。歩く音が軽い。床板が鳴かない。
「戻す。戻る道も、作る」
「そんな、簡単に」
「簡単じゃないから、茶を淹れてる」
言い方が、妙に真面目で、咲月は思わず笑いそうになった。笑ったら負けだ。咲月は唇を噛む。
蒼生は扉の外を見やり、霧の向こうへ目を細めた。月明かりの中で、横顔の輪郭だけが浮く。
「……違世界の入口、開いちゃったな」
独り言のように、蒼生は呟いた。
咲月は掌の石を握り直した。青白い光が指の隙間から漏れる。冷たいのに、心臓だけが熱い。
祓う側のはずなのに、客扱いされた。落とし物のはずなのに、手から離れない。裏鳥居の先に、昨日まで無かった茶楼が立っている。
咲月は、深く息を吸った。甘い香りの中に、生姜の匂いが確かにある。
「……明日じゃない。今夜、確かめます」
誰に言うでもなく、咲月はそう言って、霧へ一歩踏み出した。




