一 海の近い国
煌霞国は九つの州に分かれた国である。
皇都のある晶州を中心として、北から菫州、西に琥州、東に鳶州、南に墨州がぐるりと晶を囲っている。更にその外側を、北から丹州、西に皎州、東に翡州、そして――南に藍州がある。
丹を煌霞国の最北端とするならば、藍はその反対側――最南端に位置する海に面した州だ。
祝融は州外へと出るのは初めてだった。だから、海というものを見たことはない。少しばかり興味もあるのだが、今回の目的地は山村。残念ながら海は見えない。以前であれば、期待と落胆とを胸に抱いて龍の背にいただろうか。空を揺蕩う赤龍の背の上で、呆然とそんなことを考えてしまった。
住み慣れた皇都を離れ、早数日。既に、皇都のある晶州境どころか墨州の境も越えて、現在は目的である藍州の上空。
祝融の胸の内にあるのは、期待でも落胆でもなく、不安だ。
神農から勅命を受けたことはもちろん、成し遂げられるのか、呪いでないと証明できるのかとどうにも落ちつかない。
何よりも、同行者達もまた、祝融の不安の一つだった。
その一人は、朱雲景の存在。今、祝融が乗っている龍の写し身は雲景のものだ。雲景はやや前方で、赤龍の姿で何を思うともしれない。そもそも、写し身とは龍人族独特の神通力。龍へと変化する能力もまた、その一種らしいのだが――神通力の中でも、写し身は会得できない者もあると言うほど難易度の高いものなのだそうだ。しかし、雲景は難なく写し身を使いこなし、淡々と空を飛んでいる。もちろん、休憩は挟んでいるが、それでも並々ならぬ集中力なのだと、祝融は思い知らされた。
ただ、才能があるとはいっても雲景はまだ十五歳――本来であれば未成年である。巻き込んでしまったことを申し訳なく思うと同時に、巻き込ませた人物にしか頼めなかった自分の不甲斐無さに反省もした。
その巻き込ませた人物というのが、雲景の祖母――朱霍雨である。朱家当主の姉でもある彼女は、祝融が勅命を受け、手を貸して欲しいと頼み込んだところ、快諾してくれた人物だ。中年の女の顔つきは厳しく、鉄仮面ともっぱらの評判だ。気が強く、皇族だろうが物怖じせず淡々と話す上に、押しが強いので祝融も苦手な手合いである。
だからとて、姜家への忠誠心は人一倍強い人物であり、元々は軍部所属の手練れとあって心強い人物ではあるのだが――何故か孫である雲景を連れてきた。しかも、経験を積ませたいのだと言って譲らないのだから、祝融も強く言えず、今に至る。
きっと雲景は嫌だと思ったとしても何も言えなかっただろう。その心中やいかに。
鉄仮面ほどではないが、雲景は顔には出さない性格だ。何よりも今は龍の姿。嫌々なのか、無心を決め込んでいるのか、心は読めない。
――霍雨は、雲景を俺か回禄の従者にしようと考えていたのだろうが……。
雲景は優秀ではあるし、ありがたい話ではあるのだが、無理矢理というのは好ましくはない。
祝融の視線は自然と、雲景の右隣を飛ぶ霍雨へと移ったのだが……ふと、もう一人の不安……というか謎の人物が視界へと入った。それは――。
「殿下、どうかしました?」
祝融の隣――霍雨の写し身の背の上には、長い黒髪を高く結えた女が一人。淑やかとは程遠く、旅装ではあるものの男装にも等しく、褲を履いて胡座をかいている。言葉も砕けて、殿下と呼びつつも、礼儀や作法にはなれていない様子。それもそのはず、彼女は平民だそうだ。
名を、薙琳――左丞相の紹介により、此度の任務に同行してもらうことになった人物。人懐こいような顔をしているが、それなりに経験のある者とのことだった。
「……龍には乗り慣れていないだろう、大丈夫か」
祝融は何を話すか迷いつつも、何気ない程度のことしか口にできなかった。しかし、薙琳の反応は陽気なもので、
「いやぁ、すごいですよね。流石に龍に乗ったことはなかったんですけど、馬とは比べ物になりませんね。殿下もあんまり、無理しちゃダメですよ〜」
と、陽気な上に余裕である。左丞相曰く、腕の立つ人物を食客として手元に置いていたのだが、礼儀作法までは叩き込んでいないとのこと。ある程度の無礼は寛容にとも言われている。風家に見初められたということは、腕前は信じて良いだろう。祝融自身、無礼は気にしていなが、腕前だけでも風家が手元に置いておきたい人物ということだけは理解している――のだが、いかんせん、間延びした言葉尻がそれを思わせないので困ったものである。
しかし、背中の荷物の中には直刀の剣。祝融の手持ちの曲刀よりも使い込まれ、手入れもしっかりとされていた。薙琳の愛刀と見て間違いないだろうが、実力は果たして……。
「貴女は風家御当主のお抱えと聞いたが、神怪と戦った経験があるのか?」
「ありますよ。私、こう見えて獣人族なので」
ここでようやく、祝融は納得した。獣人族とは人の肉体に獣の魂が宿った者達だ。龍人族とは違い、血縁でも獣の姿は様々で、生涯をその魂と共に生きるのだとか。その多くは山々で暮らしている。
神怪が多く出現する山で生まれる獣人族は、獣と同等かそれ以上の能力を携えている――そんな話を耳にしたことがあった。
「どうして風家に?」
「まあ、色々あったんですよ」
そこまで素直に話をする気はないらしい。祝融も深入りするつもりはない。「そうか」と返すにとどまった。
さて、そのまま悠々と二刻ほど空の旅が続いた頃、ようやく最初の目的である村に一番近いとされる県城へと辿り着いた。そこで、件の責任者とされる人物と合流する手筈である。
県城内部で龍のまま降下すると、手続きやら身分提示やらが面倒らしく、城壁から離れたところで降りることが基本だということで、霍雨の言うまま北門から入ることになった。
検問は基本、大荷物を所持している場合のみ。護身用程度の武器の所持には何も言われず、祝融達は難なく門をくぐり、県城――孨二県の町の一つ児戸へと辿り着いたのだった。




