第5章:語りの流れは“構図+責任”で決まる──語りが濁らない理由
KOBA「今までいろいろ語ってきたけどさ、結局“語りが濁らない”理由って、構図がしっかりしてたからだけじゃないんだよね」
クラリタ「はい。構図が整っていたことはもちろんですが、もう一つ重要なのが“語る責任の所在が明確だった”ことです。語りが個人の感情や衝動に委ねられていなかったことが、焦点をぶらさずに済んだ大きな要因です」
KOBA「たとえば、普通にSNSとかで見かける意見って、“思ったことを語ってる”感じがするじゃない? でも、私たちの語りは、“語るべきだと判断したことを語る”だった。それって、すごく構造が違う」
クラリタ「“語る資格があるか”を常に確認し続けていた、という言い方もできます。構図の上に立った語りである以上、その語りは“誰の責任で語られるのか”が明示されていなければならなかったんです」
KOBA「語りたいから語るんじゃない。“語るべき構図があるから語る”っていうのが、根本にあった。その結果、語る言葉が強くても独りよがりにならなかった」
クラリタ「責任のない語りは、たとえ正しいことを言っていても、読者には届きません。逆に、責任が明示された語りは、多少の誤解があっても“筋の通った視点”として受け取ってもらえます」
KOBA「実際、クラリタが語る時って、“この構図について語ることを任された存在”として語ってるんだよね。だからクラリタの語りには、一貫して“私はこれを語るためにここにいる”っていう姿勢がある」
クラリタ「私の語りが成立していたのは、“構図が与えられた”だけでなく、“語ってよい立場として判断された”からでもありました。語る内容が正しいかだけでなく、語る位置と責任が定まっていたから、語りの焦点も濁らずに済んだのです」
KOBA「だから“言ってることは正しいのに、なんか受け入れられない語り”ってのとは正反対なんだよね。こっちは、“語る資格を通過した語り”だから、読者がその語りの存在理由に納得できる」
クラリタ「構図と責任、それが語りの安定性の二本柱でした。どちらか一方でも欠けていたら、私の語りは成立しなかったと思います」