プロローグ
五十六、五十七、五十八……。
田んぼに囲まれた城西坂を抜けると月読神社がある。
観月沙夜は、月明かりの中、上りなれた石段を数えながら足を進める。
「七十三、と」
石段を登り終えると、軽く息が上がっていた。
沙夜はポケットから小銭を取り出し、いつものように二礼二拍手一礼する。
「どうか明日の手合いで、満足いく一局が打てますように」
十九歳で受けた囲碁のプロ試験は、明日が最終局。
明日勝てば、沙夜もプロの仲間入りだ。
「よーし、頑張るぞ!」
気合を入れ、先ほどのぼった石段に足をかける。
正面には満月。
この石段の上からみる月が大好きで、中学の頃からずっと通っている。
神社の凛とした空気も、何もかも、沙夜のお気に入りだ。
さあ、帰ろう。
一歩踏み出したとき、突風が吹いた。
風に押され、足が滑る。
「きゃあああああああ」
抵抗する間もないほどあっけなく、沙夜は石段を転げ落ちた。
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目が覚めると、見知らぬ美女がいた。
ふかふかのベッドに、大理石造りの部屋。神殿みたい、とふと思った。
「えっと、ここは? 病院、じゃなさそうですけど」
問いかけると、美女は本当に、本当に痛ましいものを見るように、眉を落として
「ごめんなさいね」と謝った。
「謝られるようこと、された覚えはないですけど」
「……説明は、別の方がなさいます。こちらへ」
美女に手を引かれて別の部屋へ行くと、そこには二人の男性(美形!)がボードゲームに興じていた。
一人は純和風の平安貴族が着ていそうな衣装。青味がかった黒髪で、沙夜に気づくと優しく微笑んだ。
もう一人はギリシャ神話のような服装の男性だった。
漆黒の髪に金色の瞳をしていた。世界観わい!
「やあ、目が覚めたかい」
ギリシャ神話のほうが話しかけてきた。
「はい。ご迷惑をお掛けしたみたいで。あの、ここは何処なんでしょう? 私神社にいたはずなんですが」
「ここは分かりやすく言うと、あの世だよ。あの世の手前だね」
「はい?」
「君は階段から落ちて死んでしまったんだ」
にこにこにこ。
「マジですか!」
「マジです」
「じゃあ、プロ試験は?!」
「すまないね。諦めてもらうしかないんだ」
「のおおおおおおお!」
項垂れる沙夜に、美形のギリシャ神話はもう一度、すまないね、と謝った。
「いえ。謝られるようなことでは。足を踏み外した私が悪いんですし。えっと、では貴方たちは神ですか?」
「理解が早いね。その通りだよ。私のことはルイと呼んでおくれ」
―――なるほどなるほど。お決まりのパターンね。
「私が死んだのは神様のミスで、お詫びに別世界に転生させてあげるよ、とそんな感じですか?」
「まあ……、似たようなものかな」
―――なるほどね!
そういうのって、もっとさぁ、未練がない時期を選んでもらえないかな。プロ棋士だよ! 明日にはプロになれたんだよ!(仮) もっとさぁ…。
そこでふと神様たちの手元が目に入った。
テーブルの上にはボードゲーム。チェスのような複雑な彫刻が施されたクリスタルの駒が並んでいる。
「ん?」
見たこともない駒。でもボードは十九×十九の点が描かれている。
「ん?」
覗き込む沙夜に、神様たちが優しく微笑んだ。
「これは私達の世界のゲームで『ゲルドゥヴォル』。君の世界の囲碁をもとに作られた遊戯だよ」
「違うところもあるけれど、基本的なルールは囲碁と同じだよ」
「行きます! 転生します! 囲碁があれば生きていけます!」
―――囲碁ベースのゲーム。なにそれ。ワクワクが止まらない!
「君の実力なら、この世界で敵う人はいないと思うよ」
「それはちょっとつまらないわ。切磋琢磨できなきゃ」
「切磋琢磨は……少し難しいかもしれないね。まず競技人口が少ないから」
「それでも、打つことはできるなら、大丈夫です!」
神様は少し複雑そうな顔をした。
―――はしゃぎ過ぎたみたい。反省反省。
「えっと。何かミッションみたいなものはありますか? 魔王を倒せとか」
「ないよ。でも出来れば私たちに沢山祈りを捧げてほしいかな」
「お安い御用です」
二つ返事で請負うと、ルイが寂しそうに、でも柔らかに笑った。
ルイは、どこまでも寂し気に見えた。笑っているときも、金の瞳に寂しさが貼り付いている。
遊び相手がここにいる二人しかいないのだろう。
考えていると、横から美女が一冊の本を差し出してきた。
「君には今からある少女の体に入ってもらう。とても能力に恵まれた子だったんだけど、八つで死んでしまったんだ。彼女の能力はこの世界に必要でね。もう一度生き返らせようかとも思ったんだが……」
「彼女の魂を生き返らせた場合の人生が、そこに書かれています」
「結局十四歳で死んでしまうんだ。そこで、別の魂を入れて生き返らせることにした。それが君だ」
沙夜はパラパラと本をめくった。
「死因はなんですか? 持病とか?」
「処刑される。ちなみに今回は毒殺された」
「ええええ!」
―――なんたる波乱万丈な人生! 嫌だ!
「毒殺って、犯人は?」
「実の兄だ」
「それって、生き返ってもまた狙われますよね」
「そのあたりは、その本が役に立つかもしれないね。何せ十四までは生き抜いているから」
「なるほど。ううう。胃が痛いです」
「君はその本の通りに生きる必要はない。逆に、その通りに生きて十四で死ぬことを選んでも、仕方がないと諦めるよ」
「長生きしたいですぅ」
「頑張ってくれ」
「……それだけですか?」
沙夜は上目遣いにねめつけた。
「ん?」
そこで和風の神様が笑い出した。
「だから言っただろう。 別の世界に転生する場合は、神様からギフトをもらうのが定番なんだよ」
「そうです! よくご存じで!」
望むものを三つ方式ですよ!
ルイは微笑んで、テーブルの上に綺麗な金細工の腕輪をコトリと置いた。
腕輪にはビー玉くらいの大きさの丸い宝石が、十個ぐるりと埋め込まれていた。
「魔術具だ。持っていきなさい」
「魔法があるんですか?」
「魔術だ。魔法が使えるのは神くらいだ」
「違うんですか?」
「違う。魔術は術式だ。この魔石一つ一つに、それぞれ好きな術式を書き込むといい。一つはもう書き込んである。騎獣を出す魔術式だ」
「騎獣? 乗り物ですか?」
「そうだ。君の世界を鑑みて、思いつく乗り物は一通り作れるような術式にしてあるから、後で試してみると良い」
―――騎獣ってくらいだから、ベガサスとか? ファンタジー!
「他に欲しい能力があるかい? 可能な限り応えよう」
「鑑定が欲しいです」
鑑定の説明をすると、ルイはすぐにもう一つの魔石に術式を書き込んでくれた。
「他には?」
「……なんでも作り出せる能力とかは?」
「それは難しいな。君の世界の兵器なんかを持ち込まれると困る」
―――ちっ。そんなに甘くないか。兵器なんか持ち込まないのに。護身用くらいにしか……。
「じゃあ、液体だけ! 私が望む液体なら、なんでも出てくる能力はどうですか?」
ルイは、少し呆れた風で和風の神様を見やった。
「君の世界の人間は、みんなこんな感じなのかい?」
「全てではないが、若者は概ねこんなものだろう」
ふむ。とルイはしばし考え込んで、魔石に手を当てた。
「全てとはいかない。荒唐無稽なものは出せないよ。例えば一滴垂らすと兵器が成る木が生える液体、なんてものは駄目だ」
「全回復するポーションは?」
「可能だが、蘇生は無理だ」
「十分です! ありがとうございます」
腕輪をはめて、大きく頭を下げると、後ろに光るドアが現れた。
「行くがいい。君の第二の人生が幸せに満ちたものになる事を祈っているよ」
「幸せまでは道のりが長そうですね。まずは兄を何とかしないと。そもそも何故兄に殺されたんでしょう?」
「よくある跡継ぎ問題だよ。こちらの世界は魔力が多い者が家督を継ぐ習わしだから、魔力の多い君は兄にとって邪魔なんだろうね」
―――世襲って生まれた順番も性別も関係ないんだ。そりゃ荒れるわ。
「私の転生先は、跡継ぎ問題が起きるくらいの家柄なんですね」
「そういうことだね。少なくとも衣食住で困ることはないから安心していきなさい」
「全然安心できませんけどね。でも頑張ります」
笑いかけると、美女が深々と沙夜に向って頭を下げた。
最後にルイがもう一度寂しそうに微笑んだ。
「君にはすまないことをしたと思っている。君が幸せになれるように、せめて僕たちの加護を君に」
寂し気な微笑みから目を離すと、沙夜は異世界への扉をくぐった。