閑話 舞い降りた奇跡
その日は朝から土砂降りで、町の中でさえ雨水が下水道から溢れ出ていた。四月下旬である。まだ春先の寒さが残る中、滴る雨は極度に体温を下げ、道路に溢れた雨水で冷えた足先はガチガチとなり、歩くのも億劫になる天候だった。
それでもエミリア公国首都フェルシナほどの大都市ともなれば寄るべき旅人は数知れず、城門では複数の門番が忙しなく動き回っていた。こういった日を狙って盗賊の類は町に侵入しようとするので付近の警戒に余念がない。外から来る旅人を見据える視線は普段よりも厳しく、少しでも不審な行動が目に付けば有無を言わさず拘束していく。
ただ一方で、武装を固めた衛兵たちは皆泥濘に足を取られぬよう門の内側に移動していた。町の外へ抜け出す者より入る者を警戒するという上からの方針であり、それは極めて合理的な手法であったのだが、城門の外側の警備は手薄とならざるを得ず、一部の者からすれば絶好の機会となる。
「いよいよだけど、お腹は大丈夫か? スンナ」
「どうもこうもないでしょ。ここに居たってお腹の赤ちゃんは死ぬしかないんだし」
ここしばらくフェルシナの傭兵ギルドに滞在していたセアールとスンナの二人にとっても、この豪雨はまさに待ちに待った大チャンスであった。
昼でさえ視界が遮られるほどの大雨ならば、人の目に触れられる可能性はかなり低くなる。
「それにしても城門を堂々と抜けるなんて考えもしなかったわ」
「門番はどうしても外の連中に釘付けになるからな」
門番には傭兵ギルドからの日雇い労働も多い。特にこんな土砂降りの日はただ濡れるだけで実入りの少ない仕事など誰もしたがらないのだ。町に入る者はこれから税金を支払うので目こぼしによる謝礼が期待出来ても、出ていく者からの徴収は大変なだけで旨味は全く無い。
その裏を付く――。
傭兵ギルドの知り合いに渡りをつけ金を支払う事で、二人はまんまと城門から脱出することに成功したのだ。
大雨で視界が悪い中さっさと街道を逸れて森の中へと身を隠し、ようやく二人は安堵の息を吐く。そして視線を交わすと笑顔で喜び合うのだった。
だが、そのまま東へ向かおうとした二人は予想だにしない不運に見舞われる。
森の中を敵対する魔道師ギルドの連中が闊歩していたのだ。
こんな土砂降りの中、連中が何をやっていたのかは分からない。ただ見てはならないものを見てしまったのか、魔道士たちは有無を言わさず臨戦態勢を取って襲い掛かってきた。
普通ならば体力で劣る魔道士連中に後れを取る事など無かっただろう。だが、スンナのお腹には赤子がおり、セアールはそれを守りながら戦わなければならなかった。
魔法に長けた相手には先手必勝が最も有効で、時間を与える事こそ一番避けなくてはならない。
だがセアールは迷ってしまった。
その躊躇が取り返しのつかない状況を生んでしまう。
「死ね! 火の玉魔法!」
魔道士たちは懐から魔石を取り出すと一斉に魔法を放ってきた。
ぬかるんだ土の上で、しかも身重のスンナでは満足に避けることが出来ずその直撃を受けてしまう。
「スンナ!」
すぐに軽装のスンナの身体を支えたセアールは、必死で魔法を避けながら街道へと逃げていく。
「逃すな!」
「半数は遠隔射撃! 残りの者は後を追え!」
森の中、しかも土砂降りの中で火属性を使ってきたことから、魔道士たちの繰り出す魔法にそこまでの柔軟性は無いのかもしれない。だが、それでもグッタリしているスンナを見れば警戒を怠ってはならないレベルである。
「ごめんね、セアール。油断した」
「気付いたか、スンナ! 動けそうか?」
「うん、何とか頑張れそう」
黒髪を乱しながらも必死の形相で立ち上がるスンナの瞳にまだ諦めの色はない。それこそ母となる女性の強さを見たセアールは自分の不甲斐なさを恥じ、遅まきながら決意を固める。
「とにかく逃げろ、スンナ。後は何とかする」
「セアールはどうするのよ!」
「俺は……大丈夫さ」
「バカッ! 大丈夫なわけないじゃない!」
悲鳴にも似たスンナの言葉にセアールはニヤッと笑い、そして彼女の身体を軽く押し出した。
「行け。最後にお腹の子を守れるのはお前だけだ」
「……っ、絶対に諦めないで」
お腹の子の事を指摘されたスンナはすべてを飲み込み、臍を噛む。だがお腹を一撫ですると、意を決したように頷き駆け出していった。
それを見たセアールはなんとも言えないため息を吐いた後、羅刹となって突撃を開始する――。
それからのスンナの足取りは早かった。
本当に身重なのかと思うくらい機敏な動きで大地に根差した木々の幹や側根を次々と飛び越えていく。雨水が流れ滑りやすくなった土はドクトゥール・ル・ジェアの如き強靭さで踏み抜き、迫りくる追手の火の玉魔法はアハルテケの如き軽やかなステップでかわしてゆく。
だが彼女の突進っぷりに面食らった魔道士たちは形振り構わない行動に出た。狙いをスンナから森の木々へと変え、雨脚に負けないほどの魔力を一気に注ぎ始めたのである。
スンナも必死なら魔道士たちも必死であった。
それだけの秘密がここにあるのか。
スンナの心に一瞬の戸惑いが生まれ――その隙を、転げ回らんばかりに猛烈な勢いで接近して来た魔道士の魔法がついに捉える。
「グッ……」
背中でまともに受けた炎の塊がびしょびしょに濡れた服を一瞬で燃やし尽くし、そのまま皮膚を焼き付けた。スンナはあまりの衝撃に息も出来ず吹っ飛ばされ、そのまま地面にたたきつけられる。
激突の瞬間なんとか身体を捩じらせお腹だけは守ったものの、魔法のダメージは表面だけにとどまらない。身体の内側もかなり影響を受けたのか、いつもならば激しいほどの胎動がまるで感じられない。
「ごめんね……私の大事な赤ちゃん……」
この子がいる限り諦めるわけには行かない、とばかりにスンナは歯を食いしばって起き上がろうとした。だが、こみ上げる血の味でむせ返り、そのまま近くの木の幹にもたれ掛かってしまう。
雨は冷たく降り注いでいるのに、身体が無性に熱い。
ふと見渡せば、降り注ぐ雨脚はいっそう激しさを増し、一時森を炎の海へと変えた火の属性魔法をあっという間に沈静化させていた。ブスブスと焦げた臭いが鼻につくのだが、気を抜くとすぐに気を失いそうなのでちょうどよい。
まだ魔道士たちは追いかけてきているのだろうか。
セアールはまだ戦っているのだろうか。
「私は……」
スンナの目から涙が零れ落ちる。
意識が遠のきそうだった。
その時――。
不意にスンナは身体の中からあたたかくて全てを包み込んでくれるような何かを感じた。
最初は、まだ小さな光だったかもしれない。
けれどそれはだんだんと力を増し、やがて奇跡の光となってスンナの身体の痛みを消し去ったのである。
「……引け」
「し、しかし!」
「ならん。あの魔力量は尋常ではない。もはや気付かれたであろう。事ここに至って優先すべきは痕跡を消すことだ」
遠くの方で魔道士たちの慌てた声が聞こえる。
気付かれた、というのはおそらく感知魔法の事だろう。この場所はエミリア公国とウィンニーリー王国の間に位置するいわば緩衝地帯であり、大きな魔力を発すればたちまちのうちに両国から認識されることになる。
もしかしたら、あの魔道士たちは両国の関係を壊す為に何か細工でもしていたのかもしれない。
「だとすれば、安心……ね」
逃げ出す魔道士たちを見たスンナは緊張の糸が切れたかのようにそのまま意識を失ってしまう。だが土砂降りの雨が身体を冷やし続ける中、彼女はエミリア公国の衛兵たちによって見つけ出され一命を取り留めた。それが幸運だったのかどうかは分からない。けれど死すべき運命だった赤子の命が助かったのは紛れもない事実であった。
それから二か月後の六月中旬。
一人の玉のような男の子が生まれた。
スンナはその聖なる光に奇跡を見たとして生まれた子供にセイと名付ける。
そして赤子はすくすく成長し、やがて六歳の日を迎えることになる。
次回は6月25日までに更新予定です。




