第一章 第2話 『プロローグ2 胸の痛みと血の匂い、それは突然現れた』
俺は秋斗。俺の左目の中にいる得体の知れない物はクロ。黒くて闇みたいにもやもやしているからという理由でまだ俺が小さい頃にクロと名付けた。
赤ん坊の時からアキトの左目の中にはクロがいた。もの心がつきアキトが話せるようになってからクロはよくアキトに話しかけてくるようになった。クロは直接アキトの頭の中に語りかけてくる。他の者には干渉しようとはせず何故かアキトにだけ色々と聞いてきた。
クロが住んでいるアキトの左目は光を写さない。全く見えないというわけではないが視力は限りなくゼロに近いためもう見えていないのとあまり変わりはなかった。
クロという存在はアキトにとって家族と同じだ。逆にアキトには血の繋がった家族がいない。赤ん坊の頃に森の中に捨てられていたのを運良く見つけられたらしい。拾われたアキトはそれからずっと孤児院で育てられた。赤ん坊であれば里親が見つかりやすいが片方の目が見えないアキトには申し出る者はいなかった。
それでもアキトには愛をくれる人がいた。孤児院の園長だ。彼女はアキトにとって家族であり祖母であり母だった。アキトの全てを愛し慈しみ育てた。アキトがクロのことを初めて話した時も驚いた顔を見せたが他の者のように拒絶しなかった。ただ優しく抱きしめて『大丈夫だよ』と言った。その時に他の者には話さないように言われアキトはその約束を守っている。初めはどうして言ってはいけないのか分からなかったが今では分かる。自分は普通ではない、明らかに異質だ。他と違えば当然のように拒絶される。約束させられた時は分からなかったが、ただ園長の頬を伝う涙を見てもうクロのことを口にしてはいけないと幼心にも感じた。
クロもそれを分かってかなるべくアキトだけの時にしか話しかけてこなくなった。クロもクロなりに気を使っているらしい。
だからアキトは他に変わったことが起こっても誰にも言わなかった。もちろん園長にも。園長の涙を見るのは嫌だった。彼女にはいつも笑顔でいて欲しかった。
「今日は光が異様に騒いでる。何かあったのかな・・・」
アキトには人には見えないモノが色々見えた。それは日常のどこにでもいて消えたり現れたり、綺麗な音を出す者もいれば遊ぶようにアキトについて来るモノもいた。それらは拳大くらいの光の玉で触れるとすこし暖かいような気もした。
『ーーーーーーーー早く家に帰ろう、アキトーーーー』
「どうしたのクロ・・何かあった?」
クロがそんなことを言うのは初めてだった。しかも声の中に緊張を孕んでいる。アキトにもそれが強く伝わってくる。クロとアキトの絆が強い分互いの気持ちも伝わりやすかった。
『ーーーーーーーー家の方から血の匂いがするーーーーでもーー悪い予感もするーーーやっぱり帰っていいのか分からないーーーーー』
クロがこんなに動揺しているのは初めてだった。何かを感じるがそれが上手く説明できない。そんなもどかしさに苛まれていた。
「ーーーー血ってーーー」
アキトの胸が氷水が流れたように冷たくなる。アキトは走り出した。何だか分からないが嫌な予感がした。それはクロを通してなのか自分自身が感じているものなのかは分からない。ただ早く家に帰らなければと感じた。あそこにはかけがえのない家族がいる。血の繋がりは無いがそれ以上に大切な家族がいる。沢山の兄弟と優しい母が。首にかけた紐のネックレスが揺れた。唯一アキトが捨てられていた時に持っていた物だ。
こんなに必死に走ったのは生まれて初めてで喉の奥や胸がズキズキ痛んだがそんなことは気にならなかった。その時アキトは気づいていなかった。孤児院に近づくほど光達が少なくなっていることに。
『ーーーーーーアキト、彼らがそっちに行くなって言ってるみたいだーーーーーー』
数個の光の玉がアキトの周りに集まってくるくると回りながら飛んだ。アキトが止まらないと顔の前に飛び出してくる。
「分かってる、分かってるけど行かなきゃならないだろ!家には家族が沢山いるんだ、母さんも!だからどいてくれ!!」
まとわりついてくる光達を手で払い除ける。それでも光達は諦めない。足を止めないアキトにすがりつくように警告を知らせ続けた。
孤児院の前が大騒ぎになっているのが遠くから見えた。何台もの救急車に警察車両、数えきれない野次馬達、数人がスマホで写真を撮っているようだった。人混みを割るように掻き分けて進む。嫌な予感はもう現実味を帯びていた。
「君!危ないから下がって!」
警官が立ちはだかる。孤児院の前にいる警官は何人もいて野次馬やマスコミを中に入れないように必死の様子だ。アキトは目の前の光景に目を見開いた。孤児院の敷地内のあちこちで血を流して倒れている兄弟達。そこに駆けつけた救急隊が応急処置を施していた。
「ーーーーくそ、この子も駄目だ。次の子を診る」
倒れた幼い体にバザリとシートが被せられる。同じようにあちこちでブルーのシートが広げられていた。シートの下は人の形に小さく盛り上がっている。
「ーーーーぁーーーーーー」
『ーーーーーーーーアキト、しっかりしろーーーーアキトーーーー』
クロの声が遠く聞こえた。冷たい土の上に投げ出された兄弟達の体は不自然に曲がり、折れて深い赤い海に沈んでいた。シートからはみ出した小さな手は力なく動かない。でも微かに赤みを帯びていた。
ーーーーあの手はーーーー
力が抜けて呆然と立ち尽くす。周囲の喧騒やサイレン、警官や救急隊が怒鳴る声がアキトの中で渦を巻いた。
ザザッ、と警官の無線が鳴る。
「至急至急!!ーーーー中に何かいる、応援を要請する!ーーーーこちら生存者を確認したが近寄れない!ーーーーっひくーーうわぁあんーーたすけてぇーーーー」
無線の向こうで子供達が泣いている声が微かに聞こえた。野次馬を抑えていた警官が数名動き出す。アキトは緩くなった規制を押しのけて施設内へ走り出した。直ぐに近くにいた警官が捕まえようと手を伸ばすがその手は虚しく空をかいた。後ろからアキトを制止する声が響くがアキトの耳には届かなかった。施設内を駆け抜け鳴き声が聞こえる方へ。
ーーーー早く、早くっーーーーーーーー
園内も血の海でそこら中にちいさな手足が転がっていた。外よりも酷い惨状に胃の中から上がってくるものを吐き出したい衝動に駆られる。壁や天井に飛び散った肉片。引き摺り回された後ーーーー。アキトの目に涙が溜まって次々と零れ落ちる。
『ーーーーーーアキト、ここに居てはいけないーーーー」
ーーーーーー分かってる、けど助けを求めてるーーーー
『ーーーーーー行けばアキトが死んでしまうーーーー』
ーーーーーーそれでもいいーーーークロ、ごめんーーーー
アキトの心はずたずただった。何が起こっているか分からないが大切な妹や弟達は死んでしまった。でもまだ生きている兄弟がいる、そして助けを求めている。行かないなんてことはできない。アキトはこの孤児院で最年長。弟や妹達はまだ幼かった。小さい兄弟達はよくアキトに懐いていた。クロはアキトの気持ちを感じとったようで暫く黙ってから言った。
『ーーーーーー分かったーーーだから私のことは気にしないでいいーーーーー』
と。
アキトが死んだらアキトの中にいるクロも多分死ぬ。それはお互い分かっていた。そしてクロは分かっていた。アキトがクロのことも思って涙を流していることを。
『ーーーーーー私には分からないーーーー』
クロにはその意味がよく分からなかった。アキトの気持ちが分かってもどうしてそういう思考になるのかクロには理解できなかった。だからアキトに問う。
『ーーーーーー私を思って何故泣くのかアキト、教えて欲しいーーーーーー』
涙を流しながらアキトは少しだけ笑った。
「当たり前だろ、クロは俺の大切な家族だ。だから涙が出るんだよ、家族が傷ついたら悲しいんだ。さっきだってクロが俺を助けてくれただろそれと同じさ」
『ーーーーそうか』
ガシャンッ!!
目の前の部屋からガラスの破片と共に警官が吹き飛ばされた。絶命しているのは明らかだった。アキトは警官が握っている警棒をとった。拳銃は真っ二つに切れて転がっていた。警棒も先端が切れていたがこちらはまだ使えそうだった。できれば足掻いて皆んなを助けたい。
警官が吹き飛ばされてきた部屋へ進む。まだ小学生にならない幼い兄弟達の部屋だった。部屋はめちゃくちゃに荒らされ隅に何かが動いていた。
「アキトーーーー!逃げなさい!!」
「母さん!!」
蠢くモノのすぐ近くで小さい兄弟達を自分の背に庇う園長の姿があった。パキッと何かが砕ける音とぐちぐちと何かを食む音がその黒い塊から聞こえた。
「ーーーーたぃーーーーーーぃたいょぅーーーー」
「!!ーーーーッ」
何かではない。誰か、だ。黒い塊の下から小さな足が揺れている。喉の奥に重いものが沈んで胸につっかえた。
「ーーーー春香!!」
気づいたら黒い塊に向かって飛び出していた。何の考えもない。一直線に突っ込んだ。闇のような大きな背中はアキトを振り替えらない。目の前の食事に夢中なのだ。
「アキト!駄目よ!逃げなさい!!」
園長が叫ぶ。しかしアキトは止まらない。否、止まれない。目の前で家族が喰われてるのだ自分だけ逃げるなんて出来ない。
欠けて先の尖った警棒を黒い何かに向かって突き出す。
ーーーーーーーーガキーーッン!
「何でーーーー・・」
虚しい音を立てて警棒は完全に折れた。何かにはかすり傷一つない。何かは自分に当たった小さな衝撃に気づき巨大な背中が振り向く。
それは大きな馬のような狼のような生き物だった。耳まで裂ける大きな口にはびっしりとギザギザした歯が並び全身を包む毛は鋼のように固く尖っている。ギラギラとした目は深い赤と黒。尾は蛇のように鱗があり二股に分かれその先にも歯が生えていた。アキトはこんな生き物を初めて見た。それと同時に地球上の生き物ではないことは直ぐに分かった。
『ーーーーオマエか、美味そうな匂いを出してたのはーーーー』
ぼたりと牙の間から赤い肉が落ちる。喰われていた子供はもう動いていなかった。
ーーーーグチューー
『アジミ』
「ーーぁ」
気づいたら横腹に化け物の尾が喰らい付いていた。鋭い牙はアキトの肉を深く抉ぐる。
「あぁあああ!!」
『ーーーーーーーーーアキトッ!!!ーーーー』
クロがアキトの目の中で叫ぶ。
『こりゃ絶品だ』
化け物はもう一つの尾でアキトの体を縛り付け持ち上げる。尾はアキトが動かないように強く締め上げた。
「ぐっ・・」
『ーーーーアキトーー!』
クロの叫びと共に化け物の尾の力が少し緩む。化け物は怪訝な顔をして思い立ったように口を開いた。
『あぁ、お前魔力持ちか!なるほど。でもこんなに美味そうな匂いのやつは初めてだ。お前は何か違うな何が違うんだろうなぁ。まぁ喰えば分かるか』
化け物は再びぎゅっとアキトを締め付けた。
『ーーーッーー私の力ではーー』
『おお。そんなに頑張るなよ。無駄無駄無駄』
化け物は見るからに上機嫌になっていた。生きたままどこから喰うか決めかねている。
『頭からいくか、それとも腹わたにかぶりつくか・・手足からいってメインは最期にするか・・どうする』
『ーーーーなぁ、泣き喚いてくれよ、他の餓鬼みたいにーーーーオレは踊り食いが好きなんだ、なぁ?』
ーーーーこいつに皆んな殺されたのか。
アキトは化け物を睨む。化け物の歯には小さな肉片が詰まっていた。あの一つ一つが兄弟達の体の一部なのだ。でもアキトには何も出来ない。背後から向かって傷一つつけられなかった。仇を討つなんて到底不可能なことだ。
『ほら、鳴けよ』
尾が足を喰う。
「ーーぐっ、ぅぅ・・」
叫んでしまいそうな激痛を唇を噛んで堪える。生理的な涙が流れる。
少しでもこいつの思い通りになりたくない。アキトは化け物の横で涙を流している園長を見る。園長は三人の幼子を胸に抱きしめアキトを見つめていた。
ーーーー母さんーーにげてーーー
目を入り口の方へ流すと園長もアキトの考えを理解したようだった。大粒の涙を流すと腕の子供達を力強く抱き寄せる。
園長は3人を抱え走り出した。気づいた化け物が尾を伸ばす。
『待て、前菜!』
最後は投げ出すように部屋の外へ子供達を放った。床へ転がった園長の体に尾が突き刺さる。
「ぅぐーーーー逃げなさいっ!!!」
ありったけの声で叫ぶ。部屋の外に転がった子供達は我に返り泣きながら走り出す。
『おうおうおう、やってくれるねババアよぉ』
化け物はアキトを捕まえたまま園長に近づくと巨大な足で何度も踏みつけた。
『美味くないババアが!何してくれてんだ!あぁ?』
「やめろ!やめてくれぇええ!!」
アキトは叫ぶ。
園長は弱々しく動いてアキトを見た。
「ごめんねーーーーアキトーーーー」
グシャーーーーーー
「ぁ、ぁ、ぁ、あぁあぁああああっ!!!」
『げぇ、足に付いた』
化け物は足に付いた肉片を床で拭う。
「・・お前ーーーー絶対に許さないーーーー!」
頰を尾で殴られる。
『今にもオレに喰われそうなのに何言ってんのオマエ』
アキトの目から次々と涙が溢れ落ちていった。悔しくてたまらない。この化け物の言う通りで口以外のどこも動かない。吠えるだけの犬だ。噛み付くこともできない。悔しい、悔しい、悔しい。
その時だった
光の玉が化け物の目にぶつかった。それもいくつも集まって何度も体当たりを繰り返した。
『なんでこいつらがここにいるんだ!どけ、邪魔だ』
払った爪と大きな光の玉がバチィと大きな音を立ててぶつかった。
刹那、空間が歪む
衝突した箇所からバチバチと空間に亀裂が生じた。
歪みは化け物ごとアキトを飲み込んでいく。
『まだだ!こんな世界二度とない!オレはこっちにいたい!連れてくな!!』
化け物は亀裂から抜け出そうともがくがゆっくりと飲み込まれていく。
それはアキトも同じで化け物と共に飲まれていく。光の玉が分散してアキトを引き戻そうとしたが意味をなさなかった。
アキトの意識は既に朦朧としていた。血を流しすぎた。このまま訳もわからず死ぬということは分かった。それでいいのかもしれない、家族は死んだ母さんも。皆んなこいつに喰われた。
ーーーーーー皆んなーークローーーごめんーーー
涙が頰をが伝う。
『ーーーーーーすまないーーーーーー』
クロが静かに言った。
アキトは意識を失った。
「ーーーーーーーーッーーーー!!!」
空間の割れ目に飲み込まれる一瞬だれかがアキトを呼んだような気がした。