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想いは蜃気楼のように

作者: 平野雄隆

 ふー、仕事が一段落してふと壁に掛かった時計を見ると六時二十分を回ったところだった。


「久しぶりに仁志野でも誘ってのみに行くか」


 そう思い立ち携帯の電話帳を呼び出し通話ボタンを押した。

 長い呼び出し音の後に、のんびりと間延びしたような声が響いた。


「はい、仁志野精機です。てか真野かどうした?」


 会社の名前を名乗った後にそんな砕けた口調になるなら最初から名乗る必要はないのだが、というより携帯に名前が出てるのだからとも思う。

 そんな真野の心の声が聞こえたかのように仁志野がゆっくりと言った。


「親友と言っても一応うちに仕事くれる顧客でもあるから、やっぱ名乗るべきかなって」


「そんなものかな」


「そんなものだ」


 同じ工業高校を卒業した親友と俺は卒業してから別々の会社に就職したが、五年後に会社を立ち上げて、お互いに仕事を回し合うようになっていた。その独立は高校の時からの約束で、仁志野は機会加工を俺は鉄工所になったことで頻繁に会社にも行き来するようになり、のみに行くことも増えた。


「まあ、それはいいんだけど今日の夜は空いてるか?」


 仁志野は、少し間があった後に今から大問題へと発展するあの言葉を発した。


「まあそれは大丈夫なんだけど……」


 何だか歯切れが悪い。というよりそれは喋り方がそう思わせるだけなのかもしれないが、

「どうかした?」と俺は何気なく言った。


「あの時の話なんだけどさ」と仁志野は話を切り出す。


 俺は頻繁に顔を合わせていたのでどの時の話なのか全く思い出せないまま何となく、うんと空返事をしていた。


「真野、俺やっぱり、しんでいいと思うんだ」


 その言葉に俺は心臓を鷲掴みにされたようにぎょっとした。


「しんでいい?」


「そう、しんでいいと思う」


「ちょっと待って、それは駄目だろう」 


 俺は冗談だと思いつつもその真面目な声音に背中がひんやりとしていた。


「えっ駄目かなあ、寿命のこともあるし、しんでもいいと思うんだけどな」


 一体仁志野は何を言っているのだろう。寿命? 俺たちはまだ二十代でそんな先がない訳でもないだろうに。死んでいいなんて、ひょっとして会社が上手くいっていないのだろうか。資金繰り? 従業員? 確かに俺も社長になってその辺りには悩まされている部分がある。

 会社の取引は、掛けで受けることも多いのだが、目先の現金が必要なことも多い。今している仕事の材料は現金払いなのに、その仕事の支払いは納期から五ヶ月後なんてのもざらである。資金繰りには悩まされることも多かった。そして従業員は、仕事量が増えると文句も増え、忙しいのに作業効率は反比例してどんどん落ちるのが、社長としてはもどかしくもあった。そんな毎日に息詰まってしまったのだろうか。親友としてそれは放っておくことは出来なかった。

 しかし、あの時の話とはそんなに深刻な問題だったのか。あの日も俺たちは居酒屋のカウンターで一緒に酒を酌み交わしていた。頻繁に会っているとはいえ、死にたいだなんて話をするようなことはそうそうなかった。大抵は仕事の話や昔を懐かしむような話が酒のつまみだった。



 

 あの日、確かに仁志野はいつもよりも酔いが回っているようで、そして愚痴のようなものをこぼしてはいた。


「なあ、真野。人生って一体何なんだろうな。楽しいことだって確かにあるし、今だってそうだ、お前と一緒に酒をのんでるのは楽しいし、一緒にって訳じゃないけど、仕事のパートナーとしては最高なんだろうなって思う」


 そう言うと、仁志野はどんと半分以下になったビールジョッキをカウンターに振り下ろした。カウンターの中の大将と目が合い、俺は軽く頭を下げた。

 そのまま仁志野は続ける。


「苦労することが嫌なんじゃないんだ。日本はずっと不景気で、特に俺たちみたいな中小企業の製造業は、蔑ろにされている。日本の半分以上は中小企業なのにだ。働いても働いても楽になるわけじゃないし、むしろ仕事が増えてるのに利益率は下がっているよな」


 俺を見つめる仁志野の目は据わっているのか細く窄められている。


「確かに楽じゃないよな。見積もり取ったって、どこも仕事がないからどこもどんどん値段を下げてくるし、ちょっと大きな会社には全く値段で適わないもんな」


「そうなんだよ。経費を節約してとかで値段が安くなるんじゃなくて、利益がとんとんでも仕事がなくて遊ぶよりはってだけで値段が下がる」


 俺はそうだというように無言で頷く。


「それじゃ老舗には適わないんだよな。俺たちみたいなぺーぺーの会社はまだ機械の借金だって返さなくちゃいけない、特にうちは機械加工だから、そこはケチるわけにもいかないし、なあ?」


 それは確かに一理あった。俺の会社は鉄工所だから、少ない機械でも工夫と外注で何とかなっているが、仁志野のところはそうはいかない。機械がないと仕事にならないのだ。機械加工は出来るのか出来ないのかだから、多くの仕事をこなすためには多くの機械と新しい機械が望ましいのだ。コンマ一の精度は人には出来ないのだから。そういった意味で仁志野は俺の会社より経費が大きいはずで、資金繰りも苦しいのかもしれない。


「だから、何か頑張っても人生って豊かにならないのかもしれないって最近思うんだ。親父は真面目に頑張れば豊かになるなんて言ってたけど、最近は楽して億万長者なんて人間がもてはやされる時代だしよ」


 そして仁志のはうなだれ、最後にこう言った。


「死んだ方が楽なんじゃないのか、楽って楽しいって漢字と同じだし」


 返す言葉が見つからず、俺は沈黙していた。少しの間があって、言葉をなんとか振り絞ったが、仁志野からの返事はその日、返ってこなかった。気づけば寝息を立てていたからだ。

 

 恐らくその日のことを言っているのだろう。そのあの時のことを思い出していると、電話越しにかさかさと何かが擦れる音が響いてきた。


「仁志野何してるんだ」


 まさか死ぬ準備をしているわけではなかろうが、俺の声は怯えるように震えていた。

 あー、うん、と空返事で仁志野が答える。


「ちょっといい考えがあって、吊ってみようかなって思ったから、一回紙に絵を描いてみようかと」


 俺は電話を耳に当てたまま、心臓と同時に身体まで飛び上がった。まさか吊るって首のことじゃないのかと思ったのだ。


「吊っちゃ駄目だ」


 動悸が激しくなり、手に汗を握り声も大きくなっていた。


「早まっちゃいけない」


 電話越しなのが、苛立たしくなってしまう。目の前にいたなら絶対に止めさせるのに、と。


「どうしたんだ、大声だして」


 仁志野はやっぱり間延びしたような声で言った。

 俺はそれに益々苛ついてしまう。どうしてそんな重要なことを言っておきながら冷静なんだ。自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。もしかして思い悩みすぎて気が動転しているのかもしれない。と、俺も自分に冷静にだ、冷静にだ、と自分に言い聞かせる。仁志のは俺の気持ちを知ってか知らずか言葉を続けた。


「いいアイディアだと思ったんだけどな。楽になれる方法だってさ」


 首吊りが楽だって? 俺は首吊り自殺は苦しい方法だとどこかで聞いたことがあった。


「楽なもんか。もの凄くきついって話だぞ」


「誰かそのやり方した人でも知ってるんだ。まあ、真野が言うならそうなのかもしれないし、もうちょっと別の方法を考えてみようかな」


「いや、何もしなくていいから」半分懇願のような声音になってしまう。


「でも怒ってるじゃん」


「怒ってないから何もするな。それより今から話し合おう。もっといい考えがあるはずだから」


「うん、分かった。じゃあどこかでのみながらでも話しよう。いつもの店でいい?」


「おう、急いで行くから」


「ゆっくりでいいよ。もっといい方法考えとくから」


 この期に及んでまだ死ぬ方法を考えようというのか。そんなに深刻だったんだ。何故気づいてやれなかったのだろう。親友なのに、仕事でよく顔を合わせていたのに。


「考えなくていいからゆっくりしといたらいい」


 そういって俺は電話を切った。

 大きく深呼吸してみる。何とか止めなくては、親友だから。そう自分に言い聞かせる。背中に冷たいものがシャツから透けていた。椅子に無造作に掛けていたジャケットを掴み上げると、急いで居酒屋へと向かった。




 いつもなら会社に車を置いてタクシーに乗るのだが、今日は緊急事態なので自分の車で行くことにした。帰りは代行運転に頼めばいいだけのことである。だが、仁志野を説得するのは代行という訳にはいかない。一刻を争うだろう。

 しかし、そんなに深刻な借金でも抱えているのだろうか。この前会ったときにはそんな雰囲気は一切見せなかったのに。確かに仁志野は昔から苦しいときほど笑って、本音を隠すところがあったが、本当に苦しい時にはいつも相談してくれていたのにと、思った。

 もし、そうなのだとしたら俺は仁志野を助けることができるのだろうか。うちの会社だってそんなに儲けているわけではない。何とか黒字は確保しているものの、いつ経済に掌を返されないとも限らない程度のものである。俺にも会社を守る責任がある。そんなことを考えながらハンドルを握っていたが、例えどんなことだろうと仁志野を助けるというふうに心では既に決めていた。




 居酒屋の暖簾をくぐると既に仁志野は、カウンターに座っていた。

 俺が入って来たことに気づき、笑顔で右手を上げたが、俺の表情は硬いままだった。

 席に着くと、仁志野がカウンター越しに生ビールを二つ頼む。それがくるまで、俺たちは話すことなく無言で待った。

 きんきんに冷えたビールが運ばれてくると、いつも通りグラスをぶつけ合い乾杯をする。ただの形式でお酒を飲む席でのお決まりのルーティンだ。

 俺は多めに一口を流し込み、グラスをどんと力強く置いて重い口を開いた。


「なあ、しんでいいなんていうなよ」といきなり切り出した。


「えっ、でもあれから何度も考えたんだけど、やっぱりしんでいいと思うんだ」


「だから何があったんだよ」


「何がって……」


 仁志野は困った表情を作る。俺はなおも食い下がった。


「何かあればいつも相談しろって言ってるじゃないか」と、俺の口調はどんどん強くなっていく。


 その口調に仁志野も少し苛立ちを感じたのか、いつもの間延びした喋りより早口になっていた。


「だから相談してるじゃないか! しんでいいだろってさ」


「お前、そんなの相談じゃねーよ。死んでいいなんて軽々しく言っていいものじゃないんだ。残される奴の身にもなれよ」


「真野、お前こそ何言ってんだよ! 軽々しくなんて言ってないし、俺は真剣に芯で加工した方が寿命的にも長持ちするしいいって言ってるんだよ」


「寿命とかそんなことじゃなく…… っえ? 加工?」


 一瞬俺は話の標的を失って目が丸くなった。


「おうこの前、真野が持ってきた仕事のシャフト加工の話だろ」



 ――沈黙。



 俺は必死で頭をフル回転させた。しんでいい加工、死んでいい加工。芯でいい加工。

 マジか。俺はとんでもない勘違いをしていたらしい。早とちりというか、言葉を履き違っていたということに今気づいた。途端に申し訳なさと気恥ずかしさがこみ上げてきた。目の前のビールを一気に飲み干し気持ちを落ち着けた。

 そんな一連の行動に不可解さを感じたのか仁志野が「どうした真野」と言ってくる。

 俺は、いや、と言葉を濁した。

 

 まさか[死んでいい]と、[芯でいい]を聞き間違って、必死で苛立って、怒って、助けようとしましたなんてことは言えなかった。


「ああ、そうだな芯でいいと思うよ」と俺は平常心で言った。


「お前どうしたんだ、急にさっきと違うこと言い出して。ああ、あと吊ったら駄目だって言ってたけど、やっぱ重量的にもクレーンで吊ってしたほうがいいと思うんだよな」


「ああ、うん、そうだね。仁志野に任せるよ」


「何か今日の真野って変じゃね? 熱でもあるんじゃないのか」


「いや大丈夫、大丈夫。あっ日本酒もらえる、強いやつ」


「おい、明日も仕事だぞ。あんまり飲み過ぎるなよ」


「分かってるよ、でもちょっとのみたい気分なんだ」


「そっか、そんな日もあるよな。まあ、乾杯」


 仁志野は俺の目の前の空のジョッキに自分のジョッキを当ててきた。

 想いは蜃気楼のように目の前にあるのに遠く、触れたと思った瞬間に消えていくのだ。

 今日の記憶は酒で全部流してしまおう。俺はそう思わずにはいられなかった。

 心と気力が疲労したときには、心と気力を労うためにこの透明な液体を体内に巡らせていく。

 運ばれてきた日本酒を掲げ、仁志野に「乾杯」を返し、半分を一気に空けた。

 これだから酒はやめられない。

 夜は始まったばかりだ。

 

 想いはいつも心気労なのだから。


  

最後のオチのシーンだけを考えて書いてみました。

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