議員の手記より
馬鹿げた機械を見た。すべてを計算できるという。それはいいだろう。だが、その機械を開発した男はこう言っていた:
「いずれは、法律さえも計算の対象となるだろう」
馬鹿げている。
法律とは、神が与えたもうた自然法を明文化し、それに人間の英知を加え、発展してきたものだ。
このところ、馬鹿げた、あるいは神を畏れぬような輩が多い。
人間が猿から生まれただと? 人間は何やらわからぬ化学物質に設計図が書かれているだと? 法律すら計算できるだと?
人間の英知を、神の御業を貶めるものだ。
それらは思い上がりですらないだろう。それらはすべて無知からのものだ。神の御業を知らぬ無知からのものだ。
そのような輩には神の偉大さを理解させなければならない。いや、偉大という言葉でさえ神を貶めることになるだろう。そのような輩に、神を説いたところで、理解できないのかもしれない。だとしても、何としてでも神の偉大さを理解させるべきである。どのような方法を取ろうとも。
それとも…… 神を畏れぬ輩が現われているのも、神の采配なのだろうか。あるいは、人間の英知の可能性なのだろうか。
人間は化学物質の複雑な集合体であり、またそれらがもたらす機能にすぎないのだろうか。
人間の英知は計算できるものなのだろうか。
もし、そうなのだとしたら。神とは何なのだろう。どこに存在するのだろう。どのように存在するのだろう。
もし、そうなのだとしたら。人間とは何なのだろう。どのような存在なのだろう。
いや、そのような疑いは、神を疑うものであり、また人間の英知を疑うものだ。人間はそのような疑いを持つべきではない。そのような疑いは、人間をただの化学と機械に貶めるものだ。
人間は化学や機械よりも尊いものである。尊いものであるはずである。尊いものであるべきである。
だが、この不安は何なのだろう。