一の不安
いつもの封筒に、簡潔に、そして大雑把な字は「志乃へ」と書かれている。白い封筒には差出人も書かれず、宛名だけ。
しかし、志乃にはそれが誰からか、わかっていた。
女房から受け取った志乃はひとまずは安堵の息をつく。
戦地に赴いた夫の長嗣は領地の長として、前線に立っている。毎日送られてくる文が今朝も来たという事は、長嗣はまだ生きているという事だ。
ぴ、と勢いよく封を切り、中に入った文を取り出して広げた。
──志乃へ
桜がもう散ってしまった。
お前に会えないのが、こんなに長引くなんて思わなかった。
こっちで食う飯はまずくて食えたもんじゃない。
早く志乃の上手い握り飯が食べたい。
離れてからわずかひと月しか経っておらず、長引くと表現するにはまだまだ早いと思う。わざわざ簡単な握り飯と書いたのは、志乃が料理下手で、唯一得意な塩加減ばっちりな握り飯だからだ。
きっと戦地では血や土で皆汚れて大変だろうに、そんな事はおくびにも出さない。そんな彼の気遣いが嬉しい。
まだ結婚して数年。長嗣は二十五、志乃は二十。妻を残して死ぬのも、夫を亡くすのも、まだまだ早いと年齢だと思いたい。
「戦況はどうなのでしょうね」
心配そうに女房が尋ねてくる。
「長嗣が教えない、という事はわたし達は知らなくていいことなのでしょう。戦場は男に任せて、わたし達女は家で男を待つのが役目だから」
不安ではないわけがない。いつ長嗣が死んでもおかしくないのだ。
矢にあたったら、刀に切られたら、落馬したら。考えたらきりがない事を頭の中が占領する。そんな愚かな事にならないために、志乃は余計なことを考えずに待つ。
死んだりしないように祈る。そして、長嗣がいつ帰ってきてもいいように屋敷を綺麗にしておく。
それが、留守を預かった志乃の役目だ。
屋敷の主がいない今、妻である志乃が全てをまとめなくてはならないのだ。
──長嗣様
お元気そうで何よりです。
こちらも桜は散ってしまいましたが、散った花が地面を覆って桃色でした。
とても綺麗でしたよ。
わたしの握り飯でよければ、帰ってきたときにいくらでも食べさせてあげます。
志乃
わたしも早くあなたに会いたいです、と書こうか迷ったが、志乃がそんな事をみだらに言う性格ではないのも長嗣はわかっているだろう。
そのかわりに、握り飯のくだりで遠回しに表現する。
「ああもう、まったく。恥ずかしい」
いつもは嫌みを言ったり馬鹿にしたりのやり取りをしている志乃は、自分の素直な気持ちを晒すなど、めったにしない。
長嗣が気づきますように。
そんな理不尽も祈りながら、志乃は文を送った。
***
そうして文のやり取りを何度もしていると夏が来た。
付き合いのある地元の奥方達と茶をすることになった志乃は、高い声で話す年若い奥方達に微笑んだ。
「奥方様、もう領主様とは三月会われていらっしゃらないのですよね?」
長嗣の治める領地の貴族の妻達は、急に真剣な顔で志乃に尋ねてきた。
「そうですね」
もう三月になるのか、と志乃が思っていると、その中の大島妻がさらに尋ねた。
「わたしの夫も行っておりまして。戦地の状況はお聞きですか?」
すると、隣に座る伊藤妻が「大島殿」と軽く叱責するが、大島妻は質問を取り下げなかった。
「いえ。わたしも知らないのです」
「あら、領主様の奥方様が知らないだなんて! 今戦況はかなりきついみたいで、勝ちは難しいそうですよ」
難しい、とはどういう意味なのか。
それが分かりかねて黙っていると、大島妻を伊藤妻が叱りつけた。
「大島殿! めったな事を言うのはおやめ下さいまし!」
大島妻の意味がそこで理解できた。「夫は死ぬかもしれない」そう言う意味だ。
大島妻の家より伊藤妻の家の方が歴史も地位も高い。まだ嫁ぎ立ての大島妻は齢十五だという。
しかし大島妻の夫は今年四十二の男で、妻は彼女で二人目らしい。大島妻はあわよくば、と考えているかもしれない。
「伊藤殿の言うとおり。そのような事はめったに口に出してはなりません。ここにおられる方の全員、夫が戦地にいるのです。不安を煽るのはおやめなさい」
物静かな話し方は、大島妻を黙らせるには最適だった。彼女は反省して謝った。夫の大島左衛門は全身毛むくじゃらの熊のような男だ。
意地も悪く、けちで、才もない。優しさもないのだから、大島妻には同情できるが、だからと言って皆の不安を煽っていいはずはない。
「悪状況なのは戦をやる前からわかっていたことです。わたし達は夫が無事なことを祈り、いつでも迎えられるように屋敷を綺麗にして待っていましょう」
そう言うと少しは安心したのか、奥方達はにこやかに微笑んでくれた。
それからは暗黙の了解で戦地の話はしなくなった。