四章 青空と共に包まれて
神様は言います。
『けして誰にも姿を明かしてはいけないよ』
とも。
『人間と交わりすぎてはいけないよ』
とも。
それは当たり前なことでした。誰もが守る、普通なことでした。
けれどそれがどうしてなのか、知っている御子は誰一人としていないのです。
だってそれが、彼らにとっての当たり前なのですから。
ある日のことです。無邪気で幼い火の御子が言いました。
「ねえねえ、人里に出てみようよ」
それまで人里から離れた場所にいた彼は、ちょっとした好奇心に駆られていたのです。
一緒にいた幼い水の御子は、眉を顰めました。
「やめようよ、そんなこと。神様に怒られちゃうよ」
「大丈夫だって。そんな四六十中、神様だって僕らを見ていられないはずさ」
しかし火の御子は頑として言うことを聞きません。うんそうだよ。きっと見ていない。言い聞かせるようにして、火の御子は頷きます。
「それにね、人里は面白いものだって聞くよ。城下に出ればいろんな物が見られるんだ」
「城下って……余計に危ないじゃん」
「そんなに心配しなくたって、平気さ。ようは僕らが御子だってバレなければいいんだろう?」
簡単なことさ。僕らが力を使わなければいいんだ。
燃えるように赤い目を輝かせながら、彼は言います。僕らがちょっと気をつければいいだけのことじゃないか、と。
「でも……お父に知られたら、叱られる」
「だったら言わなければいいんだ。お父たちだって、ずっと僕らを見ているわけじゃないんだよ。それにお父たちは城下にだってよく行くし。――もしもバレたら、お相子だって言えばいい」
「ちょっと待って。お相子って言ったって、お父たちは仕事で行くんだよ?」
「知ってるさ。でもお父たちから城下の話を聞かされて、行きたくなるのが心情ってものでしょう? お父たちだけでそういう話をするのは不公平だよ。子供だって、知る権利くらいはあるはずさ」
火の御子は言葉巧みに意見を述べていく。
「知られたくなかったら、お父たちだって話したりなんかしないよ。なに、知られてもいいから話しているに決まっている」
首をすくめながら、水の御子は火の御子を見つめた。
「本当に行く気なの?」
「ああ、そのつもりだよ」
「そんなに城下が見たいの?」
「そりゃそうさ。ちゃんとこの目で確かめたいからね」
火の御子はそう言うと、水の御子の前に立ちました。
「ねえ、君はどうする?」
…*…
あんな雨なんてどこへやら。次の日も強い陽射しが地上を照らしつけていた。
調理と片付けは交代制で、今日は男子が調理当番だった。
気持ちいい睡眠から一変。大輔は何の前触れもなしに叩き起こされる――しかも本当に本気で叩かれて。
不満げに大輔が眠気眼を擦ると、今度は目の前にはなんか猛スピードで迫り来る足が見えてきて。うわヤベェよ俺。死ぬんじゃね?とか、最高に最悪に目が覚めてしまったのだ。
危機一髪、寸前のところで大輔は難を逃れる。切れ味の良さそうな蹴りが鼻先を掠めていって、夏だというのに大輔の肌は粟立った。
蹴りを入れようとした当事者の口からは「チッ」と舌打つ音が聞こえてくる。何がチッだよ! と文句を言おうとしたがそれも虚しく、大輔は台所へと拉致られてしまったのだ。
叫ぼうとしたら、女子が寝てるだろうと再び耿輔に頭をひっぱたかれたから。
「少ない脳細胞が、また一つ死んだな」
と言った慧哉の言葉は、あとで何らかの形で返してやろう。
大輔は秘かに心に誓った。
合宿だから早朝のラジオ体操でもするのだろか……。とひやひやしていたが、耿輔に「んなかったるいこと、一々やってられっか」と言われた。
つまりはそういうことなのだ。面倒くさいことはやる必要がない。実にこの美術部らしい選択だ。
朝食が終わると、早速自由行動となる。昼までには帰ってこいよ、と耿輔に言われるやいなや、部員たちは好き勝手に行動しだした。
大抵の者は道具を持つなり外へと飛び出していったが、耿輔はまた残る気満々だ。どっこいしょと柱に寄りかかると、もう本を手にしている。これが部長の行動なのだろうか。
「大輔」
さて自分も。と昨日と同じ物を持った大輔は、しかし耿輔に呼び止められてしまった。
何? と言いながら振り返れば、手招きをされている。早くと急かされると大輔は耿輔の元まで走っていった。
「何なの?」
「使うなよ、絶対」
「は?」
「風術。お前昨日、使ってただろう。外で」
「え、……あ、うん」
言葉を濁すと、大輔は耿輔から視線を放した。力を使えば御子である者に、術を使っていることがバレてしまうことがある。どうやら力量の高い耿輔には、そのことがバレていたらしい。
ということはもう、慧哉にも明かされているのだろう。慧哉も耿輔に劣るとはいえ、力のある御子だ。
血の気が引いていくのを大輔は感じた。
ヤバイ、どうしよう……。視線をどこに持っていけばいいのか解らない。
握りしめる掌には、じっとりと汗が浮かんでいた。
後悔先に立たずとはよく言ったもんだよ、ご先祖さん。まさにそのとおりだね。
自然と早くなる呼吸に気付きもしないで、大輔はそんなことを考えていた。
後悔か。するつもりはなかったのになぁ……。考えた先から、大輔は思いっきり後悔をしてしまう。言い訳をしたい子供のように、きゅっと唇を噛んだ。
するとポンポンと小さな音が聞こえてくる。下を見やれば、耿輔が大輔に視線をやりながら、自らの隣を叩いていた。ここに座れ。視線がそう言っている。
大輔はされるがままに、耿輔の隣に膝を抱えて座り込んだ。視線の高さが一緒になると、さっきにも増して気まずく感じる。嫌だなと思うと、膝を抱える腕により一層の力が入ってしまう。身体は自然と縮こまろうとした。
「お前がまだ完全じゃないことも、だから隠れて練習をしていることも、俺たちはとっくに知っていたさ。力なんて個人差が一番出るところだから、しかたのないことだろうし。でもな大輔。こういうのもやっていい時と悪い時って、やっぱりあるもんだ。今は自由行動を取っている。だから誰が近くに現れるかもしれない。……解っているよな。今がどの状況であるのか」
耿輔の強い視線が、大輔を射止める。昨日言われた慧哉の言葉が、心の中にずしりとのしかかる。
今は、やるべきではない時だ。
解ったら余計に、申し訳ない気持ちになる。俯くと抱えられた膝小僧がふたっつ見えた。それは酷く小さいように感じられた。
「ごめん……なさい」
「解ればよろしい」
わざと偉そうに言うと、耿輔はポンポンといつもとは違って優しく大輔の頭を叩いた。まるであやされているようにも感じたが、そんなのはもう、どうでもよかった。
「慧哉も気付いているかもしれないけど、とりあえず俺からは言っちゃいない。それにあの態度からすれば、咎めようとは思ってないだろうだしな」
さらさらと夏の風が駆け抜けていく。畳のにおいが僅かに動いた。
久しぶりに兄弟で馬鹿しないで話して。……なんか変な感じがした。でもその分、気持ちはいつもよりもずっと楽だった。
今は頭を撫てくれていて、ちょっと子供扱いされているような気もしたけど。そんなに悪い気分じゃなかった。それに耿輔の大きな手に撫でられると、妙に安心できるのだ。本当、考え自体がガキっぽいけど。
でも、たまにはこんなこともいいかななんて思った。
忙しないだけが日常じゃないもんな。
「ほれほれ。解ったなら絵でも描いてこい」
短かったのか、それとも長かったのか。
それさえ解らないくらい、ずっとそうしていた。しかしそれも頭をぐしゃぐしゃと撫でる耿輔の言葉によって、終止符を打たれる。
「いいか、一番上手いの描いてこいよ。ここまで来たら何が何でも一番だ」
「解った! 解ったからやめてって!」
ぐしゃぐしゃにかき回された髪を押さえると、大輔はすくっと立ち上がる。気が動転しているあまり「あれ? 道具どこに置いたっけ?」と足元にあるものをきょろきょろと探してしまった。
画材を持ち準備が整うと、耿輔は見計らったかのように大輔の背中を蹴飛ばした。鈍い音の後、一歩二歩とよろめき大輔は何をするんだと振り返るが、
「行ってこい」
滅多に見せない笑顔で言われた途端、その言葉も飲み込まれてしまった。
「言われなくっても」
微笑みながら、大輔は言う。
返した言葉はちょっとだけ気分がよかった。
さてどうしようか。
森の中を突き進みながら、大輔はそんなことを考えていた。もうここで風術を使えないのなら、するべきことが限られてくる。それに一応耿輔に見送られたのだから、絵を描くことは当然となったわけだ。がしかし、それをどこにするべきなのだろう。
踏みしめるたびに、草は微かな音をあげる。緑の濃い香りが、昨日の雨のおかげでより強く感じられた。
木漏れ日が落ちるところは、朝露に草が輝いている。スニーカーは朝露に濡れ、動かすたびに水が踊る。足元はひんやりと涼しかった。
あの顧問はコンクールに出す気は満々らしい。いきなりそんなことを言うのなら、普段もそれくらいのやる気を見せればいいと、大輔は正直思う。
だがそれも一瞬で、すぐさま大輔は首を左右に振りたくった。いや、やめようそれは。顧問がぐーたらじゃないと、部員の幸せなひと時がなくなってしまう。それだけはなんとしてでも願い下げしたい。
あー、どうしよう。大輔はまたもやそう思いながら、スケッチブックに視線を落とした。
そこには確か、いつしかやったデッサンと静物画と――あとは秋の文化祭で使うであろうイラストが数点ずつしか描いていないはずだ。まだスケッチブックの半分もいっていないと思う。鉛筆書きだけなのに、どうしてこれだけの時間がかかったのだろう?
大輔は考えた末に、それが自分が寝ていたことが大きな要因であることに気付いて、慌てて考えるのをやめた。
ヤバイヤバイ。マントル越えるまで墓穴を掘るところだった。
とぽとぽとした歩みを止めると、大きく息を吸い込んで大輔は空を仰いだ。木々の間からはまばゆい夏の光が射し込んでくる。
そういえば今年になってから、一度も泳いでいないな。高校の授業には水泳がないからしかたないのかもしれないけれど。一度考えてしまうと、どうにも泳ぎたい衝動に駆られてしまう。
どうせ泳ぐなら、海がいいよな。などと、行けもしないのに大輔は想像ばかりを膨らませた。
空を仰ぎ、瞳を少し細める。まばゆいばかりの陽光は、それでもなお眩しい。衰えなどまったく見せてない。人間はすぐに老いるくせに、太陽は元気なままだよな。ずっと暖かな光を地上に降らせている。
深く考えてみれば、それはすごいことなんだなと大輔は思った。
永遠なんてものはないけれど、それに似た時間を過ごしてきて、これからも過ごしていく。途方もないくらいの時間で正直頭はついていかない。けど、それだけの時間を確かに生きてきたのだ。
しばらくの間、大輔はその場から動こうとはしなかった。少しの間だけでもいい。この時間を何らかの形で感じたかったのだ。
ここにある全ての物を。
そして、この過ぎ行く時間を……
大輔は淡く開いた瞼を、そっと閉じた。辺りは眩しい暗闇に包まれる。
何でだろう? 少しだけ考えて、それからやっと謎が解けた。陽光が瞼を伝わって感じられるのだ。瞼を閉じているのに眩しいだなんて、なんかちょっと変な感じだ。
ゆっくりと息を吐き出すと、大輔は瞼を上げる。そこには何にも変わらない緑の枝葉が飛び込んできた。
さて。行こうか。
当てを見つけた大輔は、その歩みを再会させた。
…*…
そこにはもう、先客がいた。
大輔は昨日来た断崖へと足を向けたのだ。しかし着いてみると、先に出発した美紗がそこで絵を描き始めている。
昨日の今日でさすがの大輔にも、気まずいと思うところがあった。いくら風術を使っているところを見られていなかったとしても、やはりそれなりの警戒心というものは持つものだ。
今日一日だけでどれだけ悩めばいいんだよと思いながら、大輔は「さて、どうしたものか」と頭を二・三掻いた。勿論頭を掻いたところで、答えは出てきやしない。
とはいえ他に行くようなあてもなく、しかたなしに大輔は、のそのそと美紗の方へ歩み寄っていった。
「よーっす。ねぇ、何描いてんの?」
平然を装いながら、大輔は美紗のスケッチブックを覗き込んだ。そこにはもう、大まかなデッサンがされている。
良くこれだけの時間で描けたもんだと、大輔は内心感心していた。
しかしそんな大輔とは相反して、美紗はといえば一意専心。相当集中しているのか大輔が訪れていることにさえ気付いておらず、ぬっと現れた横顔に度肝を抜かしていた。
描いていたスケッチブックを慌てて隠そうとするものの、それも叶わない。慌てすぎた美紗は顔を真っ赤にして、スケッチブックを前に踊っていた。……いや、本当は隠そうともがいていただけなのだが。
「はわッ! だだっ、大輔くん。いつからそこに!?」
「え、ついさっき今しがた。……つか、もしかして気付いてもらえていなかった?」
訝しそうに大輔が尋ねると、美紗は真っ赤な顔を余計に赤くして頷いた。
やけに新鮮なリアクションをしてくれると思ったら、なるほど。そういうことだったのか。
「あー。んじゃあ悪いことしたな」
「ううん、そんなことないよ。気付かなかったわたしが悪いだけ」
「でも、集中してたんでしょ?」
「そうと言えば、そうなるかもだけど……」
「だったら俺が悪かったって」
ほんとごめんな。そう言うと大輔は昨日登っていた木に歩み寄っていった。
「そうだ綾瀬。俺もここで描こうと思っているんだけどさ、いい?」
「いいと思うよ、多分」
「いいと思うって、なんじゃそりゃ」
けらけらと笑いながら大輔は幹に手をかける。それを見ていた美紗は目をまん丸くして、思わず身を乗り出した。
「登るの? 木に」
「うん。そのつもりだけど」
「だって道具とかどうするの?」
「これくらいだったら鞄にもちゃんと入ってるし。たいして苦じゃないさ」
現に大輔は昨日も、その格好で登っている。案外何とかなるもんだ。
「すごいね、登れるんだ」
だが美紗はというと、尊敬の眼差しを大輔に向けている。そういう反応にはいまいち慣れていなくて、大輔は途方に暮れてしまった
「んー……。綾瀬は登ったことないの?」
「体力がないからね。真衣ちゃんはしょっちゅう登っていたけど」
「樺沢が?」
「そう。中学頃までやってた」
確かに真衣ならやりかねないだろう。
何故ならこの美術部の中でもっとも活発なのが、あの真衣なのだ。彼女だったら木登りくらいやってもおかしくともなんともない。きっとやっていたのを見たって、違和感の欠片も感じられないのだろう。
大輔は想像して、思わず苦笑した。
「でもね、本当はちょっとだけ羨ましかったんだ」
「木登りが?」
「うん。いつも下から見上げているだけだったからね」
そうか。自分は登れるからそんなことは思わなかったけど、登れない側からしてみれば憧れなんだよな。こういうのって。
大輔自身、風使いとしては下の立場だ。できないことに対して強い憧れを持つというのは、誰よりも共感できる自信があった。
そっかと大輔は呟く。うんと小さく美紗は答えた。
「じゃあさ登ってみない? 一緒に」
「え、でも……」
「心配すんなって。落したりなんかしないからさ」
「いや、そういうことじゃなくてね」
少し嬉しそうな――でも怯えたような。そんな曖昧な表情をして、美紗はかぶりを振った。
できないよ。美紗は小さく呟いた。大輔はそれでも頑なに美紗を誘い続けた。
「ね、信じてみようよ。綾瀬自身をさ。きっとできるから」
にっと笑いながら大輔は美紗の手を取った。
「最初なんていつも怖いもんだよ」
だって、現に自分だってそんなもんだった。
一人前の風使いになると、今までと違って常に御子としての力が使えるようになる。それは一見便利そうで――本当はすごい怖いことだった。
今までは家以外で力を使うことが禁じられていた。それは力の暴発を防ぐためであり、彼ら自身を守るためのものだったのだ。人間に見つからないようにと。
だが今は違う。異常があればそれを正しに行かなければならない。それは言ってしまえば、いつも危険と隣り合わせの状態にあるということと同じなのだ。いつどこで人間が見ているかも解らない。そういう状況下に置かれているのだから。
しかし幼い頃の大輔はそれを知らなかった。中学入学と同時に認められた耿輔の姿を見て、いつも羨ましがっていたんだ。そうやって風使いとして立派にこなす兄を。
自分もいつか兄ちゃんみたいな風使いになる!
それが大輔の口癖だった。
いつか追い抜いてみせるんだからな!
できもしないのを知らないで、そんな宣言をいつもしていた。そのたびに耿輔は「お前が追いついてくるの、楽しみだな」と言ってくれる。それを本気にして、大輔は任務を任せられる日を待ち望んでいたんだ。
それなのに現実は違った。
大輔が初めて任務へ行った時、その心には恐怖が渦巻いていた。今なら解る。あれは挑戦することへの恐怖だったんだ。
行き先は近所の神社。震える足で大輔は耿輔の後についていった。乱れる風が頬を撫で、背筋は何かが這ったようにゾクゾクする。平気かと聞かれても、大輔は強がって大丈夫と答えた。本当は大丈夫なんかじゃなかった。浮かれていた自分に嫌気がさすくらい、怖かったんだ。
結局その任務で、大輔は足手纏いになっただけ。それだけならまだしも、風にからかわれて耿輔に怪我を負わせるところだった。
家に帰ってからは、親にこっ酷く叱られた。耿輔も勿論、冷たかったが確かに怒っていた。……けれど怒られて、正直よかったと思っている。
だってそれを変えられるのは己しかいない。変わろうと羽をばたつかせなければ、現状なんて何一つ変わらないのだ。
大輔はもう、一歩を踏み出していた。あの時失敗して次の任務は怖かったけど、怒られたことで自分の中で気持ちが変わった。浮かれるんじゃなくて、もっと頑張らなきゃって思った。力をつけていく。言うほど楽なことじゃないけれど、それでも着実に道は切り開かれていた。
だが美紗は違う。羽ばたく前から『できない』と自分に言い聞かせている。羽ばたくことをやめてしまっている。鳥が羽ばたかなければ飛べないのと同じように、気持ちかなければ何も変われやしない。でも美紗は、それにさえ気付いていない。
そんなのは嫌だった。やらないで諦めるなんて、そんなこと悲しすぎる。