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三章 (1)

 しかし涙は出る前に引いていく。

 背後から何かが近づいているような気がしたのだ。

 ……誰だ? スーッと背筋が凍るような危機感が胸中に生まれる。大輔だいすけは咄嗟に風を解すると、一拍置いてからゆっくりと振り返った。

「……あや……」

 何でこんなところにいるんだよ。家でみんなと絵を描いていたじゃん。それなのに――

 焦りと戸惑いとで、思考がなかなかまとまらない。掌はじっとりと汗をかいていて、ギュッと握りしめるとより鮮明に汗の感触がした。

 それに大輔は責任転嫁にしかならないと知っていて、美紗みさが悪いことをしているように思ってしまった。美紗がここにいることへの戸惑いをぶつけようとしたのだ。

 本当は慧哉きょうやに言われたように、こっちが場をわきまえなければいけない。正体を隠し通さなければけないからだ。

 それなのにこんなことを思っている。そんな自分が怖かった。

 大輔は息を呑んで美紗の姿を目で追った。

 美紗は大輔のいる場所から数メートルほど離れた場所にいる。その歩みはカメ並みにのんびりとしていた。辺りを物珍しそうに見ているから、なおさらなのかもしれない。

 荷物を小脇に抱えると、大輔は枝の上に立ち上がった。膝を軽く曲げて枝を蹴って。さらさらと木の葉が揺れる音が空気を揺らす。

 身体はさっきまで戯れていた風に吹かれて、まるで飛んでいるような感覚が大輔を襲う。いや、実際に今は飛び降りているのだから、大差はないのだろうけど。

 ストンと足が地面に付くと、恰好悪くも足がかなり痺れた。足の裏が脛が、電気を流されたみたいにぴりぴりする。けれどこけなかっただけマシだと大輔は思い込んで、そのまま何食わぬ顔で美紗の元へと駆けていった。

「綾瀬!」

 いつもの笑顔を顔に浮かべながら、大輔はぶんぶんと手を振りたくる。検索しながらな歩みだった美紗もさすがにこれには気付いた。美紗は胸の位置で控えめに手を振ると、まっすぐに大輔の元へと進んでいった。

「大輔くんもここに来てたの?」

「まあね。突き進んでいたら知らないうちに着いちゃったって感じだけど」

「実はわたしも」

 えへへと二人は照れくさそうに笑った。一緒だねと言う美紗の声は、嬉しそうなのか恥ずかしそうなのか――もしくはその両方だったのかもしれない。大輔には全然解らなかったけど、ただ一つ自分の中に確信を見つけた。

 美紗には風使いのこと、バレていないようだ。

 もしも人間に正体がバレてしまったら、すぐに罰せられるとも聞く。だったら大輔はもう罰せられていてもおかしくないはずだし、それに美紗にも動揺した感じはない。助かったという安堵感に胸が少し軽くなった。

 これ以上不安になるのは、もうこりごりだ。

「で、大輔くんはもう構図とか決まったの?」

 目ざとくスケッチブックを見つけた美紗は、好奇心に輝く瞳で大輔を見つめてくる。

「ううん。生憎まだって感じ。……綾瀬はどうなの?」

「わたしもまだまだ。どこでどんな構図で描こうかなーって、ちょっと下見に来たって段階だよ。まだ良さそうな場所には出会えてないけどね、木ばっかりで」

 そりゃそうだろうなと、大輔は思った。この辺は森になっているのだ。木ばかりじゃなかったら逆におかしい。

「でもどうしよう。木漏れ日でも描こうかな」

 美紗は振り返ると、明かりで斑模様になっている地面をそっと見つめた。

 悩んじゃうよね、こういうのって。美紗はおどけながらもそう言って、大輔はそうだねと小さく頷いた。

「綾瀬にはあってると思うよ。木漏れ日とかって温かいイメージあるし」

「そうかな?」

「そうだよ」

 大輔はこくりと大きく首肯する。

「綾瀬って優しいからさ、ぴったりって感じ」

「え……」

 きょとんとした美紗の声が静かな森に響いた。それから大輔ははっとする。

 自信満々に言いきってしまったが、大輔は今とんでもなく恥ずかしいことを言ったかもしれないと感じてしまったのだ。まるで告白しているみたいだ、今思えば。

 しかたない。大輔は平気面を突き通すと「うん、そうだよ」と妙に納得した風を装って、無意味に空に目を向けた。

 夏の強い陽射しが入ってくるのだろう。そう覚悟して見上げたにもかかわらず、大輔の目には明かりなど入ってこなかった。変わって見えるのは、さっきまではなかったはずの暗雲。

 そういえばさっきから風が少し強くなっていた。山の天気は変わりやすいって言うけれど、ここまで急なのだろうか……。

 すると今度は、ポツリポツリと大粒の雨粒が降ってくる。それは等間隔からだんだんとどしゃ降りになってきて、仕舞いには遠くのほうで雷鳴が轟き始めていた。

 冗談も大概にしてくれ……。突然の夕立に二人は度肝を抜かされて、呆然と雨空を仰ぎ見た。目薬なんかクソ喰らえと言いたくなるような雨粒が的確に瞳に入り、そのたびに目元を拭う。涙みたいに雨水が頬を伝っていった。

 周囲には叩きつける水音が響き渡っている。

 大輔は思い出したように、美紗の手をむんずと掴んだ。

「綾瀬、戻ろう。風邪ひいちゃう」

「う、うん」

 もう水溜りができかけている森の中を引き返していく。

 駆けるたびにピシャピシャと響く足音は、ずれながら聞こえていて。それは下宿先に戻るまでずっとずっと続いていた。




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