三章 力不足の風使い
昼食を終えると談笑をしながら穏やかな一時を過ごした。
しかし片付けは男子の仕事になっていたため、それも中途に引き上げる。女子がまだ話しているのを尻目に見ながら、男子はてきぱきと働き出した。
今日の昼食はそうめんだった。脂っこいものなんてないから、片付けはどちらかといえば楽な作業だ。食器をささっと洗うくらいでことは済む。
作るのには手間も時間もかかるのに、終わってしまえばなんとも呆気ないもんだ。こんなにあっさりと片付いてしまうのだから。
洗われた食器類を拭きながら、大輔はにわかにそう思った。
手っ取り早い、まるでバケツリレーのような片付け作業が続けられていた。慧哉が食器を持ってきて、耿輔が食器を洗って。それを大輔が拭くと、受け取った尋希が棚に戻す。一連の動きは滞りなく紡がれていくのだ。
しばらくすると、耿輔が最後の皿を渡してきた。ひんやりとしたそれを大輔は受け取ると、無心に水滴を拭い取る。皿を尋希に渡すとそのまま濡れた手も拭いた。布巾はやっぱり湿っていて、拭いてもたいして変わることはなかった。
「ねえ、何すんのこれから」
たたんだ布巾を流し台の脇に置きながら、大輔は台所を出て行く耿輔を目で追いかけた。耿輔は振り返りもしないで頭をぐしゃぐしゃとかき回す。
「自由行動でいいかななんて。どうせ何枚か絵を描くだけの日程だし」
そもそもサボり合宿の異名を持っているものだ。決まった物を描くわけでもないんだし、それでもいいんじゃないの? と居間に戻りながら耿輔は吐き捨てるように言う。
そこにはすでにくつろいだふうの女子の姿があった。男子たちが戻ってくると「何するの?」と同じことを聞いてきて、やっぱり耿輔は同じ言葉を返した。
「一応風景画は必須だから、それだけはやっとけよ。あの顧問、グチグチうるせぇからな。ほとんど見に来やしないくせに」
そうなのだ。耿輔が言うように美術部の顧問は、ほとんど活動を見に来ない。だから自由奔放だと言えばそうなのだが、職務怠慢なんじゃないの? と常々思わされる。
勿論来たところで何か教えてくれるかといえば、そういうわけでもない。だから別に顧問なんてどうでもいいと、部員の誰もが思っているのだけれど。
だがそういう奴に限って人使いが荒いのも、また事実。
この合宿だってそうだ。夏休みの活動計画を聞きに行った時、適当に決めておけと言われたのだ。
美術室は顧問に言えば開けてもらえるが、肝心の顧問があの性格だ。頼りになんてできやしない。だが嬉しいことに、この学校は合宿計画書を提出すればどの部活も合宿することを許可されている。
どうせ学校でできないなら、一気に合宿で片付けちゃえ! と、そんな魂胆から部長副部長の連係プレーで、即行に組まれたものなのだという。普段から部長に部活をまかせっきりなので、文句もなしに快く顧問は了承してくれた。
日頃からこんな調子なのだから、部員がどうでもいいと思うのはいわば必然なわけだ。
あんの禿ぴかジジイ、あとで覚えてろよ……という耿輔のぼやきが耳に届き、大輔は思わず苦笑した。
「でもまだ初日だしさ。宿題したきゃしてもいいし、寝たきゃ寝てもいい。迷子にならなけりゃ、とにかく自由な」
言うなり耿輔は、畳に寝転がっている。
おやすみと言う声は最後まで続くことなく、寝息へと変わっていった。
…*…
大輔は真っ先に外へと飛び出していった。その手には筆記用具とスケッチブックを詰め込んだ鞄だけが持たれている。
軽い足取りは来た道とは反対方向――つまり家の裏側へと向けられていた。
丈の短い草が、空を覆う木々が、自分勝手に生い茂っている。道なんてものはなかった。そこを大輔は突き進んでいく。どこまで行こうかなんて考えてもいない。行けるところまでは行ってやろう。そう思わせるような勢いだった。
森の中は、やっぱり自然の物音以外はしてこなかった。蝉がうるさいはずなのに、やけに静まり返っているような気がする。澄んだ空気も涼やかそのもので、何か別世界に迷い込んだような感じだ。こうも徒広い場所にいると、自分なんかまるでちっぽけなもののように思えてしまう。
大きな木々の合間から、輝く木漏れ日が降り注いでいた。金色の水溜りが足元いっぱいに広がっている。
大輔は駆けながら、小さな石ころを蹴飛ばした。すると石ころはぽーんと飛んでいって、音もなく木漏れ日の中へと転げ落ちていく。
しばらく森を突き進むと、一気に視界が開けた。――森が終わったのだ。
そこは奥に十メートルほどの草っ原があるだけの、なんとも寂しげな場所。その先はストンと抜け落ちていて、足元も何もなくなってる。どうやら断崖のようだ。緑の絨毯の先で、ひゅうひゅうと風が唸り声をあげていた。
大輔はその光景を見ていたが、しかしそれ以上は進もうとしない。ただ開けた先を見つめるだけだった。小麦色の大輔の髪が、風に靡いて頬にかかった。
こくりと唾を飲み込むと、大輔は小さく息を吐き出した。その瞳に宿っているのは、悲壮とも畏怖とも感動ともつかない。多くの思いが複雑に、けれどつながりあいながら絡まっている。
頭の中では、どうしようもない過去の残像がちらついていた。
あの時の僕は本当に惨めったらしかった。今もたいして変わったとはいえない。けどあの時ほど自分が惨めで、どうしようもないバカだと思ったことはなかった。
幼い自分はいつも無駄に全力疾走だったんだ。それでいつも、どこかでバテていた。
ああ。本当に僕はバカだ。どうしようもないくらいのバカだ。
鼻で一つ笑うと、大輔はくるりと断崖に背を向けた。ひゅうひゅうという風の音が、少し小さくなる。
そのまま二・三歩歩むと、森が終わるところにある木に大輔は手をかけた。鞄の紐を肩にかけ、手馴れたようにすいすいと木によじ登っていく。枝に手をかけると、身体を滑り込ませるようにして枝の上に飛び乗った。
「……っこいしょっ、と」
断崖に面した側の枝に腰掛けると、大輔は子供のように足を投げ出した。そのまま空をかくように足をぷらつかせる。
やっぱり奥は断崖になっているようで、眼下には新たな森と川が見えた。民家らしきものはまったく目に付かない。またその奥にはもう一つの山がある。もしかしたらこの山よりも大きいのかもしれない。大輔はふとそんなこと思った。
本当に長閑な場所だった。これほど人工物に邪魔されないことろを、今まで目にしたことがあっただろうか。
今は呆れるほどに自然が広がり続けているだけ。時代遅れとか田舎とか、そんなのはもうどうでもよかった。ここには文明の利器はないけれど、変わりに人を安心させる何かが確かにあったのだ。
アダムとイヴの住まうエデンの園も、こんな感じだったのだろうか。これだけ安心のできる、平和な場所だったのだろうか――
風がじゃれつくように、大輔の頬を撫でていった。
風は風使いのことがちゃんと解る。やはりそれは、聖なる力が宿っているからなのだろう。大輔はそれに答えるよう、風をそっと撫でてやる。風は嬉しそうに大輔の手へと擦り寄ってきた。
「ねえ、今日も練習につき合ってくれる?」
大輔が尋ねると、風は擦り寄るものから纏うものへと変わっていった。――了承の合図だ。
「ほんと、どうもありがとね」
そう言うと大輔は、手を空に翳した。
だんだんと風が手元に集まってくるのを、確かに感じる。手袋をしているみたいに、ほんのりとした温かさに包まれていた。大輔は淡くゆっくりと瞼を閉じると、歌うように言葉を紡ぎだした。
蒼い空に宿りなさい
蒼い空に帰りなさい
空に宿りし風の民
元いた場所へ 帰りなさい
唱えたのは、基本的な外的風術――『淡い美空の下へ』だ。
大輔が薙ぎ払うように手を一線振るうと、纏っていた風が鋭く宙へと放たれる。いわゆる鎌鼬のようなものだ。
もしも誤って触れてしまえば、流血どころでは済まされないだろう。人知の及ばぬ神の力というのは、それほどまでに強大なものなのだ。
今まで纏っていた風を失った手を、大輔は嬉しそうに見つめる。手に風がないのは、風術が成功した証だ。基本的だからたいしたことはないのだが、でもできればやっぱり嬉しい。
今なら何でもできるような気がして、大輔は再び手を天に翳した。
さあ こちらへおいでなさい
太陽の欠片を差しあげましょう
あなたたちに差しあげましょう
この手に宿る 温もりを
あなたたちに差しあげましょう
すると今度は、裸の手に風が集まってくる。召喚風術の一つである『導きの手』だ。
風は渦巻くように手の周りを駆け巡っていった。手が温まってくると、さらに強くそれを感じ取れる。
うっし! と大輔は逆の手でガッツポーズを決めた。
今日は失敗することなんてなかったじゃん。すごいよ自分!
やったやったと浮かれていると、それが風にも伝わったのか。そよそよと柔らかく、風は大輔の腕を登ってきた。
「ぅあっ、ちょい待ちちょい待ち」
大輔は早口に止めに入った。だが風はまったく聞く耳を持とうとはしない。
どうしよう。これじゃあ関係のないところで、いつもの二の舞になってしまう。
大輔はそう思い、再度『導きの手』を口にしてみた。それでも風は一向に鎮まる気配を見せようとはしない。
さわさわと木の葉が揺れた。
「あーっと、だばらっしゃいッ!!」
うっとおしそうに頭を振りながら、大輔は叫び声をあげた。「だばらっしゃい」という山びこが勢いよく帰ってくる。
「待てって言っとんべぇな、お前らぁ」
落胆のあまりに肩をガクリと落すと、風はその動きをぴたと止めた。
あーあ、またやっちゃったよ自分。
心配するように寄り添ってくる風にも気付かないくらい、大輔は項垂れると宙をかく足を見つめていた。
なんとも言えない敗北感が、心の中で渦巻いていた。
大輔が一人前の風使いになったのは、中学を卒業してすぐのことだった。
その日は慧哉と共に呼び出された。慧哉とは幼馴染だからなのか、それとも昔からのつき合いからなのか。互いの家同士の仲はすごく良かっのだ。
だからかどうかは定かでないけれど、その時共に告げられたのだ。――お前たちは、もう一人前の風使いなんだよ、と。
頭の中は嬉しさのあまり、真っ白になっていた。何も考えられないし、話さえも聞こえてこない。ただ一人前になれた。そのことがあまりにも大きすぎて、嬉しすぎて。有頂天になっていた大輔は一人前になれたということの真の意味を実感するのに、相当な時間を要した。
それもそのはずだ。何せ耿輔は大輔の兄であると同時に、尊敬すべき風使いであるのだ。
あんな抜けた性格をしていても、風術にかかれば大人も顔負け。久方ぶりの逸材だと耿輔は周囲からも賞賛されているのだ。それに比べて大輔はといえば、人並み以下。「お兄さんは……」といつも比較されては唇を噛んでいたのだ。
しかし大輔もこの日から、やっと耿輔と同じ位置に立つことを許されたのだ。これに喜ばないで一体何に喜べというのだろう。
……だがそれも、ただの自惚れにすぎなかったのかもしれない。そもそもにして大輔は、慧哉とも耿輔とも根本的に違っていたのだ。二人が持っている『風使いとしての才能』というものを、大輔は持ってはいなかったのだから。
そしてそれは、大輔にダメージを与えるのには十分すぎていた。
大輔は一人前になれたとはいえ、まだまだ実力は半人前だった。
練習をすれば、いつか二人に追いつけるはず……。
始めのうちはそう楽天的に物事を考え、できると願って。何ごとにもめげることはなかったのだ。
だがある日、大輔は気付いてしまったのだ。
いくら練習をしても、元から備わっている才能という壁には打ち勝つことができないのだ、と。
思えば出発地点からして、二人と大輔とではかけ離れていた。それは変えようのない事実で、どうもがいても変えることのできない真実だった。
一度は大輔も、風使いになることを諦めかけた。今だってくじけそうになることはある。
それでも、開いている穴はこれ以上広げちゃいけない。穴はいつだって塞ぐために開いている。そう思いながら、たとえ扱わなければならない風にからかわれようとも、大輔は必死になって練習をしているのだ。
そう。これ以上の差というものは、大輔にとって許されていない。半人前だろうがなりそこないだろうが、今できることを精一杯やるしか道はないのだから。
しかしそうと解っている反面、ただならぬプレッシャーというのも確かに存在していた。
風使いなのに、風使いとしての責務を果たせない。
周りとは引き離される一方の力量。
いつも貼り付けている笑顔の裏側で、大輔は迫り来る『差』というものを最も恐れていた。考えるだけで、足の震えが止まらなかった。
大輔は大きく息を吐き出した。肺にある空気を全部搾り出すような勢いで、深く深く。
風が柔らかに、大輔の髪を揺らしていった。その風はけっして大輔の元を離れようとはしないで、寄り添うようにずっと大輔に付きまとっている。
「大丈夫、平気だよ」
大輔がそう言いながら腕を伸ばすと、風は優しく腕に擦り寄ってきてくれる。それは何だか慰められているような、元気付けられているような気がして、大輔は思わず頬を緩めた。
ありがとね。
胸が締め付けられるくらいに温かかった。か細い言葉を発すると、鼻の奥が何故かツンとして。大輔は一瞬、本気で泣くかもと思った。