一章 (2)
…*…
農道がその割合を多くしていった。
道は緩やかな弧を描き、どんどん山の中へと進んでいく。次の景色が見えるたびに、乗客は身体を左右に傾かせた。
これからどこへ行くんだろう。
果てない期待とも焦燥感ともいえる感情が、大輔の中に芽生えていた。
行き先は、解っている。どこで何をするかも解っている。言伝でも何でも、関係なかった。自分の未来予想図が、そこには確かに描かれているのだから。
ただ描かれてはいても、それはまだまだ未完成品そのもの。レポートで言えば、予測立て。修学旅行や校外学習で言えば、ほんの下調べ。
実際のことは何も解っていない。そういう段階なのだ、今は。
同じ県だと言ってしまえば、今まで暮らしてきたところと大差なんてないのかもしれない。近い場所といってしまえば、それで片付くことなのかもしれない。でも大輔にとって、知らない場所というのは全て同じようなものだった。
これがたとえ高崎市内の知らない店だったとしても。名前も知らないような国だったとしても。行くべき距離が違えども、それは鮮明な記憶となって植えつけられる。
今の大輔の心境としては、差し詰め修学旅行と何ら変わりないものだった。
見ることの感動。感じることの喜び。
過ぎて行く時の一瞬。離れていく故郷。
嬉しさと孤独が大人になりきれていない心の中で、複雑に交じり合っていた。
これから何をするんだろう。
窓越しに畑仕事をしているおじさんを見送りながら、大輔は考えた。
思えばこれだけの間家に帰らないのは、初めての体験だった。
今まではせいぜい、家を空けても三日程度。六日間も知らない場所で過ごすというのは、まったくの初体験なのだ。しかも今回は部活動での合宿。
中学では、合宿なんてどこの部活もやっていなかった。ましてや入っていたのが演劇部。やっぱり人数が少なくて、部長はじゃんけんをして決めたくらいだし。発表も校内の文化祭でちょこっとやった程度だ。
思い返せばすごいルーズな部活だった。ほとんど帰宅部と変わらなかったし、活動の一環と称して遊んでいたりもした。
文化祭が近づくと慌てて台本作って、結局上手くいかなくて。助っ人を呼んでから幼児絵本を丸暗記して、鶴の恩返しをやった記憶がある。確か鶴役は、初っ端から本気で罠にはまって怪我をしていた。舞台袖で、消毒液をぶっかけて包帯を巻いた記憶が残っている。
それに比べたら、今はなんてマシなことか。確かに三流の部活で記憶の片隅に放り込まれている。けれど活動はきちんとやっている。
何より今回だって、部員だけのサボり合宿とは言ってもだ。風景画はきちんと描かさられるし、何よりその作品はコンクールに出すための物でもある。
どうせ何枚もデッサンだってするのだろうから、気なんて抜いてられないのだろう。それに当たり前だけど風景画以外にも絵を描かなきゃいけないのだろうし。……考えている以上にハードなのだ。
今は嬉しさより、気疲れのほうが圧倒的に勝っている。
長く深く息を吐き出しながら、大輔は座席に身をゆだねた。バスはまだ新しく、シートはしっかりと大輔を受け止めてくれている。
耳を澄ますと、女子たちの話し声が聞こえてきた。男子はさっきからほとんど喋っていない。大輔が静かだと、やることがなくなるのだ。
乗客の中には登山家の姿もあった。どうせここに来たのだから荒船山に登るのだろうが、彼らは大輔たちより手前のバス停で降りていった。
すると通る車の波に紛れて、ガゴガゴという低重音が近づいてくる。何ごとかと後方を見やれば、そこには赤いトラクターの姿があった。円錐形の編み笠をかぶったおじさんが、当然の顔をして運転している。
この県では一般道にトラクターくらい、珍しいものでもなんでもない。何せ高崎市内でも時たま目にする光景なのだから、結構スルーできるもんだ。……いや。さすがに国号十七号で目にした時は度肝を抜かされたけど。
ドアの閉まる抜けたような音がすると、バスは再び動き出した。
どこに行くのだろう。
大輔の頭は、その答えを求め続けていた。
…*…
降りてからは多分、三十分くらい歩かされた。辺りは駅があったところとは違い、緑の森と畑が両脇に並んでいる。時折見える民家は古い日本家屋ばっかりで、どんな場所に止まるのかが怖くなってきた。
でこぼことした、草が生えていないだけの道を一行は突き進んでいく。頭上には緑のトンネルに覆われていて――小鳥と、やっぱり蝉の歌声に包まれていた。
しかし突然視界が開ける。長かった森はその場で姿を消し、見えてきたのは綺麗にされた民家だった。
家屋の周囲には竹で作られた垣根と、庭先に一本の木が生えていた。垣根のところにはドウダンツツジがいっぱいに植わっていて、その葉はまだ青く若々しい。春に来ていたら、綺麗な花が咲いていたことだろう。
耿輔は門扉に手をかけるとそっと開け、中に入っていった。みんなそれに続いていく。
借りていた鍵で玄関を開けると、耿輔は中へと足を踏み入れた。すると二畳ほどの三和土が足元に広がっている。
中は玄関から光が射し込む以外に光はなく、ぽっかりと口を開ける闇が続いていた。電気のスイッチがどこにあるのかも見当がつかない。
そんな中を耿輔は慣れた風にそそくさと歩んでいってしまう。入ってすぐ、左隣にある襖を開けるとそのまま姿を消してしまった。どうすればいいのか解らない彼らは耿輔に倣い、三和土で靴を脱ぐとそのまま襖の向こう側へと足を向ける。
部屋に入ってもそこは変わらず真っ暗で、何も見えなかった。奥のほうで小さな物音が聞こえてくる以外音もない。一体何の音なのだろうか。
すると突然、ガコンと一際大きな音がする。大輔は思わず肩をピクリと跳ね上げた。心臓がうるさいくらい、大きな音をたてている。
何があったんだろう。見えないながらにも、大輔はすくんだまま視線を巡らせた。またどこかでガコンという大きな音がした。女子の小さな声が闇に響く。
ガコンガコン――。
音は徐々にその間隔を狭めていく。最後に一度、大きな音があがった。重たいものを落したような、そんな鈍い音のように聞こえる。
本当に何してるんだろう。ぐっと胸を掴むと大きな音はすっかり消え、変わりに光が足元に伸びていた。最初は細い筋でしかなかったそれは、徐々にその幅を大きくしていく。部屋は白光に包まれた。
急な光に目を細めると、光の中に一つの影があった。耿輔が突っ立っている。
どうやらあの音は仕切り戸を開けた音だったらしい。相当硬かったのか、耿輔は両手をふるふると振っていた。
「はいはい皆の衆。突っ立ってるのも結構だけど、まずは換気しようや」
「そうだね。相当熱気がこもっているし」
耿輔と尋希の声に、みんなが荷物を降ろしだした。
「襖は開けたほうがいいんスか」
「開くもん全部は開けとけ。このままじゃ確実カビる」
「耿輔さん。仕切り戸蹴破って……」
「ほーう、ならやってみろよ。マジでシメっぞ慧哉」
「冗談です」
「いいじゃん。一発シメられてこいよ藤崎」
真衣は言うなり、けらけらと慧哉を笑い飛ばした。
「まだ死にたくねぇっての」
「いや、さすがに死なねぇだろ」
反対の仕切りを開けようとしていた大輔は、すかさずツッコミを入れた。だが余計なことを言ったがために慧哉にぶたれてしまう。朝方こけた時の傷が、ちょっと疼いて痛い。
「痛ぇよバカ!」
「痛いってことは、生きている証拠だ。よかったなぁ大輔。お前一応生きてるぞ」
「ったりまえだっつの!」
「その足りない脳ミソも機能していたんだな」
「うっさい!」
確かに成績は慧哉ほどよくないけど、人並みだもん!
大輔は叫ぼうと思って息を吸い込むが、その前に頭が痛くなった。「痛ッ!」とかいう声が聞こえるが、まだ大輔は何も言っていない。
「ウゼェよお前ら。いっぺんヘヴン見てくるか、オイ」
大輔は目をしかめながら顔を上げる。するとそこには、仁王立ちをした耿輔の姿があった。今しがた大輔をひっぱたいたのは、耿輔で間違いないらしい。いや、あの物言いからしても拳の関節を鳴らしているの見ても、まず確定としていいだろう。
それに正面では、慧哉が片膝をついて俯いている。後頭部を手でさすっている様子からしても、慧哉も一緒にひっぱたかれたようだ。ということは、あの悲痛な声は慧哉があげたものであろう。
やはり二人とも死ぬことはなかった。けれどその分、頭部は心臓を移植されたみたいにズキンズキンと派手に脈打っている。
そう。長男ゆえに、耿輔は手加減を覚えちゃいないのだ。大輔は兄弟だし、慧哉は幼馴染だからそのことは身にしみるほど、よく知っていた。
大輔の視界の中、耿輔の足が一歩分寄ってくる。古めかしい床が、ミシッと小さな音を響かせた。
「……ああそうだ。ここの仕切り戸開いといてやるからよぉ。ついでにお前ら一緒に旅立ってこい。なぁに、遠慮するな」
うわっ、黒ッ! この人、黒ッ!
さらさらになった血液が足元に堆積する。そんな気分に陥った大輔と慧哉は、そろって喉から引き攣らせた声を洩らした。
「いいえ。もう滅相もございません」
「マジすいませんでした、親方!」
二人は土下座の変わりに急いで仕切り戸に向かうと、その硬い戸を開けにかかった。これ以上耿輔に話させてはいけない。本能がそう叫んでいる。
やっとの思いで二人が仕切り戸を開けた時には、もう全ての戸が開放されていた。時は一時を少々過ぎたばかりで、太陽はほとんど真上に昇っている。
とりあえず飯にしようと、女子が勝手口へと向かっていった。何と親切なことに、この家の主さんが食材を手配してくれている予定なのだ。
全員が台所に集まるのも効率が悪いので、男子は居間へと追いやられた。することのない残り組は、それぞれ好きなことを始めている。
まだ絵を描く気にもなれないし、だからといってじっとしているのも躊躇われる。トランプやウノは寝る前の行事と決められていたから、やらせてもらえないだろう。これからどこかへ行くにも、十分な時間がないし……。
何しようと大輔は少し考えてから、不意に縁側へと出ていった。
さきほど死ぬ気になって開けた仕切り戸を隣に、大輔は足を投げ出してその場に座る。足は地面に付くか付かないかの、ギリギリのところをふらふらしていた。
景色を眺め見れば、遠くのほうに大きな入道雲がわいている。誰かが言っていたけど、本当に綿菓子みたいだ。白くてキラキラしていて、直視するとあまりの白さに目が痛くなった。その手前には来た時に通ってきた森が広がっている。見事に人家の一つも見えやしない。
田舎だな。本当に田舎だな。
元々田舎な県なのに、大輔はしみじみとそう感じた。
今は何もかもが穏やかそのものだ。勉強だ仕事だと、そういうことに振り回されることなんてない。
今まで忘れかけていたものが、緩やかに刻まれていく。一分一秒が、やけに長ったらしく感じられるほどに。
鳥が空を飛んでいく。風がそよそよと大輔の頬を撫でていった。
その心地よさに、大輔は思わずうっとりと目を細めていた。何か途轍もなく安心するのだ。ずっとこうしていたい。そう思うほどに。
「……――」
大輔は言葉もなく、唇を動かした。風が少し揺れる。
ただそれも一瞬のことで、揺れた後は先ほどと何一つ変わらずにそよそよとしていた。大輔は口元に微笑を浮かべた。
「大輔」
「ふぇ?」
振り返るとそこには、慧哉の姿がある。
「もう支度できたって」
そう言ってくる慧哉はいつもどおりの表情で。しかし最初、大輔は何のことを言われているのか解らなかった。だがそれが昼食のことを指しているのだと理解すると「ああ、うん」と微妙な返答を慧哉に返した。
よっこらせと大輔は立ち上がる。そのまま居間へと行こうかと思いきや、呼びに来た慧哉に、その肩をおもいきり掴まれてしまった。指が鎖骨との間に食い込むようで、すごく痛い。
「ちょっ、痛いって慧――」
「気を抜くなよ、お前」
「は?」
いつも以上に凄みのある声に、大輔は痛みも忘れて目を見開いた。
ヤバイことでもしただろうか俺……。
「場をわきまえろ。――見つかるぞ」
大輔の耳元で囁くように慧哉は告げてきた。苦そうな色を顔に浮かべると、慧哉はそのまま一人、居間へと戻っていってしまう。
その意味を理解した大輔は、しばらくその場から動けなかった。