一章 (1)
『上毛かるた』(財)群馬文化協会
より、「ねぎとこんにゃく下仁田名産」を引用させていただきました。
…*…
「うわー、しくじったー……」
という大輔の声が、妙に響き渡った。
プラットホームに来て、まだそれほど時間も経っていない。……のに、だ。悲劇って何でこんなにもフレンドリーに訪れちゃうんだろうと、大輔は心底不思議でならなくなる。
六人分のため息が、空気を振るわせた。
「部長……」
尋希はどうしようもないくらい呆れ返り、吐息ともつかない声でそう呟いた。他の者も口にさえしなかったが、同じことが言いたげな表情を顔いっぱいに浮かべている。電光掲示板を見ていた耿輔だけは、しかし取り乱すこともなかった。
だがそこに書かれていたのは――……
上信線下り
下仁田行き十時三十一分発
現在時刻、九時四十九分。たった二分前に、前の電車は出発していた。
耿輔が告げた集合時間は十時。次が来るまでは四十分以上もの時間がある。
何の誤算だ? と頭を悩ませることは、実はなかった。
もとより耿輔が乗ろうと考えていたのは、九時十八分発のもの。つまり彼が告げた集合時間と本来の集合時間を、一時間分間違えていたのだ。
耿輔はくるっと振り返る。その顔には焦りの一つも浮かんではいない。
「まあ長い人生、そういうことも無きにしも非ずだ」
浮かんでいるのは清々しいほどさっぱりとした、ある意味最悪のポーカーフェイス。それを向けると耿輔は、こともなげにさらっと言いやがった。
オイオイ。罪悪感はどこに忘れてきたんだ、お前? と大輔は思わず、兄弟の縁を切りたい衝動に駆られてしまう。
「さあ、座ろうやここに」
とはいえ当の耿輔は開き直って椅子を叩いている始末だ。もう手に負えないよ、この人……。
六人分ものため息が再び空気を振るわす。
六人分の幸せが、どこか遠くへと旅立っていった。
…*…
待っている時間とは、途轍もないくらい長く感じられるものだ。
しかしいざ乗ってしまえば、そうでもない。これから起こるであろうことに胸を躍らせて、今や退屈もどこ吹く風だ。
一行は今、電車の中にいる。構内とは違いクーラーの効いた車中は、文句なしに快適だ。
彼らはまるで好奇心に満ちた子供のごとく身を捻っては外を見、数人を除いては落ち着きの欠片もなしに騒ぎ立てていた。
僅かな、でも心地よい振動が彼らを包み込んでいる。車窓から見える景色は時間と共に、その姿を次へ次へと忙しなく変えていた。
気が付けばもう、コンクリートのビル群は姿を消している。見渡す限りに田畑が広がり、民家が疎らにあるだけ。
真夏なのに、どこか涼しそうな雰囲気をかもし出していた。
すると大輔は小さく声をあげて、外を指差す。
その先には白い河川敷と――向こう側に大きな川が流れていた。対岸にはさらに広い河川敷が広がってるようで、乾いた石がどこまでも白く輝いている。
川は広く南北に果てなく続き、途中ダイヤ形の中洲が線路下に見えていた。
河川には数人の釣り人がすでにいる。キラキラと輝く水面の中へと竿を振り、糸をたらしては魚を待つ。一人の竿が、弓なりに引いていた。
それにどうやら、釣りを楽しむのは大人ばかりではなさそうだ。いくらかは親子連れで来ているらしい。子供と大人の集団が遠くに見てとれる。
澄んだ川の流れ。河川敷に散らばる石の数々が夏の陽の元で、どこまでも穏やかだった。
「なあなあ。アレってどうやって中洲まで渡ったんかな」
すでに周りからの視線など気にもせず。大輔は窓にへばりつく勢いで釣り人を見ながら疑問の声をあげた。
「どうやってって、そりゃあ歩いてじゃないの普通?」
「でも川って結構深いんだよね。ああ見えて」
いい加減に推測を述べた真衣に、美紗は朧げな記憶を掘り返す。確か中学の理科の授業で、先生が言っていたような気がするのだ。もしくは国語の授業だったか……。
曖昧なだけに美紗は少し不安になってきて「……多分」と窓の外を見つめながら、小さく付け加えた。
「だけど色が緑っぽく見えるところは、相当深い証拠だよ。太陽の光が川底まで届ききっていないからね。それにたいした深さじゃなくても、この辺の川なら流れが速い。深さよりもそっちのほうが危険かも」
落ち着いた声で、三人の向かい側に座っている尋希は答えた。彼らは一度尋希に尊敬の眼差しをやると、再度川へと視線を戻す。
確かに岸を離れれば離れるだけ、くすんだエメラルドは濃くなっていた。
あ、ほんとだ! と大輔が感嘆の声を洩らした。さらに目を丸くし、外を見つめる。
「アホかお前ら。んなことで一々騒ぐなよ」
嘆息し座席に深くもたれかかりながら、耿輔は彼らを半眼で見つめる。その声は呆れを凝縮した色が濃く浮かんでいた。
「大体群馬なんて田舎だろ? ここに生まれて何で田舎に感動するんだよ」
「だってなんか、じいちゃん家に行くみたいじゃん」
「嘘ぶっこくな。うちのじいさんは、同じ市内に住んでるじゃないか」
「そうだけどさぁ」
口ごもりながら大輔は思わず俯いた。
「だけどテレビでよく言うような風景って感じだし。気持ち懐かしい気分になるし」
だからいいんだよー、と捨て台詞を吐くと、大輔はまた顔を外へと向けた。
ふっと息を吐きながら耿輔は弟の姿を見つめる。
「なーにが懐かしいだ」
耿輔は首を回し、進行方向をぐっと見た。
「川を越えたら住宅街じゃん」
しかし小さな声は、大輔にまでは届かない。知っているからこそあえて、弟には言わないのだ。誰かの楽しさを奪うのは気が引けるから。
耿輔は軽く、瞼を閉じた。薄闇の中、カタタンカタタンと心地よい音が鼓膜を震わせている。
彼の隣に座っていた尋希は、幸恵に顔を向けた。不器用な耿輔に勘づいて、互いに小さく苦笑する。
電車は川の上を、どんどん進んでいった。
あれからは結構、何ごともなく終点までたどり着けた。
何故結構が付くのかといえば、勿論大輔が騒いだからで。餓鬼かこいつは……とそのたびに耿輔は頭を痛くしていた。
とはいえ、ここまで来ると乗客もほとんどいない。
おじいさんが一人、離れたところにポツリと乗っているだけ。一両編成でこれだけ騒いでも、おじいさんは何一つ嫌そうな素振りを見せなかった。ただそれだけが幸いだったといえよう。
そして電車はこぢんまりとした古めかしい駅で、全ての乗客を送り出す。車外は一歩踏み出しただけでも十分暑くて。それでもこの空気は、山間部特有の涼しさを湛えていた。
駅員さんに見送られながら掲示の多い構内を歩いていく。狭い構内にドンと『ねぎとこんにゃく下仁田名産』のカルタの読み札と取り札が、大きく飾られていた。おいおい、なんじゃこりゃと苦笑しながら外に出る。
すると長屋か昔の学校を駅にしたかのような、そんな感じを与える駅舎が背後にが見えてきた。出入り口の横にはまあるい時計と、違和感の塊としかいえない蒼い自販機が置いてある。時代の波に乗り遅れているような。そんな感じがした。
それに風呂でもあるのか、H形の煙突が奥で伸びている。
どんな駅だよここ……と、大輔は胸中で呟いた。
眼前には駐車場が小さく両脇にあった。今のところ、車はタクシーしか止まってない。
それに駅前には道路があるのだが、交通量はほとんどなさそうだ。さっきからやけにお店のおばちゃんと近所のおじちゃんの姿しか見えない。店の前に集まって井戸端会議中のようだ。
学生とかいるのかと、いらぬ心配だが少し不安になってきた。
だってもう夏休みなのだ。それなのに子供の姿が窺えないとか、どうかと思う。って、そんなとんでもない田舎に夏休みの初っ端から来ている自分たちもどうかと思うが。
画材やら着替えやらが入っている鞄の肩紐を、大輔はぐっと握りしめた。
ああ、羨ましいよ。高崎にいる友達。
それにしてもだ。着いてから気になってしかたがないのが、建ち並ぶ店先だった。
何か正直、古い。建築物もそうなのだが、何よりも見栄えが。
どこか違う。それを具体的に言えと言われれば、それはそれで難しいのだが。あえて言えば駐車場がないし、店構えも昔ながらの民家の一階を利用したっていう感じ。
何かそうお目にかかれないってくらい、時代の遅れを嫌でも感じてしまう。
「おい、突っ立ってるな」
物珍しさに固まっていた部員たちを、耿輔の声が急かした。珍しいという呪縛から開放された彼らは、自然と早足になって耿輔の元へと駆けつける。
「十二時五分前だって、バス」
これまた古めかしいバス停とその時刻表を見ながら、耿輔は機械的に告げた。
「まだちょっと、時間があるな」
ケータイの時計を見れば、バスが来るまであと十五分ほどある。何をするにも中途半端な時間で、耿輔は最悪と呟きながらケータイを鞄にしまい込んだ。
耿輔はぐるりと辺りを見渡してみる。だが小さな店と民家くらいしか周囲にはない。それに店といっても、八百屋や布団屋などだ。若者――というよりも主婦向けだろう。見た限りでは近場にコンビニさえもなさそうだ。
「しゃーねぇ。今からじゃ特に何もできねぇし。暑いけどここで待つか」
諦めを言葉にしながら、耿輔は隣にある休憩所へと入っていった。休憩所はちょっとした丸太造りの小屋みたいになっていて、見た目がなんとも可愛いらしい。よく見ればその隣にあるトイレも、同じような造りだ。
部員たちは小屋の中にあるベンチに腰を掛けると、バスの到着をひたすらに待ち続けた。
近くに見える山は青々としている。蝉の声は早朝の駅前で聞いたのよりも、格段うるさかった。