一章 電車と田舎と山の中
さすがは県内一の駅だった。まだ朝も早いというのに、多くの人が、階段を上り下りしていく。
夏休みも初っ端の今日、合宿は始まる。
先に着いたのは、耿輔と大輔だった。兄弟だからか、否が応でも一緒の出発なのだ。
それにしても、こう並んでいると。兄弟なのに二人はあまり似ていないのが丸解りだ。小麦色の癖のない髪と、淡い紫色の瞳。それくらいが唯一の共通点といっても過言でなかろう。
ふわふわとした短髪に大きな瞳、愛嬌のある顔つきなのは大輔だ。高校生にしてみれば、多かれ少なかれ童顔の部類であろう。
だが耿輔はそれと相反して、男子にしては程よい長髪とそこから覗くきりっとした目元。整った顔立ちは、どこか冷静さを漂わせていた。
性格だって無邪気な大輔と比べれば、冷静な耿輔とは月とすっぽんほどの違いがある。本当に髪と瞳の色以外に二人の共通点なんて、一見なさそうだ。
なさそうなのだが、想像力で大輔を大人びくさせると、どことなく耿輔に見えてきてしまったりする。ということはやっぱり、二人はれっきとした兄弟であるのだろう。血の威力とは恐ろしいものだ。
「なあ兄貴」
暇を持て余したような口調で、大輔は呟いた。
「何だ」
「……何で誰も来ないの?」
苛立ちを露にした大輔が、ぶすっとした声でそう言い放った。
だが大輔がそう言うのも誰も来ないのも、無理もないことだ。何しろ耿輔が部長だからという理由で、二人は集合時間の三十分以上も前に来ていたのだ。
それ故にまだ誰も来ないのも、まあ当然というべき結果なわけである。大抵人が集まるのなんて、集合時間の五分前が妥当なのだろうし。
「だから言ったでしょ。こんなに早く来ても、誰もいやしないって」
隣にいる耿輔はそう言われると、大輔の白い視線に睨まれた。オーラと視線が、やけに痛い。
耿輔は一度大輔の顔色を窺うと、ゆっくりと空を仰ぎ見た。
「なあ大輔。一番乗りってさ清々しいよなぁ」
「人の話を聞けよ、アホ兄貴」
話し逸らすなコラと大輔が怒鳴るが、耿輔は「いやー。本当に清々しいね」と聞こえぬふりをする始末。
そんな兄の姿を見てか、それとも諦めてか。あーそうですかと呟くと、大輔は投げやりにその場にしゃがみ込んだ。
天上からは容赦ない夏の陽光が照らしつけてくる。照りつける光は半端なくしつこくて、こんな朝っぱらにもかかわらず、アスファルトは熱気を放出し続けていた。
炙り焼きにされるかのような、そんな妙な錯覚に大輔は襲われ始めた。もしもこのままこんがり美味しそうなにおいがしてきたらどうしようか。……など、ボーっとする頭の片隅でそんなくだらないことを真剣に考えた。
眼前に広がるロータリーでは、忙しなく車が往来している。本来はタクシー乗り場だというのに、そんな面影などまるで感じさせない。また一人、車から降りてきた。
じわりと額に浮かぶ汗を、大輔は流れる前に腕で拭い取った。汗はすぐには乾かず、けれど水分を得た腕はひんやりと冷たい。それでも少ない冷気では、汗はとどまる気配を見せてはくれなかった。拭いきるまでの短時間で、またしても一滴浮かんできた。
肌がじりじりと焼けるのは、感覚で解った。隣にある影が僅かに動く。
はぁ……と大輔は壮大なため息を吐き出した。だんだん頭を上げるのも億劫になってきた。しんどい。
あまりの気だるさにどうしようもなくて、大輔は膝の上で組んだ腕にその顔を押し付けた。
視界は一気に暗くなった。頭がくらくらするような変な感じがする。さっきまでは「これでもか!」とばかりに曝していた腕からは、夏の暑さが嫌というほど感じられた。くっつけた額から、その熱が直に伝わってくる。額が冷たくさえ思えてきた。
相変わらず頭を焦がす陽の光は、ジリジリと音が聞こえそうなほど強い。悠然としているその姿が、だんだん腹立たしくさえ思えてきた。
ちくしょう、今からいっそのこと曇ってくれ。
大輔が頭の中でぼやいた言葉は、しかし天の神には通じそうもない。あとどれくらいこんがり焼かれるのかと思うと、それだけで眩暈がした。
別に俺、コギャルにもマンバにもなりたいわけじゃないのにな……。
あれ? 男の場合はギャル男だったっけか?
正常が抜けきった頭で、くだらないことに大輔は体力を使う。そのおかげで、何に関してもやる気が起きなくなっていた。
大輔は重たい瞼を必死になって上げた。木なんてたいしてありゃしないのに、蝉は嫌味なほどに大合唱を贈ってくれる。まるで暑さに拍車でもかける、魔の呪文のようだった。
あの蝉全部が鳴きやんだら、体感温度は下がるだろうか。などと実に恐ろしいことを思うが、まったくもって想像できないのがまた辛い。夏の風物詩かと嫌気がさした。
大輔の頬に、また汗が伝い落ちる。
ああ。行く末俺も、食料品コーナーか……。
トレイに入れられてラップかけられて。何肉の隣に並べられるんだろう?
想像してから、それが妙におかしくて気持ち悪くて。けれど一体自分にいくらくらいの値段がつけられるんだろう。そう考えれば、それはそれで面白かった。
くくくと息を吐き出せば、肩が小刻みに震える。あー、焼肉だよ焼肉。俺肉で焼肉だよ、と。太陽光線に当たりすぎたのか、大輔はそれしか考えられなくなっていた。
「キモイ」
くつくつと笑っていた大輔は、しかし次の瞬間、背中に瞬間的な重さを感じた。蹴られたのだ、誰かから。
気付いた時にはすでに身体が傾いていた。
大輔はでんぐり返りの要領で、レンガ風味の地面へとダイブしていく。勿論頭部からだ。
人々の足音が瞬時に止まったのは、単なる聞き間違いなんかじゃないだろう。確かに通行人たちは、大輔のその無様な姿に驚きを隠せやしなかったのだし。一様にその呆気に取られた視線を大輔へと注ぎ、立ち止まっていたのだから。
こういう場所で派手に転べば、こうなる。
結果が解っていただけに、大輔は恥ずかしさでいっぱいになった。
また運悪くも、大輔の額は打ったがためにほんのり赤く染めてしまっている。小麦色の前髪で額が隠れていながらも、残念ちょうどよく見える位置をだ。
それにどうやら額を擦り剥いたようで、上っ面だけは白く皮が剥けている。
強い陽射しを受けると、痛さが少しばかり増した。苛立ちと痛みに、大輔は唇の端を引きつらせた。
痛ってー。と小声で言いながら、大輔はムクッと立ち上がる。それはまるで、どこぞのホラー映画にでも出てきそうな勢いだ。純度百パーセントの怨みこもったその念に、周りの空気を一瞬にして黒いものへと塗り替えてしまう。それでも体感温度が変わることなどなかったが。
「慧哉くーん」
視線の先で藤崎慧哉は、何ごともなかったかのごとく澄ました顔で立っていた。
いつもより一トーン低い声で、大輔は唸り声をあげている。これは最早「怨むぞ、呪うぞコノヤロウ」と言っているも同然だった。
大輔は慧哉を下から睨みつけると、口端をひくつかせた。その双眸は狂気的な輝きに満ち溢れていて。
「ざけんなや」
「るせぇ、キモス野郎」
そのくせ呆気なくも大輔は敗退する。
文句あんのか? と慧哉が眼飛ばすと、もう何も言わせてもらえない。氷よりも冷たい慧哉のオーラが、そう脅しているのだ。ことの全てが問答無用に終わらされた。
もう何が悲しいって、たった一言でことの成り行きが解ってしまったことだろう。これ以上の敗北感は、早々味わえない。……というやつだ。
認めたくはないけど、慧哉は外見だけで見れば、すごいモテる。
ダークブルーの髪は襟足が少し長く、唇は適度に薄い。また一ノ宮兄弟と同様、瞳の色は淡い紫色。尚且つ切れ長だ。長身の身体は程よい筋肉で引き締まっているし、ぱっと見モデルとかでもやっていそうな感じなのだ。しかも運動も勉強もできるから、引け目なんてどこにあろう。今とは違い、完璧なオーラが常に放出されているのだ。
しかし性格はあっさりそのもの。スパッと言って、スパッと切る。あっさり美味しいキュウリの浅漬けなんかよりも、ずっとあっさりしているかもしれない。
大抵の女子は口数の少ないクールビューティーだとか言って、周囲からの評判も鰻登りに上々なのだ。が、それは結構大きな勘違い。みんな外面に騙されてしまっているだけで、本性ではああいう、氷の殿下なのだ。慧哉は。
大輔と慧哉は幼馴染であるから、嫌でもそういうことは知っていた。それに長く共に過ごしてきた分、大輔には解ったことがあった。
奴には勝てない。
そうなのだ。これだけ一緒にいてもなお、大輔は未だかつて、口と体力の双方で勝ったことがない。常に今回同様、黙らされている。
故に大輔は思うのだ。越えられない壁とは、案外近いところに存在しているのかもしれないと。
ぶすっとした表情のまま、大輔は辺りを見回す。
そういえばもう、大方の部員は集まっているようだった。
階段の手前――耿輔の左隣には、二年の城戸幸恵が立っていた。
腰の半ばまである長い髪を、下のほうで一つに結わっている。白を強調したワンピースの下に、栗色の七分丈のズボンといった恰好。おとなしめでちょっとおどおどした先輩らしい、そんな格好だった。
そして耿輔と幸恵のちょうど前に、同じく二年の小池尋希。
眼鏡をかけたその顔は、秀才と幼さの両方をかもし出している。長めの髪を風に躍らせる姿は、まるで彼の心を映しだしたかのように穏やかそのもので。だが彼はこれでも一応、美術部の副部長にあたる人だ。
そして三年の一ノ宮耿輔に、一年の藤崎慧哉と一ノ宮大輔の計五人が、もうすでに集合している。
まだ集合時間までには結構あるというのにだ。
どうやらこの部活には律儀な人が多いらしいと、大輔は頭の隅で勝手に解釈した。
あと残るは、一年の女子二人だけだった。彼女たちはマイペースといえばマイペースだが、けっしてスローペースというわけではない。きっとそれほどしないで来るのだろう。
ともなればあとは、これから先のことを考えるのみだ。これから続く、長い長い共同生活へと思いを馳せて……。
やはりそれほどもしないで、ロータリー奥の歩道を走ってくる二つの影が見えた。
ストレートの髪はボブカットで、Tシャツと七分丈のズボンというちょっとボーイッシュな格好をした一人の少女――樺沢真衣が真っ先に駆けてくる。彼女は実際、性格のほうもかなり男勝りなのだ。
そして後ろからはもう一人。セミロングの髪の上半分を、二つに分けて結わっている少女――綾瀬美紗だ。蒼系統で統一されたワンピースとその結った髪が、駆けるテンポに合わせて靡き、ぴょこぴょこと跳ねていた。
彼女もまた見たまんまの、おっとりとした性格の持ち主だったりする。走るのもおっとりなのか、真衣との距離はどんどん開いていった。
「すんませーん!! 遅れました」
鞄がすっぽ抜けると思うほど手を振りながら、余裕綽々とでも言うように真衣が駆け寄ってくる。
真衣の後から「ごめんなさい」と息を切らして、美紗がやって来た。合宿前から体力使ってどうするんだ? と、そう思わせるくらい美紗はへろへろしている。
ピンピンしている真衣とは、天と地もの差がある様相だ。心配した幸恵と尋希が美紗の背中を撫でていた。
「大丈夫。遅れてねぇよ」
「あ。マジッスか?」
耿輔の言葉を聞くなり真衣のパッと表情は華やいだ。そりゃよかったと有り余る元気を出しまくっている。
一体その元気はどこに収納してあるのだろうか。溢れんばかりの体力は、美紗の体力と足して二で割っても、まだ余裕でお釣りが返ってきそうだ。
「まー、何だ? とりあえずそろったってことでいいんだよな?」
言うなり「ひぃ、ふぅ、みぃ……」と面倒くさそうに数える耿輔に、尋希が「全員いますよ」と付け加えた。
「ってことらしいから、一応出発すっぞ」
迷子になるなよー。と、一番迷子になりそうな耿輔が声をかける。心配は確かに拭いきれないが、とにもかくにも合宿は第一歩を踏み出したようだ。
もう何があっても六日間は引き返せないんだな。
そんな思いを胸に、一行は階段を上り、ホームへと足を向ける。
夏の陽射しは衰えることなく、この地を照らしていた。




