終章 懐かしの陽光に照らされて
気が付けば、大輔と美紗は一緒になって、あの場所に突っ立っていた。
天井は晴れ渡っている。今、この地は快晴。あそこまで立ち込めていた雨雲も、やはり今は一つもない。
風はそよそよと頬を撫で、あたり一面を覆っていた雨水は綺麗さっぱりなくなっていた。まるで全部が全部、夢のようだ。白昼夢を二人して見ていたのではないかと、そうにさえ思ってしまう。
けれどそれが、夢でないと証明するものがただ一つだけ存在していた。
そう。何よりもはっきりとして。
とぽとぽと森の中を歩きながら、大輔は「んっ」と小さく伸びをした。それからひっそりと、美紗の方を見やる。
「いいの、それ?」
「うん。かまわないよ」
だが美紗は躊躇うことなくはっきりと、そう頷いてきた。ついさっきまでのか弱い美紗とはまるで違う様相。
本当は夢なんじゃないのだろうか?
半信半疑になりながら大輔は掌に爪を食い込ませてみる。しかし残念なことに、そこはすごく痛かった。苦痛の声を洩らさないように唇を噛み締めながら、大輔は痛みと格闘する。
チクショウ。これは夢じゃない。
「ねえ、大輔くん」
「んー? 何」
あー、痛っと呟きながら、大輔は美紗に顔を向けた。すると隣にいる彼女はとても嬉しそうに、にこにこしている。
思わず「何だよ」と言うと、ことさら美紗は楽しげに笑った。
「あのね、さっきはどうもありがとう」
さっき、というのは水の神と会った時だろうか。それとも美紗を抑えたあの時?
どちらかはよく解らない。もしかしたら両方なのかもしれない。
結局どっちかもよく解らないままに大輔は「うん」と曖昧な返事をしていた。それでも美紗は、嬉しそうににこにこ笑っている。
そんなやり取りが何だか気恥ずかしくて、大輔は思わず視線を逸らした。足元には多くの陽だまりがふよふよと浮いている。足元の緑は金色にちろちろ光っていて、そこから海にでもつながっているような気がした。
そう。今なら何でもできるような、そんな気がしてならないのだ。
「そうだ、大輔くん」
大きな声をあげると美紗は立ち止まった。大輔も慌てて美紗に倣う。
「何?」
「あのねっ、わたしも言いたいことがあったの」
そう言うと美紗は急に挙動不審になり、あわあわと一人で慌てだす。ちょっと待ってねと美紗が言うと、それからしばらくは一人で何ごとかを呟いていた。
別に言い難いなら、無理しなくってもいいよ。
そう思うが、瞬時に大輔はその言葉を飲み込む。言っちゃいけない。何かがそう思っていてならないのだ。
これから美紗が言おうとすることには、相当の決心がいるのだろう。そして美紗は、その決心を今こうして打ち明けようと頑張っている。
水を差しちゃいけない。
そんな思いがあったから、大輔は口を噤み、美紗の言葉を待ち続けることにしたのだ。
美紗は未だ、何かと葛藤している。だがしばらくしてから「よし」と小さく呟くと、美紗は改めて大輔のほうへと向き直った。その顔は幾分赤い。
「大輔くん。わたしね――」
それは彼の一番望んだ気持ちの形。
水使いになった彼女の瞳は、今の空のように澄んだ水色をしていた。
…*…
「オラァ、忘れもんしたらただじゃおかねぇぞ」
耿輔の声に急かされながら、まとめ終えた荷物を部員は各々持つ。
そこに広がるのは、徒広いだけの十畳間。女子部屋としていたところには、乾いた畳が嵌め込んである。
仕切り戸も閉めて、布団も上げて。何もかもが来た時と同じだ。
みんなそれぞれ、思うところがあるのだろう。その表情は充実に満ちていても、どこか少しずつ違っていた。
思えばこの六日間で、いろんなことが起こった。
意義あるものだったのかとか、そういうことは正直まだ解らない。多分もっと大人になってから、これは意義のあるものだったかどうかの判断をすることができるのだろう。
でも今の時点で言えば、かなりの収穫があった六日だと、そう言いきれる。
忙しなくて疲れて、波乱万丈な毎日だった。今思い返しただけでもちょっと疲れてしまう。
けれどこれは確実に、自分に何か大切なものを与えてくれたようにも思えるのだ。
少しだけ大人になれたような気が、しなくもない。
そしてそれは様々なところで、自分への肥やしとなっているのだろう。
この場所は大輔に、多くのものをもたらせてくれた。
最後の確認を終え、耿輔が玄関の鍵を閉める。カチャッと大きな金属音が耳についた。
木造の小さな世界を、彼らは一度仰ぎ見る。蝉はあの時と変わらず、うるさいほど澄んだ声で鳴いていた。
「うっし。んじゃあ地元に戻るぞ」
真夏の陽光が注ぐ中、耿輔の声が響き渡る。
これから始まる夏休みの扉が、今一度チェックインされた。
終わり。