九章 君と共にいられるために
火の御子と水の御子は、城下へと来てしまいました。
勿論みんなには内緒です。
そして最初は行くことを否定をしていた水の御子も、今は違いました。
二人とも目を輝かせていたのです。
「城下ってすごいね。人がいっぱいいる」
「そうでしょ。やっぱり来てよかった」
二人は人の住まない場所から出たことがありません。ましてや小さな御子の村でしか生活をしたことがないのです。
なのでこれだけの――しかも人間の数に、圧倒されているのでした。
水の御子が感慨にふけていると、得意になって火の御子が言います。
「人間は毎日、こういうところで暮らしているんだよ。……ほら、あそこに出店がある」
言うなり火の御子は、走っていってしまいます。
水の御子は必死になって、その後を追いかけました。
でも……。
「きゃぁぁぁ!!」
人の流れが止まりました。二人もつられて、その動きを止めました。
どよめきが流れるようにやってきます。
「火事だ!」
誰かの叫び声が、賑やかな城下に響き渡りました。
二人が振り返ると、そこには焚き火だったものがあるではありませんか。それは建物を吸い込むと大きく成長して、どんどん赤くなっていくのです。
誰かが消防団を呼んでくると、駆け出していきました。
数人の男は、近くにある堀から水を汲んでは駆けています。
それでも炎はみるみる大きくなってしまいました。
黒い煙が赤い火花を抱えて、蒼い空を覆おうとしています。
自分の友達がこんなことをしてしまっていることに、火の御子はいてもたってもいられなくてしまいました。
そしてついに、いてもたってもいられなくなった彼は、駆け出していってしまいました。
彼はとうとう、人間の前で詩を唱えてしまったのです。
…*…
強くなる一方の雨風に大輔は狼狽えた。
雷鳴はひっきりなしに、頭上で轟き続けている。降り注ぐ雨は二人を囲い、まるで矢のように鋭くなっては地を射抜いてゆくのだ。肌に刺さるそれは、眉を顰めるほど痛い。だが更に痛いのは時間が経つにつれ、強さを増していってしまう風の存在だろうか。
クソッと声をあげながらも、大輔はスケッチブックから溢れる風を止めようとした。美紗がいるため風術は使えない。だから何とかして話しかけようと試みる。
しかしどれだけ話しかけ足掻いてみても、溢れ出す風は止まらない。スケッチブックから共に流れ出る歪んだ気は、けして正常を取り戻どそうとはしなかったのだ。
しょうがない。大輔はいさぎよくあきらめると、荒れ狂うスケッチブックを足元に放りやった。本を落とした時のバサッという音が、風に巻き上げられながら耳に入る。そして空いた両手で、大輔は美紗の身体をぐっと引き寄せた。
……きっと綾瀬が、何かを知っているはず。
根拠もへったくれもない。ただの勘と言ってしまっても過言ではいかもしれない。にもかかわらず、大輔はその一筋の希望に全てを賭けようとした。
「綾瀬、何があったんだ?」
細い肩に手を乗せ、大輔は前後に軽く美紗を揺さぶった。しかし聞こえていないのか、虚ろな瞳のままに美紗は俯いている。
「ねえ綾瀬!」
雨風に負けないようにしたら、声はうんと大きくなってしまった。そのせいか、美紗の背が恐怖に小さく震える。
俺は綾瀬を苦しめているのかもしれない。
途轍もない罪悪感が、大輔の胸中に生まれた。それでも大輔は呼びかけをやめようとはしない。必死になって、必死になって。
「黙ってないで言ってよ」
美紗に呼びかけ続けた。それは彼女を想う気持ちが、大輔にあったからだ。
もしも……。そう、もしかしたら美紗の言葉の中に、彼女を庇える何かがあるかもしれない。
何としてでも、この大好きな綾瀬を守りたい。だから――
「お願いだよ綾瀬……」
たった一言でいいんだ。
か細い声で囁くと、美紗を抱き寄せる腕に大輔はきゅっと力を込める。
そう。だった一言、お前の身に起きたことを俺に教えて。教えて――
でも美紗は、やっぱり何も言ってはくれない。
「……綾瀬……」
脳裏に焼きついているのは、今までの美紗の姿。無邪気なままのあの様。
認めたくない、認めなきゃならない。
信じたくない、信じざるをえない。
本当にこれをしているのは綾瀬なの――?
相反する意見が互い、大輔の頭の中で葛藤した。そのたびに心は痛みを発する。
お願い。何でもいいから言ってよ。
その言葉を伝えるように、大輔は小さく「綾瀬」と洩らした。
すると美紗はその小さな身体を震わせ、縋るように大輔の服を掴んできたのだ。
「大輔くん、……ゴメンね……」
消え入ってしまいそうなほど小さな声を、しかし大輔は聞き逃さなかった。
歪んだ風が、微かに揺らぐ。
「わたし、見ちゃったの。……大輔くんが風を……動かしているの。それから、……慧哉くんと部長と三人で、小さな小人みたいな子を捕まえているのも……」
刹那、大輔と耿輔に衝撃が走った。
綾瀬に正体がバレていた――!?
あまりの事実に、美紗を抱きしめる腕から力が抜け落ちる。
それは彼らの精神を揺さぶるには、十分すぎる威力を持っていた。
「解んないよ、大輔くん。……わたし、もう……」
その声にいつものような明るさはなかった。
まるで道に迷った子供のよう。
「助けて……」
美紗が一筋涙を流す。風が今までで一番、強大になった。
息を呑み、大輔は美紗を庇うのを思い出して再びその腕に力を宿す。そしてはたと別のことも考えた。
もしかしたらこの風は、綾瀬の心の闇なのか?
風が、雨が、二人を取り囲んだ。まるで自然の鳥篭が、二人に覆いかぶさるかのように。
外界から完全に隔離されてしまったのだろうか。外で耿輔が何か叫んでいるが、まったく聞こえてこない。
どうして? 何で聞こえないの、一体何が起こっているの?
……ここにいるのは、自分と美紗。たった二人だけ?
もう誰の手も借りられない。
重石がぐっと、大輔の胸に圧し掛かった。じりじりと迫り来るプレッシャーは確かにある。
それでも、もうこの風を止められるのは自分しかいないのだ。――誰にも頼れない。
仲間として、自分に何ができるだろう。
抱きしめること?
耳元で囁くこと?
それとも、必死で神に縋ること?
――いや、違う。風使いとして、仲間として。綾瀬の心に吹く風を取り除いてやるよ。心配も恐怖も拭い取ってやるよ。
だから今、自分にできることと言えば、
「綾瀬聞いて」
腹を括った大輔は落ち着いた声色で美紗に話しかけた。そう。
「信じられないかもしれない。けど俺たち、本当は風使いで……人間じゃないんだ」
心の闇が晴れるなら、禁忌だって犯してやる。
腕の中で美紗が微かに強張った。そこにあるのは明らかな恐怖心だった。
目に見える拒絶に、大輔の心は少なからず傷ついた。こうなることくらい解っていたのに、言いようのないほど心は苦しくなる。それでも苦しみを堪え抜くと、大輔は話を再開させた。
綾瀬が納得するためだったら、なんだってしてやる。たとえ心が傷つこうが、全身から拒絶されようが。そんなのもう、かまわない。そう心に決めたんだから。だから――
「俺は神の子供だよ」
美紗が顔を上げ、大輔の淡い紫色をした瞳をじっと見ている。
「大丈夫。心配しなくてもいい」
ふわりと美紗を優しく抱き寄せた。大輔の肩に、美紗の顔が当たっている。
大丈夫。
囁けばその分だけ、美紗の身体から緊張感と恐怖が抜けていくのが感じられた。
そして乱れた風が弱まっていくのも、しかと感じることができる。
「ねえ」
風が気配を消す寸前。
「俺、綾瀬のことが好きだよ」
最後に一等小さな声で、大輔は胸のうちを言葉にした。
…*…
火の御子は掟を破って、人間の前で火術を使ってしまいました。
するとどういうことでしょう。火の御子は今までいた城下から突然、見知らぬ地へと移っていたのです。
「御子よ。どうして掟を破りました?」
するとそこには真っ赤な髪と瞳をした、美しい人が立っているではないですが。
火の御子はきょとんとして――それが我らが母であり父である火の神様だと気付きました。
彼は思わず、口を噤みました。
掟を破った者には重い罰があると、そう聞いていたからです。
「言ってみなさい」
火の神様は優しい声で、そう促しました。
「火が。……火が回っていて、消防団が来なくて。だから……」
「消そうと思ったのですか?」
火の御子は、コクンと頷きます。
それを見た火の神様は、優しく微笑みました。そして火の御子の頭を撫でると、ゆっくりと口を開きました。
「解りました。ではあなたは――――」
この後火の御子がどうなったのかを知るものは誰もいません。
火の神様と火の御子だけが、知っていることですから。
御遣いは人間と交わってはいけない。それを破った時、その者には重い罰が下されるのだ。
大輔は感じていた。もう風使いのままではいられないだろうと、この世界にはいられないだろうと。
それだけのことをしたという自覚が、自身の中で確かにあったから。
…*…
雲は引き、風はやんでいた。
木々は陽光に雫を輝かせ、小鳥はどこかで囀っている。
ああ、戻ったんだ。ぼうっとした意識が、それだけを理解した。うん、確かに日常が戻っている。
美紗とをつないでいた手を放すと、大輔は天を仰ぎ見た。
キラキラと輝く陽光が、ここにいる全てを照らしている。けれど大輔が見ているのは、それじゃない。
そろそろ迎えが、来るはずだから……。
ぐっと胸が苦しくなるのは、どうしてなんだろう。
思わず涙が零れそうになる瞳。鼻の奥が鈍く鋭い痛みを発していることを自覚しながら、大輔はそうかと思った。
俺はもう、ここにはいられないんだ。この世界にはいられないんだ。
両親や耿輔、慧夜は勿論のこと、クラスメイトや友達や部活の仲間や――何よりもう、綾瀬に会うことさえできない。それはつまり、永遠の別れを差しているのだろう。
もう、誰にも会えない。
これで見納め。
そう思うだけで、大輔の胸は詰まるように苦しくなっていくのだ。
淡い紫の双眸が涙に揺れ、蒼い光を反射する。――とそこに、ふわりと誰かが舞い降りたのだ。南の海のように淡く美しく輝く水色の髪と瞳を持った、水の神が。
「え……」
大輔は混乱した。自分は風の御子。ということはつまり、目の前にいるべきは風の神であるはずなのだ。だがここにいるのは、まごうことなき水の神。
どうして彼の方が――?
そう混乱していると、水の神はふわりと微笑んできた。
「風の御子さん。うちの者が迷惑をおかけしたようですね」
その声は笑顔同様にやわらかく、心が芯から温かい。
「えと……」
しかし大輔は、抜けた声を発することしかできなかった。あまりにことが唐突すぎて、さらに頭の中がこんがらがる。
うちの者? 迷惑?
それって一体何を指しているのだろう。
「あの、水の神様。一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
「ええ。一つと言わず、幾らでも聞いてください」
にっこりと微笑んでくれる神に会釈すると、大輔は直球よろしく疑問をぶつけた。
「自分が罰せられるのではないのですか?」
そんな直球を喰らった神は、しばし理解ができずに一度首を傾げる。だがそれを解すると、水の神は可笑しそうにふふっと笑った。
「それは勿論です。私たちにあなたを罰する理由などないのですから」
「では……何故このような所へお出でになったのですか?」
「ああ。この子が目覚めてしまったようなので」
そう言うと神は、優しい表情を湛えたまま、美紗の頭をそっと撫でた。
「風の御子さんも、一度は聞いたことがあるかと思いますが。……この子は迷いし水の御遣いなのです」
えっ、と大輔は声を洩らす。
確かにその類の話は、大輔も聞いたことがあった。この世に神の御遣いとして生を授かったとしても、力に目覚めないで自らを人間と思ってしまう御子がいる、と。
それが迷い御遣いだが……まさか美紗が?
大輔が神の瞳を見つめると、彼は優しく微笑んでくれた。その姿はまるで父のように温かく、母のように優しい。
「この子にはお話をしないとですね。自らの使命は、知っておくべきでしょうから」
確かに彼は、御子の親だった。