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八章 少女と少年とスケッチブック


 耿輔が倒れた。日頃の疲れが、ここにきて祟ったようだ。

 部長の不測の事態に一番冷静だったのは、そばで見守っているタイプの幸恵だった。いつもの彼女からは想像もできないくらいはきはきとしていて、狼狽える部員を宥める。また状態を診る時でさえもその手際はよく、幸恵のおかげで耿輔の容態もだいぶ落ち着いてきたようだ。

 そんな今、大輔は男子部屋にいる。いきなりの事態に、耿輔が倒れたのは自分のせいだと思っているらしい。

 俺が足引っぱっているから、兄貴はこんなめにあったんだ。だからせめて、そばについていてあげなきゃいけないんだ。そう言って引きこもりっぱなしだ。

 誰もあんな大輔を見たことがなかった。

 何とか励まそうと美紗は思い立ってみたが、それも却下されてしまう。無理に励まそうとすれば、逆に落ち込ませてしまうだろうから。

「今はそっとしておいてあげて」

 幸恵はそう言うと、みんなを席に着かせる。

 合宿が始まって以来、初めてこんなにも静かな時間を迎えた。


   …*…


 まだ夜も明けきらない早朝に、大輔と慧哉は床を抜け出した。向かった先は、隣室。

 誰も起こさないよう静かに襖戸を滑らせながら、難なく部屋を移動した。

 入った部屋はあの居間だ。居間には一つだけ布団が敷かれており、そこには未だ気だるそうな耿輔の姿がある。

 昨日の夜、耿輔はやっと目を覚ましたのだ。その時の彼は自分の身に何が起こったのかを、まったく理解できないでいた。

 ただぼんやりとする視界の中で、ぽろぽろと涙を流している大輔の姿だけが鮮明に浮かび上がっている。暗い室内だったのに、あの表情はやけにはっきりと覚えていた。

 それからしばらくしてから、水の入った桶を手にして幸恵がやってきたのだ。最初は驚いていたようにも見えたが、すぐに微笑を浮かべ「まだ安静にしていてくださいね」と釘を刺されてしまう。

 幸恵は耿輔の額に乗せたタオルを水に浸すと、ぎゅっと絞ってからまた耿輔の額に返した。どうやら熱が出ているらしい。新しく水を含んだタオルが、とても冷たく感じられた。

「なあ城戸」

「なんですか、先輩?」

「……俺に何かあったのか?」

 聞くと、幸恵はすべてのことを耿輔に話した。大輔と話している間に気を失ったこと、疲労と環境の変化により体調が崩れたこと。そして昼間からずっと目を覚まさず、大輔は自分を攻めながらもそばについていてくれたこと。

 聞けば聞くほど、とんでもないことを引き起こしていたことを思い知らせれた。思わず苦い表情のまま耿輔が視線を逸らすと、幸恵は柔らかな表情を湛えながら布団を直す。

「ともかくゆっくりしていてくださいね。これ以上悪化されると、部員が心配して押しかけてきますよ」

「それはちょっと……」

 かすれた声でおどけるように言うと、幸恵はにこっと笑った。未だ隣で心配そうにしている大輔を宥めると、幸恵は桶を持って立ち上がる。

「あ、あとさ悪ぃ。寝る時になったら声かけてくんねぇ? 俺居間に行くから」

「別にかまいませんけど、どうしてですが?」

 退室しようとした矢先に声をかけられ、疑問をあらわにして幸恵は振り返った。

「いや。他の奴にうつすのも困るし、無駄に心配されるのとか苦手だからさ」

 恥ずかしそうに頬をさらに紅潮させる耿輔を見て、その優しさを幸恵は受け取った。

「解りました。ではみんなに言っておきますね」

 幸恵は今度こそ静かに退室する。ややしてから耿輔は「大輔」と呼んだ。

「明日の朝、夜が明ける前に慧哉をつれて居間に来い。いいな」

 目を腫れぼったくさせた大輔は、耿輔の言葉に素直に頷く。

 そういう成り行きがあって、こんな早朝にもかかわらず三人が居間にそろっているのだった。

 布団の上に座っている耿輔がちょいちょいと手招きをしてくる。再び音を出さないように襖を閉め、二人は忍び足で向かっていった。

「もう大丈夫なの?」

「ああ、だいぶ楽になった」

 だがそう答える声は、いつもより幾分低い。本調子に戻るには、まだまだ時間を要するようだった。

 二人を隣に座らせると、耿輔はずいと顔を寄せてくる。

「で、昨日のことなんだが。……何か手がかりは見つかったか?」

 小さかった声音をさらに小さくし、耿輔は険しい表情をしてそう言う。

 慧哉は首を横に振った。

「こっちには何もありませんでした」

「大輔は?」

 視線が注がれる中で、大輔は首を縦に振る。

「女子部屋。昨日の場合だけど、あそこから風は漏れていた」

 それから大輔は声を潜めながら、昨日気付いたことを順を追ってすべて話した。渋い顔をしながら聞いている二人に、大輔はさらに付け足す。

「風の精の女の子が言っていたことは、うそじゃないと思う」

「『ここにいるどの風のものでもない』ってやつか?」

「うん。あんなにおかしな風、どんなに優秀な風の精でも使えるはずがないって」

 耿輔の声に深く頷いて、大輔はそう断言した。

「確かにな。自分がいないところで溜めていた風を動かすのは多少であれば可能だろうが、……あそこまで強力に動かすことは、まず無理だろう。風の精じゃなくとも風使いだって、並大抵の奴が使えるような力じゃない」

 顎に手を当てながら耿輔は呟いた。

「風なのに風のものじゃない、か……」

 それらを吟味するように耿輔は頭の中で転がしながら言う。

 風じゃない。それが何を意味しているのだろうか。

「だったら俺も、一つだけ引っかかるものがあるんだ。……けど」

 言いかけて耿輔は言葉を噤む。その瞳には明らかな疑念の色と――打ち消したい否定の色とが相混ざっている。

 だがすぐに意を決し、耿輔は続けた。

「昨日、俺も風の精から聞いたんだ。そこで言われた言葉は『皆さんが来てから、風の色が変わった』」

 空気が凍りついたかのように、サーっと冷たくなっていく。

 耿輔は、今何て……

「つまり俺たち美術部員の中に、これらを引き起こしているであろう奴がいる」

「ちょッ、ちょっと待ってよ兄貴。だって俺たち以外はみんな人間なんだよ?」

「そうですよ。そんなことってできるんですか?」

 戸惑いの声を二人はあげた。

「解らない。だけど……そうとしか考えられないだろう」

 しかし耿輔はその事実に否定とも肯定ともつかない言葉を残すのみだ。曖昧なだけに、二人の不安は一層つのる。

 うす暗い闇を静けさが支配した。今は誰を見ても平常を垣間見ることはできない。

 古い家屋特有の、ピシンと木のずれる音がした。それはやけに耳について離れなかった。

「どっちにしろ、俺たちは原因になりそうなものは疑わなけりゃいけねぇ」

 静けさが耳につき、声は余韻を残して消えていく。事実なだけに、誰も耿輔に反論することはない。

 悲しいかな。それが人ならざる者の使命なのだ。

「仲間を疑いたくないのは解る。でもお前たちに、それができるか?」

 すぐに頷くことはできなかった。

 疑うということはつまり、相手との間に心の闇を作るも同然だ。

 けれど数秒とせずに慧哉は顎を引く。大輔も合わせて頷いた。

 そうか……、とすまなそうに耿輔がポツリと言葉を洩らす。瞼を伏せると、より悲しそうな印象を与えた。

「俺はこんな身体だから、行けるかどうかは解らない」

 耿輔は寂しい微笑をその顔に浮かべる。

「難しいとは思うが、今日中に犯人を見つけろ。俺もできる限り、力は貸す」

 大丈夫か? と尋ねると、二人は即答する。

 はい、という返事に迷いはなかった。


   …*…


 体調の優れない耿輔に留守を任せて、部員たちは外に出た。天空に広がる夏空は、光の神の力でどこまでも元気のいい陽光を地上に降り注いでいる。

 慧哉と話し合い、一足先に大輔は最初に歪んだ風を感じたあの場所へと赴くこととなった。ある作戦が故だ。そしてそれまでの間、できる限り慧哉が部員たちを見張っていてくれるという。

 うきうき気分で歩いていったあの道を、今は間反対の感情を込めて突き進んでいく。

 本当に仲間の中に、こんなことをする人がいるのだろうか……。そう考えるだけで大輔の気は、どんどん滅入っていった。

 仲間を疑いたくない。確かにそのとおりだ。

 でもそれ以上に、大輔は部員の中から犯人を知る。そのことが何よりも怖かった。できることなら耿輔の――風の精の言ったことがはずれてほしかった。

 また振り出しに戻ってもいいから――

 すると突然、風景が切り替わった。

 生い茂っていた木々が途端になくなり、短い草原が視線の先にさらさらと広がっている。そして草原の先は、あの切り立った断崖。

 着いてしまったんだ。

 そう思うと、胸の奥がチクリと痛んだ。どうしようもないくらい、苦しかった。

 だってここから、全てが始まってしまったのだから……。

 一歩足を踏み出して、大輔は陽の下に姿を曝した。眩しい陽光。吹きぬける風は、穏やかそのものだ。あんな歪みなんて、微塵も感じられない。

 そこにはいつもの光景が広がっていたのだ。

「あ、大輔発見!」

 すると聞こえてくるのは明るい声。大輔は覇気のない様で、ゆっくりと振り返った。そこには耿輔を除く部員全員が集まっている。彼らは大輔の存在に気付くと、足早にその場所へとやってきた。

 しばらくしてから大輔は、努めていつもの笑顔を作る。

「どうしたのみんなで? 目的地が一緒だったとか?」

「んな奇蹟があるかタコ」

「じゃあ……」

「集団行動。って言ったほうがいいのかな?」

 貶す真衣とは違い、尋希はきちんとしたことを述べてくれる。

「大輔、話を聞く前にいなくなっちゃったんだもん」

「そうだったんですか」

 勿論大輔はそのことを知っていた。これが慧哉との、いわば合流地点だ。

 部員を見張るのだから、誰がどこにいるのかくらい把握したほうがいいだろう。

 そういうことになり二人は頭を捻った。なにせ風使い以外の部員は四人もいる。その四人のいる位置を全て把握して、なおかつ大輔があの場所で風を探す時間を稼がなければならないのだから。

 いかに解決すべきかと悩んだ挙句、出てきたのが『互いが描いた風景を巡って、その間に大輔が異変を見つける時間を稼ぐ』というもの。

 絵を描いた場所を巡り批評しあうよりも、それぞれが行くであろう場所を慧哉が覚え、しかも集団行動により一箇所にまとめてしまおうという大胆さ。

 そして美紗と大輔が描いたこの場所を終点にし、ここから二手に分かれようというのだ。慧哉から聞けば、誰がどこに絵を描きに行くのかも解るからだ。

 しかしそんな裏があるなど知らない尋希は苦笑いを浮かべると、知らなかったふうの大輔に「実はそうだったんだなぁ」と洩らした。

「ごめんなさい。……で、何をするんですか?」

「みんなが描いたところを巡っていたんだけど。もうここで終わりなんだ」

「うそっ!? マジすか」

「マジすよ」

 あまりの落胆っぷりに、尋希はよしよしと背中を撫でた。

「これからはいつもみたいに自由行動だから、ね。お昼になったら帰ってくるように。おっけぃ?」

「りょーかいッス」

 いつもの表面。だがその腹の中では何かが深々と冷たくなり行くのを、大輔は確かに感じていた。

 明るい時間は、過ぎ行くのだろう。さて、ここからとうとう分かれるのか。

 みんなが和気藹々と話している中、大輔は慧哉に視線をやった。慧哉は警戒するような視線を部員たちに向けていて、大輔に気付くと小さく顎を引く。

「慧哉。場所はどうする?」

 歩み寄りながら聞くと、慧哉は強張った顔のまま小さく唸った。

「お前はここに留まれ。綾瀬と樺沢がここに残るみたいだ」

「慧哉は?」

「俺は城戸先輩と近い場所だから、そっちに行く。副部長も大体見える位置だし」

「解った」

 穏やかな光景が、どこまでも続いている。この先に本当に不安などあるのだろうか。

 渦巻くのは罪悪感か、それとも色濃くなる一方の心配か。それさえも解らずに、大輔は思わずきゅっと服の裾を握りこむ。

 すると二人の視界の端で、先輩たちが絵を描きに行こうとしているのが窺えた。言葉なしに健闘を祈ると、慧哉は急いで二人の元に駆け寄っていく。そう大した時間もかからないで、三人の姿は森の中へと消えていった。

 慧哉を見送ってから大輔は、いつもどおり木に登るとスケッチブックをそっと広げる。しかし絵を描いていてさえも、その視線は常に二人の行動を気にかけていた。

 こいつらの中に、犯人がいるのだろうか……。

 そう思うと、途轍もなく嫌な気分になってくる。個人的には「いない」と断言してしまいたいのだが、そうもいかないものだから余計に憂鬱な気分に駆られた。

「なあ樺沢。お前どんな絵を描いたの?」

 そんな気分に耐え切れなくなった大輔は、とうとう木から飛び降りると、真衣の元へと駆け寄っていく。大輔に気付いた真衣は「ん」と言うと、ぐっとその手を出してきた。

「まずお前の絵から見せな」

「えー。色塗りが途中だよ?」

「ならお互い様だっつの」

 ほれ、と迫られたので大輔は渋々スケッチブックを渡す。それを真衣は食い入るように見ると、へぇと感嘆の声を洩らした。そこには製作途中とはいえ、高校生にしてはそれなりの絵が描かれている。

 昔から五教科以外は得意だったから、大輔はそれなりに絵には自信をもっていた。あくまでも自分の中の基準では、だが。

「……こんなのを見た後だと、見せるの嫌になるな。マジで」

 そう言いながら真衣は大輔にスケッチブックを返すと、自分のものも同時に手渡す。描かれているのはこことは全くの別方向――下宿先にいく過程で通った、あの道だ。

「なんだ、もうできてるようなもんじゃん」

「あと陰影とか、そのへんなんだけどね。さり気なく難しかった」

「ああ、確かにこればっかりはね」

 ここが難しい、あそこがややこしい。

 そんな話をしていると……あの風がまた漂ってきた。大輔は瞬時に背筋を凍らせる。

 何で今なんだ? わけが解らず、でも根源を探ろうと必死になる。それでもあの風はどす黒い気配を放出する一方で、探ることさえ叶わない。

 こんなに、近いはずなのに。

 舌打ちしかけて大輔はハッとした。近いって、まさか――……

「そうだ。美紗のも見せてよ」

 風が、揺らぐ。

「え、でもまだ途中だし」

「だいじょぶ。あたしたちも十分途中の域だったし、美術部なんだから今さらでしょ――」

 ゾッとする。

 黒さが、歪さが。力が増していく。

 どうしてなんだよ。

 ……そう思った瞬間、不意に視界の色が違うものへとなっていた。


 真衣の笑顔が、突然掻き消された。……いや、違う。

「樺沢!」

 飛ばされたんだ。風に。

 そこには全てを吹き飛ばさんばかりの強風が、悲しみをあらわに渦巻いていた。そしてその風の中心には、美紗がいる。

 風はそれだけでは留まろうとせず、遠く彼方から積乱雲を呼び寄せていた。あっという間に空を覆うと、土砂降りの雨と共に稲妻が天を走っていった。破裂音のように耳を劈かんばかりの音が、すぐ近くで聞こえる。

 まさか美紗が犯人なのか――

 急いで真衣を立たせると、大輔は安全な場所へと連れて行こうと試みた。真衣はすでに口を聞けずにいる。相当気が動転しているようだ。

 勿論気が動転しているのは大輔も同じだった。安全な場所といってもそれがないことに気付いてしまい、不安感は一層高まる。すると最初の異変で気付いたのか、森の中から二つの足音が聞こえてきた。――慧哉と耿輔だ。

 耿輔はやはり万全じゃないためか、慧哉のずっと後方を走っていた。しかしそれでさえも天の助け。

「頼んだ!」

 大輔は慧哉が近づいてくるのを見計らい、真衣の背中をぐっと押した。よろけるように不安定な真衣は慧哉に抱きとめられる。これで真衣の安全は確保したも同然だ。

 また慧夜は大輔の意図を察すると、真衣を抱え込み再び森の中へと引き返していく。二人の姿が消えるのを見計らってから、大輔は美紗の元へと駆け寄っっていった。入れ替わりに耿輔がこの場に現れる。だが現時点で耿輔の息は既にあがっていた。

「大輔!」

 耿輔の叫ぶ声が、激しい雷雨の中で聞こえる。大輔は美紗を抱き寄せ――

「捕まえろ! 綾瀬のスケッチブックが根源だ!!」

 その手からスケッチブックをひったくった。

 そこからは止め処なく、嫌な風が放出されている。

 不穏な空気が、空を覆い尽くしはじめていた。



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