七章 (1)
大輔はその場に座りこむと、今までに出た情報を頭の中でまとめた。
まず第一に、あの風は一昨日――美紗と木に登った時から始まったということ。あの時は風の気配も微量で、しかも感じ取ったのは自分だけ。耿輔も慧哉も、悪戯好きの風の精を始めは気にかけていた。
第二にその風は特殊だということ。根強い恐怖感はあるのにそこから探りを入れることはできないし、誰にも見つからないようにと元から存在を断ってしまう。そして新たな情報からして、これは風の仕業ではないとのことだ。
第三に何でこの家ばかりが狙われるのかということ。しかも居間と女子部屋ばかりだ。悪さを働かせるような風は時場所をかまわず狙ってくるのに、その場所が限定されている。
そしてそれらは、必ず何かしらの接点を持ってくるというのだ。
一体何がどうなっている。
顔の上に掌を乗せると、大輔は「あー」と唸り声を上げた。すると自棄になって、倒れこむように四肢を投げ出す。大の字に寝転がった大輔はそのまま寝返りを打った。
収穫はあったのに、それが疑問を増幅させただけなんて……。
あー。と大輔はもう一度唸り声を上げた。一人しかいない部屋で、声は大きく響いては消えていく。
どうしよう。もう一度見つけてみるか?
そう思い立った大輔はよっこいしょと畳の上で四つんばいになると、横にあるちゃぶ台の下を覗き込んだ。特に何かがあるとは思えない。
それから匍匐前進をするように這い蹲ると、のそのそと大輔はちゃぶ台の下に入り込んでみた。畳にもちゃぶだいの裏にも触れてみるが、素材そのものの感触しか感じられない。あの風と思しきものの気配は、微塵も感じられなかった。
「やっぱりこの部屋にはないのかな……」
意気消沈した大輔はちゃぶ台の下から頭だけを覗かせて寝転がる。
だとしたら次は女子部屋かを捜索したほうがいいのだろうか。今のところ一番の被害を受けている場所だし。……それとも被害のあるなしは関係ないのだろうか。
途方に暮れて、大輔は思わず大きなため息をついた――が。
「……大輔くん、だよね?」
聞き覚えのある声が、大輔の鼓膜を震わせてくる。その声は最近の関係上もあって、かなり戸惑いをあらわにしていた。
うわー。一度ならず、またしてもしくじったー。
大輔は縁側の方へと首を捻ると、疑問の声をあげる。
「よう。綾瀬こんなところで何してるの?」
「ごめん。そっくりそのまま返してもいい?」
「あー……だよね」
美紗から見れば、大輔は相当変な格好をしているように思える。何せもう高校生だというのに、ちゃぶ台の下に潜って、しかもだらしなく寝っ転がっているのだ。こんな奴に「何してるの?」なんて聞かれたくないというものだ。
だがそういう大輔の内心も、結構厳しいものがあった。みんなは絵を描きに行ったから、お昼まで戻ってこないだろう。そう楽観視していたら、これだ。
本来ならもっと原因の追究ができたのが、ここで一旦打ち切りになってしまう。さり気なくともこれはきつい一撃だった。
とはいえ今となってはもう後の祭り。特にここ数分は風術なるものは使っていなかった。今しがたも続いているこの行動には目を瞑ってもらうとしても、何とか人間としての演技は続けられそうだ。
のっそり背中をぶつけないようにしてちゃぶ台の下から這い出ると、大輔は荷物をあさっている美紗に目を向けた。
「何してるの?」
「絵筆忘れちゃったの」
今度は何も言わずに美紗は答えてくれる。
「大輔くんはあんなところで何してたの?」
目的とするものを見つけた美紗はそう言うと、大輔の数歩手前まで歩み寄ってきた。しかし咄嗟に言葉が出ず、大輔は口ごもった。
「あ、あーのね。……シャーペンが見当たらなくってさ。どこかになくしたみたい」
何とか言葉を見つけると、そのまま大輔は捲くし立てた。
「ほら一昨日も言ったでしょ。俺ってばおっちょこちょいだから、置いたものも忘れちゃったっていうかね」
勿論全部、真っ赤な嘘だ。シャーペンは絵を描く以外に使っていないし、ましてやこの家の中で出したことさえない。置くことができるわけがないのだ。
あはははー、と笑ってみるが、美紗はまったく笑ってくれない。あの『ホモ疑惑』以来、なんか妙に避けられているのだ。それが真っ当な人の反応であると大輔も思うのだが、飽く迄それは疑惑にすぎない。事実じゃないだけに、なんだか避けられるのが悲しいのだ。
できることなら、ちゃんと話して誤解を解きたいと思っている。でも大輔は、そのチャンスをまったくつかめずにいた。
けれど今なら、できるだろうか?
ここにいるのは他でもないこの二人だけ。邪魔されることもないし、今なら素直に誤解だと言うことが――
「そ、そうなの。……あの、大輔くん。私、もう行くね」
しかしあろうことか、美紗は俯いたまま縁側へと走り出していってしまう。
また誤解を解けないまま終わるのだろうか。そう思うと大輔の足は自然と床を蹴り、ついには美紗の細い腕を掴んでいた。
「あ、ちょっと待って!」
「きゃッ」
「ぅあ、ごめん」
驚いて身を捻る美紗に、大輔はいつもの癖で謝った。けれどけして、その腕を放そうとはしない。美紗の怯えるような瞳に気付いてしまっても、臆することはなかった。
でもここまでしておきながら、大輔は次にどんな言葉を持っていけばいいのか。そこに迷った。直接本題を言ってしまえばいいのだろうが、それだとあまりにも恥ずかしい。
しばらく悩み暮れてから、大輔は思い切って喋り始めた。
「最近綾瀬さ、俺のこと避けてる?」
「え……」
いかにも図星といった表情だ。美紗はすぐに顔に出るからよく解る。これを確定だと思った大輔は、一つ大きく息を吐き出してから、美紗の顔を再度見つめた。
「それってもしかしてさ、こないだの慧哉とのことだったりするの?」
「…………」
美紗はうんともすんとも言わなかった。けれど背けた顔は、林檎も驚くほど真っ赤に染まっている。
やっぱり。だがそれを自覚してしまうと、大輔もまた恥ずかしくなってきた。
「あのことなんだけどさ――」
誤解は解けてくれるだろうか。
心配を胸にたたえながら、大輔は続きの言葉を発した。
…*…
話し終えると、なんとも形容し難い沈黙が降り積もってきた。いきなりなものだから綾瀬も混乱しているのだろう。
大輔はそう思うと、罪悪感を感じながら美紗の腕から手を放した。そのまま背中を向けて部屋の奥に行こうとする。
「あのさ、引き止めてごめんね。それと……黙ってるつもりはなかったんだ。なかなか言い出せなくて、こんなに遅くなっちゃった。本当にごめんね」
美紗の視線を、背中に感じた。大輔はそれだけ言うと黙って男子部屋へと引っ込んでいく。本当はまだ言いたいことはいっぱいあったはずだ。
頑張って絵を描いてきてねとか、もう忘れ物するなよとか。そういう些細なことさえも言い出せない。言いたいことさえろくに言えなくて、これじゃあ本当のことなんて言えるはずもない。そう、『好き』というたった二文字さえも。
……いや、それは一生彼女に言うことはできないのだろう。人ならざる者は人間に姿を明かせないのだ。そんな人間に恋心を抱くなんて、掟破りもいいとこだ。神様に知られでもしたら、どうなることだろう。
大輔はきゅっと真一文字に唇を引き結んだ。すぐに感情の伝わってしまう瞼は、もう熱い。
綾瀬を好きにならなければ良かった。
心が悲鳴をあげている。
自分の気持ちが伝えられないのなら、こんな苦しい思いをするのなら。
『好き』なんていう感情なんざ、なくなってしまえばよかったのに。
それは確かに、大輔の中に潜んでいた本音。否定できないこれは、確かに……。
歩きながら大輔は嘆息した。『好き』から生まれる罪悪感が、美紗から注がれる視線で大きくなる。胸がぎゅっと鷲づかみにされたみたいに、苦しくて痛くてしょうがない。
諦めろと喚く心が泣いていた。未練がましいくらいに痛みを発して、それでも諦めろと叫んでいた。そこにはまったく説得力がなかった。
男子部屋のものすごく適当な位置につくと、大輔はその場にしゃがみ込んだ。何をするんだっけと思い、しかしすぐに思い出す。すると大輔は馬鹿みたいに、ありもしないシャーペンを再び探しだしている。
あまりにも滑稽な姿だと思った。叶わないと願っていて相手を好き、ないと解っていてシャーペンを探している。どちらも結末が解っているのに、こうやってもがいて。
なんて愚かな姿なんだろうと、正直に思った。
静かになった室内で、大輔のないもの探しをする音だけが鮮明に聞こえてきた。がさごそと鞄をほじくり、しばらくしてから布団の間を探し始める。
すると敷布団を持ち上げる手に、大輔のじゃない手が混じった。
何だろう。思ってその手を辿っていくと、さっきまで縁側に立っていた美紗が視界に入る。仰天しているはずなのに、出てきた言葉は思ったよりも落ち着いていた。
「……綾瀬……」
「手伝うよ、シャーペン探し」
「でも……っ」
シャーペンないんだよ。って。
言おうとしたけど、その前に大輔の言葉は遮られた。
「いいの。手伝いたいんだ、わたし」
解っている、解っている。
この気持ちが叶わないことなんて、とっくの昔に気付いていた。
「大輔くん、ゴメンね。変なこと思ったりして」
それでも嬉しいと思ってしまうのは罪だろうか。このまま時が止まってしまえと思ってしまうのはいけないことなのだろうか。
でも単純に嬉しい。大輔はそう感じていた。
だから許してください。
「ん、いいよ。気にしてないから」
彼女をだましてしまうことを。
そして少しでも共にいようとすることを。
風の神よ、どうか許してくださいますことを……。
たたまれた布団をめくって、中から枕を持ち上げて、最後に敷布団と畳との間を探しながら時は過ぎていった。
当たり前だけどシャーペンなんか転がっているはずもない。それなのに真剣に探しているのは何でなんだろうと大輔は思って――ああ、綾瀬といるからかと一人納得した。
さっきまでのぎこちなさは、もう二人の間からは消え去っていた。来た時と同じ、何でも気さくに話しかけられる。
笑みは絶えなかった。
一緒になって地面に這い蹲っているのでさえも楽しい。
いろんなことを話しながら、二人は架空のシャーペンを探し続けていた。
最後の敷布団を引き剥がすと眉を顰めて笑いながら、二人はその場に座り込んだ。大輔は畳の上に、美紗はたたまれた布団の上にそれぞれ座る。二人の身長差は頭一つ分開いていた。
「そういえば最近、夕立すごいよね」
振り返りながら美紗は、しみじみと言った。というのもこの布団は女子部屋との通路になる襖の前に置かれているからだ。
そうだ。すっかり風のことを忘れてたと思いつつ、そうだねと大輔は相槌を打った。
「古いんだよね、この家」
「らしいね。でも滝みたいな雨漏りは勘弁だよな」
美紗の言葉に頷きながら、大輔はあの現象を思い出していた。
そうか。早く片付けないと、またひどい目にあってしまう。美紗と話しながらも神経を研ぎ澄まし、まだ踏み入れていない女子部屋へと意識を集中させた。
だが直接入っていないせいか、なかなか状況が読み取れない。漠然とある気配。穏やかな風がそこかしこと駆け回っている。
さらに意識を襖の奥へと向けた。すると何か黒い気配が漂ってくる。
「……ッ」
これ以上ない怖気が大輔の身体に這い回った。全身が痺れるみたいな恐怖が心に生まれる。これは確かに、あの歪んだ風だった。
ふよふよと襖の隙間から、あの風が漏れてくる。昨日感じたものよりも、さらに強大な力を秘めているようだった。浴びただけで、すべてがくず折れそうになる。
「どうしたの大輔くん。顔色、悪いよ?」
ああ、そうかもしれない。大輔は言葉にはできずに心の中で返答した。
不審に思って、美紗が大輔の顔を覗き込んでくる。じっとしていられないようで大輔の視線を追うと、何もないよと呟いた。
「綾瀬……、伏せろ」
「え?」
隙間から入りきらない風が、襖戸を揺らしている。不気味にカタカタと音がしている。
意識を集中させ、大輔は難しい顔をして気配の根源を探る。でも――
(見えない――!?)
辿ろうにも殺気の方がすごく、意思を表しているかのようにそれは真っ黒に染まっていた。それはもしかしたら、闇よりもなお濃い色をしているのかもしれない。
暑さじゃない汗が、大輔の頬に一筋伝った。
風が襖の向こうでとぐろを巻いて、こちらを窺っている。
「伏せろ綾瀬!!」
美紗を横に押し倒すと途端、襖戸がはじけ飛んだ。あれだけ強固にあった襖戸はいとも容易く抜け飛び、縁側の仕切り戸に当たって大きな音を立てて止まる。
そして遮る物をなくした歪んだ風は、突風となって二人を襲いかかってくるではないか。大輔は美紗を庇うが、あまりの息苦しさに小さく苦痛の声を洩らした。腕の中で、美紗は目を丸くしている。
大輔はくっと喉を鳴らしながら、前を――女子部屋の中を見る。だがそこには何もない。黒い風はそこに溜まっている分だけ機械的に次々と吐き出され、それが終わると突風もぴたと止まった。
一体何が……。
呆然とする頭の中は、今の出来事を把握しきれていなかった。だがその中で、あの風の精の少女が言った言葉が脳裏をよぎっていく。
『あの風は、ここにいるどの風のものでもない』
確かにそうだ。こんなことができる風なんて、どこを探してもいるはずがない。
だがこれで確かに解ったことがある。あの風はこのあたりの何かが原因で発生しているのだろう。風ではない者の仕業によって。そしてそれは日数を重ねるごとに濃く、より強大なものと変化していってるのだ。
もうこれ以上、待ってはいられないだろう。
大輔はいつの間にか止めていた呼気を吐き出すと、きゅっと腕に力を込めた。腕の中の美紗は何が起こったのか解っておらず、ただ言葉もなしに震えていた。する術が解らなくて、大輔は言葉もなしに、美紗の背をゆっくりと撫でてやった。
「大輔!!」
しばらくすると、縁側の方から耿輔の叫び声が聞こえてきた。見ればその奥には慧哉の姿もある。二人は垣根を易々と飛び越えると、わき目も振らず大輔たちの元までやってきた。
「お前ら大丈夫か! 怪我とかねぇよな!」
すると開口すぐに、耿輔は鼓膜を突き破らん勢いで叫んでくる。走ったためだけではないのだろう。呼吸は乱れ、荒れ狂っている。
心配で血相を変える兄を、始めて見た。
こんなに傷つく恐怖を湛えた兄を、大輔は始めて目にした。
「うん。平気だよ、二人とも」
慧哉に美紗を預けると、大輔は震える兄の前にしゃがみ込み、その背中をそっと撫でやった。今朝方されたみたいに、心につっかえている物が溶けていくように……。
二人の呼吸は、徐々に平常を取り戻していく。
「兄貴、大丈夫だよ。みんな無事だよ」
いつもより小さく感じる耿輔の背中にさすっていた手を止め、大輔はそっと顔を覗きこむ。
「そっか。……よかった」
しかしそう言うと共に、耿輔は意識を手放してしまっていた。
ぐったりと重くなった耿輔の身体に、大輔は思わず息を詰まらせた。