七章 探し物は何ですか?
それからも夕立や風の被害は出続けていた。
とはいえ風のみに限れば大したこともなく、わりとやり過ごせる程度には治まっている。
しかし夕立ともなれば一変、相も変わらず女子部屋では滝のような雨漏りと風の音に悩まされていた。おかげで部屋割りもクソもなくなっている。
あの風を正さない限りは続くのだろう。
風使いは嫌なプレッシャーに押さえ付けられたまま、合宿四日目に突入していた。
疑問は大きく二つあった。
どうしてこの歪んだ風は、すぐに気配を元から絶ってしまうのか。
これは初めて気づいたときから根付いていた疑問だ。未だにその原理はよく解らない。どんなに利口な風の精だって、その痕跡を全て消してしまうなどということはできないのだ。
それは人間にも一般常識――例えば『魚が足を生やして陸上を歩くことはできない』というようなものがあるように、神の御遣いの中にも種族によって、様々だがそういう常識がある。
今回の場合はまさに、普通に考えてありえないような状況。『常識外』という最大の敵に捕まってしまったのだ。
そしてもう一つは何でこの家の、特に女子部屋を中心に被害が出ているのかだ。
ただの偶然かもしれない。
最初こそそう思っていたのだが、偶然も二度三度と重なれば確信へと変わっていく。隣の男子部屋が無影響というのもあれば、なおのことだ。
これは偶然なんかじゃない。何らかの人ならざる者の力が、これだけの事態を引き起こしているのだろう。そう、これからより深刻になるように……。
二つの疑問はどこかで必ず接点を持っているはずだ。それを早く、なんとしてでも突き止めなければならない。
募るプレッシャー。緊張の糸は今まさにはち切れる寸前で保っている。
風が、この世界が。一体どうなってしまう? 自分たちは何をすればいい? 何に対してどう手を打てばいい? 何をどう追いかければいい?
尽かぬ不安はゆっくりと――でも確実に、風使いの精神を折ろうと手を伸ばしていた。そしてそれもまた、彼らにとっては恐ろしいものだった。いつ自分が動かなくなってしまうのか。それが、何よりも。
「探そう。せめてその断片だけでもいい」
まだ夜も明けない朝の森の中、硬くなった声音で耿輔はそう告げた。
「あいつらが絵を描きに行っているその時に、なんとしてでも」
その目はいつもと違い、どこまでも先を見ているようなきつい眼差しだった。普段の冗談交じりの面影は、もう微塵残っていない。
鳥も虫も鳴かない森は、恐ろしいほどの静寂に包まれている。三人の呼気が、やけに大きく響いた。
「慧哉は家の正面の方を頼む。裏側は俺がやるから。……それと大輔。お前は家の中を頼んだ」
耿輔は念を押すように、二人の目を見た。もう高校生だとはいっても年端の行かない二人の瞳には、真剣のほかに心配の色合いが見え隠れしている。
耿輔は引き結んだ唇を湿らせた。
「ただ――それでも合宿中だからな。いつ何時、誰が現れるかは予想がつかない。本性使って探すのもいいけど、真剣になりすぎて見つかったりするなよ」
見つかったら、ただじゃ済まない。
解っているからこそ緊張を湛えたまま、慧哉はこくりと頷く。解ったと大輔も呟いた。
だがそんな二人の恐れに気づいてか、耿輔はふっとその顔に微笑を浮かべる。
「……なーに、そんなに心配するなって。考えすぎるな」
強張っていた肩の力を抜き、耿輔は真正面から二人の首に腕を回した。そしてそのまま、ぎゅっと引き寄せる。
肩を組むには、少しきつい体勢。ましてや昨夜の雨で湿気で蒸し暑かったけれど、それでも誰も逃げようとはしない。耿輔にされるがままに二人は固まっていた。
「きっと何とかなるさ。今までだって俺たち、何とかやってきたじゃん」
だから大丈夫だって……。
言い聞かせる声には、そうだと思わせる力があった。本当は自分にだって心配に思う気持ちはあるだろうに。それでも二人を守るために、耿輔はそんな気持ちさえも抑えてしまっている。
「大丈夫だ」
囁いて、二人の背中をぽんと叩く。
顔に当たった耿輔の胸が、いつもよりも広く感じられた。
…*…
「さあさあ、今日で残り三日だよなぁ合宿も。そろそろ絵を描き始めないとヤバイことになっぞー。そう言う俺が一番ヤバイぞー」
能天気な声をあげながら、耿輔がパンパンと手を叩いた。間延びな声に既にみなが注目していたから、手を叩くのは対して意味のないことだったような気もする。それでもご満悦気味な耿輔は、改めて一同を見渡した。
「一応奴からの伝言だけど『絵を描かなかった奴ぁペナルティがあるけどあしからずー』だとさ」
耿輔の言う『奴』というのは、ご存知美術部の顧問だ。禿ぴかジジイだのと呼ばれてもいたし、顧問や先生としての立場はもうどこへやら。とはいえ顧問自身が、そう呼ばれていることを知らないのだから、こいつらの猫かぶりも相当のものだといえよう。
そんな中、真っ先に不満の声をあげたのは真衣だった。
「ちょっと部長! まさかそれを了承したんスか」
「だってさァ、奴ってば俺たちの言うことになんて耳を傾けもしないじゃん」
呆れたように肩をすくめながら耿輔は言う。視線はどこか別の世界でも覗いているかのように彷徨っていた。単刀直入に言えば、了承せざるを得なかったのだ。
わなわなと震える身体を抑えようともしないで、真衣は「あのクソ禿……」と毒づいた。傍らで美紗が苦笑している。
「んじゃあそういうことで、奴の罠にまんまとはまったんだから、死んでも絵を描いてきなさい」
以上、解散。
大事なものをどこかしこに落としまくってきたような、そんな抜けた声で耿輔は締めくくった。
今日は耿輔もすぐに読書、というわけではなく、画材を鞄に詰め込んでいる。できれば俺を中心に世界が回ってくれると助かるのに……系の耿輔が顧問の指示通りに絵を描くというのだから、ペナルティはあながち嘘ではないのだろう。
だが今からやって耿輔は間に合うのだろうか。という疑問も、部員の――特に一年の中ではある。一年女子が心配そうな視線を向けていると、耿輔は何となくその意図を察した。
「何? 俺が間に合わないと思ってんの」
「だって部長。今までサボりっぱだったじゃないッスか」
真衣の声もよそに、耿輔は得意げに微笑むと鞄の中から大きな筆箱を取り出した。女子小中学生が使うようなたっぷり入るファンシー系の筆箱よりも、まだ大きいかもしれない。
「俺はなァ、こいつらと運命共同体なんだよ」
「運命共同体?」
反芻しながら、真衣は首をかしげた。その中に筆記具が入っているだろうことは容易に想像がつくのだが、それが一体何なのかが解らずに混乱する。
絵の具か、パステルか、それとも色鉛筆か?
こんがらがる頭をなだめようとしている真衣に、尋希が優しく教えてくれた。
「あの中にはね、色鉛筆が入ってるんだよ。普通のと水彩のが二十本ずつくらいね。他にも水筆とかハンドタオルとか、とにかく色々だよ」
「耿輔先輩は部活中に絵の具を使ったりはしないの。いつもあの色鉛筆だけで作品を仕上げてるわ。重ねてグラデーションを作ったり、水彩で色を伸ばしたり、ハンドタオルを使って色を馴染ませるようにぼやかしたりね」
それに補足するように、幸恵が言葉を紡ぐ。
四月にあった部活動見学期間中に生徒作品というものを見せてもらったが、真衣はその時のことを思い出して感嘆した。あそこで見た風景画も色鉛筆だけだったんだ。そう思うと、これだけやる気の抜けた耿輔が部長であるのも解る気がする。
「部長って結構実力者だったんスね。見直しました」
尊敬の声で真衣は言う。
だがそれ以上に驚愕の事実を、耿輔本人の口から聞かされてしまった。
「ったりめェだ。俺は色鉛筆と一緒なら一日、多くても二日でキャンバスいっぱいに絵を描いてやるってやつだ。そうじゃなきゃここまでサボってらんねぇだろ?」
ニッと悪役がするような笑みを浮かべると、耿輔は彼曰く運命共同体を鞄の中にしまった。
「じゃあ皆の衆、お昼まで粘ってこいよ。ペナルティ避けるためにもな」
荷物を担ぐと耿輔は振り返りもせずに宿舎を出て行く。向かったのは勿論、この家の裏手だ。
しかし御子の事情を知らない人間たちは、まんまと耿輔に騙されて外へと出て行く。慧哉もそれなりに荷物をまとめると、人の流れに乗って家の正面へと向かっていった。
計画は今、動き始めたのだ。
一人残った大輔はしばらく荷物をまとめるふりをしていたが、ややしてから誰も戻ってこないことを確認して、早速捜索に打ち込んだ。
というのもこの家の造りは案外簡易そうに見えて、実はややこしいのだ。間取りは居間を含めて十畳の部屋が三つ、縁側、風呂場、台所、トイレ、それに玄関くらいだ。
しかし玄関と勝手口には三和土がある。それに加えて襖のような収納場所は、十畳間以外にも玄関の三和土のところにあった。三和土を上がるその段差が、ちょっとした収納スペースになっているらしい。
また間取り以外の問題点といえば、やはり日本家屋特有の開放された家造りそのもの。留まっていた風は逃げてしまうし、外からの風は入りたい放題だ。
確かに普通に過ごせば夏場なんかには快適なのだろうが、こういう状況では迷惑極まりない。今みたいな人知の及ばぬ状況に対応して作るわけじゃないのだから、その辺はしかたのないことなのだろうけど。
大輔は縁側まで行くと、空を見上げた。今は風の乱れもない。状況はいたって良好。
タンスが倒れたりだとか滝のような雨漏りがあったりだとか、そんなことがまるで嘘のように思えてきた。
ずっとこのままでいてくれればいいのに……。
風使いだからこそ、大輔にはそう思う気持ちがあった。同じ風の者として、できるだけそういう姿を見たくない。綺麗ごとかもしれないけど、そうに強く願う気持ちが大輔の中には確かにあった。
もともと御遣いの仕事というのは、せいぜい昨日みたいに悪戯をしてしまう精霊やら、あとはそれぞれの管轄内での異変――風使いでは自然的な風害だったり風が吹かないといったり、そういうことを正すというものなのだ。後は特にたいした仕事もない。ましてや悪意を持った風の精の反撃というのは稀なものだし、今回のようなことはそれこそ少ない。
だから正直言って、神の御遣いだって人間とは生まれ持った力以外、それほど差はないのだ。
大輔は空を見上げた。淡い紫の瞳は空の色を受けて、少し青味がかっている。
庭に生える一本の木からスズメが飛び立っていった。黒い影を地面に落としながら、もうどこかへ行ってしまう。
「さて、と」
一度瞼を下ろし、それから大輔は身体を後ろに向けた。小麦色の髪が動きに合わせてふわりと動く。
「まずは居間からかな」
誰に言うでもなく一人呟いて、大輔は居間へと引き返していった。
それにしても気配も実体もない。そんなあやふやなものを探すというのは、本当に骨を折る作業だった。
『探そう。せめてその断片だけでもいい』
朝方に耿輔が言った言葉を胸中で繰り返す。だが繰り返せば繰り返すほど、疑問が浮かんでくる一方だ。
そもそもにして、あの風自体が特殊なのだ。普通とは違って探り入れることができない。まるで誰かに見つかるのもかかわりを持つのも、その全てを拒んでいる。そんな感じなのだ。
故に証拠もなければ断片もない。肌の粟立つようなあの恐怖だけは根強く残っているくせに、他のものは行方知れずのままだ。
タンスの隙間を覗き込んでいた大輔は、その顔をあげた。昨日あれだけの被害を受けた代物だから、何か手がかりの一つでもあるかもしれない。
淡い期待を込めて真っ先に向かってはみた、ものの、結局何も見つからなかった。隙間に手を入れて召喚風術の『導きの手』を唱えてみても、集まってきた風に違和感はない。いつも以上に集中してできる限りの力で集めてみても、結果は同様だ。
それからも引き戸一段一段に手を当てて意識を向けてみたり、はたまた届きそうもないタンスの上にまでも集中してみたが、そんな中でさえ何一つ変わらない。おかしな風が詰まっていることはなかった。
しょうがない。駄目で元々、やってみるしかないか。
いきなり大輔はその場にしゃがみ込むと、タンスと接触している部分の畳に手を当てた。先ほどの引き戸と同様に、畳に意識を集中させる。ゆっくり撫でるような動作で、大輔は昨日タンスが倒れた辺りをなぞっていった。結果はやはり、出てくれない。
何だよこいつ、かくれんぼの名人か? 怪訝そうに顔を歪めながら、大輔は部屋の中を見渡した。ぐるりと見れば、一人でいるのには相当広い。なんだか寂しい気分になってくる。
せめて誰か一人でもいてくれればいいのに。そう思ってから大輔ははたと気付いた。
――いるじゃないか。一人といわず、相当な数が。
一度大輔は縁側に出、外に誰もいないことを確認した。顧問の突きつけてきたペナルティが本当かは知らないが、耿輔のおかげでみんなが絵に集中していることは確かなのだろう。近場には誰の気配もしない。
確認を終えると、今度は風に意識を集中させる。手を上に伸ばしながら、大輔はおいでおいでと手招きをする。と、風はされるがままに大輔の元へと集まってきた。
「ねえねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいい?」
大輔が聞くと、風は頷く代わりに大輔の髪を揺らしてくる。ホッとと息を吐き出すと、大輔は一度緩んだ表情を引き締めた。
「あのさ、一昨日辺りからかな? ちょっと殺気立っている感じの風が吹くことがあるでしょ。あれが誰なのか知ってたりする?」
だが今度は反対に、黙りこくるかのようにしんと静かになってしまう。
やっぱり誰も正体を知らないのだろうか……。半ば大輔が諦めかけると、風の精が大輔の肩に乗っかってきた。恰好は昨日の風の精と同じだが女の子で、ツインテールがぴょんぴょんと跳ねている。
「わたし知ってるよ。その嫌な感じの風」
「本当!?」
「ただ、具体的じゃないけどね」
目を輝かせる大輔に一つ釘を刺すと、風の精の少女は言葉を続けた。
「あのね、わたし昨日たまたまここにいたの。『祈りの環』が聞こえてくるから何かあったのかって思ってね」
『祈りの環』とは、昨日三人が使った結界風術だ。確かにそうそう使われるものじゃないから、驚きもするだろう。
ようは野次馬気分だったのかと解釈し、大輔は相槌を打った。
「でも着いてみたら風が変なの。だからわたしは最初、あなたたちが失敗でもしたのかなって思ったわ。でもよく見れば、あなたのお仲間さんが転精しているのが見えて。ああ、失敗じゃないんだなって解ったの」
転精というのは、精霊を神の元へ送ることをいう。確かにあの場所では全てが成功していたのだ。失敗などなかった。
……だが彼女がそういうのも無理もない。風術が聞こえてもなお風に異変があるとすれば普通、失敗したと考えるのが妥当であろう。それに『祈りの環』はこちらも駄目元でやっていたのだ。そう思われてもしかたがない。
しかし話すにつれて、彼女が震えていくのを大輔は感じていた。
「それでわたし、何でこんな風が吹くんだろうって思ったの。誰がこんなことをしているんだろうって。……でもね、その気配は私の知っている誰でもなかった」
彼女はそう言うと、震える手で大輔の髪をきゅっと掴んだ。かける言葉が見つからなくて、大輔は無言のまま彼女をそっと撫でる。
しばらく震えていた彼女は意を決した後、重い口を開いた。
「あの風は、ここにいるどの風のものでもない」
空気が張り詰めたような気がした。なんだって……、と大輔は思わず口からこぼす。
誰のものでもない風って、そんなのがあるのか?
驚愕の事実を聞かされ、大輔は息を呑んだ。どこまで常識を逸すれば気が済むんだよ。
「私の知っていることはこれだけよ。あんまり力になれなかったわね」
「ううん、そんなことない。ありがと」
無理に微笑む彼女を見送ると途端、大輔はその顔から笑顔をなくしていく。
新たな疑問が、大輔を苛み始めていた。