六章 (1)
…*…
慧哉の判断が早かったおかげで、風の精は耿輔に噛み殺される寸前、無事神の元へと届けられた。
いつも冷静な耿輔を宥めるのには多少の時間を要したが、それも今は落ち着いている。キレない人や大人しい人ほど、爆発した時には怖いものなのだ。
ただ災いか、ぴりぴりとした空気だけは未だその場に渦巻いている。むしろさっきよりも色濃くなっているのかもしれない。
瞼を伏せゆっくり思案すると、耿輔は重たい口を開いた。
「で? それがお前の意見で間違いないんだな」
「……うん」
頷く大輔を一瞥すると、耿輔は乱暴に前髪をかき上げグシャッと掴んだ。
「とはいえこれじゃ、疑う余地もねぇんだけど」
再び訪れる苦しい沈黙。ひゅーっと湿った風が、三人の間を吹き向けてゆく。
……そしてその中にはまだ、乱れた何かが存在しているのだった。
「ねえ。昨日の風事件があったでしょ?」
最初に切り出したのは、珍しくも大輔だった。いつも「え、そうなの?」と人の意見に驚いては従い、そしてくっついて回っているタイプなので、耿輔も慧夜も仰天した。
だがすぐに表情を改めると、思案顔になる。
突風が吹きつけて居間がめちゃめちゃに荒らされた――そしてやっと今しがた困難を乗り越えた末に片がついた、あの風の精が引き起こした事件だ。耿輔つながりの強烈な印象も残っているため、そう易々と忘れるはずもない。
話題に上ってきたまだ記憶に新しい事件を、二人はしかと思い出していた。
そのことに関し、それがどうしたのかと耿輔が問い返す。思い出していたからか眉根はより、声にもちょっとばかり棘があった。
しかしそれにさえ気付く素振りもなく、視線を地べたに彷徨わせながら、大輔は続きの言葉を紡ぎ始める。
「俺が昨日感じたのと、さっき捕まえたのとさ。……正直気配が違った。今もたまーに気配があるでしょう。だからきっと、それも関係しているんじゃないかって思って」
その声に、いつもの元気はなかった。けして誰とも目を合わせようとしないのは、大輔なりの罪悪感の表れなのだろう。
けれどここにいるのは一端の風使いだ。大輔が発言しなくとて、その異常には気付いてしまっている。
何かの拍子でかは解らない。解らないのだが、たまに歪んだ風の気配を感じるのだ。
苦々しそうに舌打つ音が、どこかで聞こえる。途端大輔は、きゅっと唇を噛み締めた。そしてしゅんと頭を垂れる。
「やっぱりいたのか……」
吐息と共に呟く声。それは大音量の蝉の合唱に、次第に掻き消されていってしまう。
嫌な風はまた新たに生まれ、三人の頬を撫でては通り過ぎていく。耿輔は鋭く尖った表情を、さらに険しくさせた。
「どうりで乱れが治まらないわけだよなあ。もう一人いたんだもんよ」
見上げた空は、どこまでも蒼い。目にしみるほど突き抜けていて、輝いていて。所々に綿毛のような雲さえ浮いている。
どこまでも代わり映えのない夏の空。それなのに立ち込める空気、風の色は違った。
どこまでもどこまでも、その風は牙を剥いてくるかのよう。今満ちているのは、無邪気な悪戯などではなかった。
――悲しみと動揺の入り混じった、不安定な心情。マイナスの気がそこかしこと漂っている。熱いはずの空気は冷たく、どろりと重い。
しかもそれは時折消えては、また現れてを繰り返しているのだ。存在自体が不安定なのだから、捕らえるのも相当な困難を要するであろう。そう、先刻捕まえた風の精なんかよりも、もっと。
一時は喜びに満ちていた心も、不安定な風で消し飛ばされてしまう。
今度捉えなければならないのは、そういう人の心みたいな危うい風。
考えただけで、三人の気は滅入る一方だった。
…*…
畳を外すと、その下地となっているびちゃびちゃな板が露になった。相当雨漏りがすごかったせいで、どれだけ拭こうが水気は取りきれない。
それでも黙々と床を拭きながら、尋希がポツリと呟いた。
「そういえばさ、みんな。あの三人知らない?」
居間に置いてあった荷物を男子部屋に一旦移していた女子は、そろって首を横に振る。
「さあ……。美紗ちゃんならゴミを外に持って行ってるけど」
誰かの勉強道具を部屋の隅に置きながら、幸恵が答えた。尋希は雑巾を一つ折ると、乾いた面でまた床を拭き始める。
「まさか部長まで消えるなんてね。……ほんと、どこに行ったんだか」
尋希は口元に小さな笑みを浮かべる。ほとほと呆れたといった感じが漂っていた。
「今日は久しぶりに部長がやる気を出してくれていると思ったのに」
「あっはっはー。副部長、奴らのやる気なんざ当てにしちゃいけないッスよ」
だがそんな尋希とは反面、陽気な声をあげると真衣はズカズカと尋希のほうにやってきた。近くに放り投げてある雑巾を適当に掴むと、尋希と一緒になって拭きだす。
「まあカルガモ大輔が逃げたのは予想外ッスけどね。それでも慧哉と部長が掃除をサボるのなんてしょっちゅうでしょう。畳を運んだだけでも褒めるべきッスよ」
カルガモ大輔とは真衣が勝手につけたあだ名だ。誰にも友好的過ぎてちょこまかと一緒に行動をする大輔を見ていたら、それがカルガモに見えたらしい。
「とはいえ今回は、あっちの方にカルガモったと考えた方が妥当ッスかね。掃除サボってまで」
真衣は嘆息した。
「……ま、副部長。一人寂しく床拭きになったからって、そうしょげなさんな」
「うん。そうだね」
しかしそれを聞いていた幸恵は、どうも腑に落ちないと首を捻った。
「でもわたし、大輔くんが一人で外に行ったのを見たよ」
すると一瞬、その場にとどまっていた空気が動きを止める。静かな部屋の中で、幸恵の声が尾を引きながら響き渡っていくかのような錯覚。
しばらくしてから「えっ?」と呟くと、二人の視線は幸恵に釘付けになっていた。
「城戸、お前見たのか?」
「畳が立てかけてあるほうに行ったから、てっきり……」
困っている幸恵とは違い、二人は口元を引き攣らせて笑った。
「何あいつ。自分の意思でやったのがサボりッスか」
「そのようだね」
「マジでシメていいッスか」
「それはやめよう」
カルガモのくせに……。と真衣は苦々しく呟く。すると玄関戸の開閉する音がした。
三人が一斉に振り向く。――と。
「どうしたんですか?」
だがそこに立っていたのは、ゴミ捨て帰りの美紗だった。てっきりサボリ魔三人集が帰ってきたのかと思っていたため、その場の空気が僅かに和らぐ。
てぽてぽと居間を歩み抜けていくと、美紗は三人のいる方へと近寄っていった。
「やっぱり外は暑いですね。家の中に入るとだいぶ涼しくなりますよ」
ふうと一息つくと、手伝いますねと幸恵と共に荷物の整理を始めた。三人も我に帰ったとばかりに、それぞれの仕事を再開しだす。
汚れた雑巾を洗いながら、真衣が口を開いた。
「そういえば美紗はさ、見かけなかった?」
「何を?」
「いや、さっきからそれについて話してたんだけどさ。あのサボリ魔さんたち知らない?」
「え……」
言葉がつまり、美紗は思わずのその手を止めた。
不審そうに真衣が「美紗?」と呼ぶと、美紗はピクッと肩を震わせた。
「それって今いない、あの三人のこと?」
「それ以外にサボり魔はいないでしょ」
「あ。そっか」
あははと美紗は照れ隠しで笑っている。陽光の中で、美紗の瞳が青く輝いていた。
「わたしはあの三人――」
縁側から一筋、風が入ってくる。
…*…
畳の前に座る三人の表情は、翳ったままだった。
それもそのはずだ。やっと終止符が打たれたと感じていた矢先に、乱れた風の気配を見つけてしまったのだ。
しかも今回の相手は厄介者ときた。居場所も解らなければいつ吹くかも解らない。そんな風相手に風使いが三人集まっても、さすがに手の打ちようがなかった。耿輔でさえも現時点ではお手上げだ。
せめて手がかりの一つでもあれば、状況を覆せるかもしれないのに――
そう思い意識を研ぎ澄まし集中してみるも、結果は何も変わらなかった。大輔にいたってはさっきの結界風術『祈りの環』を使ったせいで、ろくに力さえも残っていない。頭の中でことの整理をしても、たかが知れている。
気配を探っていた耿輔は、苛立ちの声をあげた。
「クソッ、尻尾の一つも見せやしない」
「こっちも同じく、なんも見つかりません」
小さく両手を挙げながら、お手上げだと慧哉は言った。
「何でなんだ。どうして気配が跡形もなく消える?」
今までの常識が、真っ向から否定されたような気分だった。
気配が消えたら、その残滓を探って追いかける。風使いとして真っ先に教えられることなのに、でも今回はそれができやしないのだ。
落胆する二人を見て、大輔も同様に探りを入れてみる。だがそれもすぐに尽きてしまった。耿輔に聞かれても、首を横に振るしかなかい。
「……どうしてなんだろう。相手の持っている気配だったら解るのに、見つけることができないだなんて。こんなことできるの? 普通」
「言うな大輔」
困り果てた大輔を耿輔が制す。
「普通じゃねぇんだよ、今回は」
「耿輔さん。普通を求めるなって言うんですか?」
「じゃあそれ以外にどう機転を利かせればいい。普通ばっか追いかけてたら、相手の術中にはまるぞ」
いや。もしかしたらもう、相手の術中にはまっているのかもしれない。
本音だけはなんとか飲み下して、耿輔はばつが悪そうな顔をした。慧哉も押し黙ってしまう。嫌な沈黙が舞い降りてきた。
これからどうしよう……。
だが刹那、刺すような悪寒を三人は空気中に感じたのだ。
まるで人を殺めんとばかりに発せられた殺気のよう。――あの風だ。
三人はすぐさま注意をそちらに向けようとしたが、居間のほうから重々しい音と誰かの叫び声が聞こえてくる。甲高い声だからこそ、そこにいる誰に、一体何があったのさえ解らない。けれど言えることは、今三人以外の部員は宿舎内の掃除をしているのだ。
注意は一気に宿舎へと向いた。驚きと不安で心臓がちくりと痛みを発している。それから風のことを思い出し咄嗟に意識を向け直したが、既にそこから気配は消えていた。
口は毒づくことなく噛み締められる。ざわめきが風に乗って聞こえてきた。ぎゅっと握り拳を固めると、顔を見合わせることもなく三人は駆け出していた。
たいした距離さえないのに、それさえも煩わしいほど長く感じる。
「オイ、何があった!」
飛び込まんばかりの勢いで、息を切らしながら耿輔は縁側から中を覗き込んだ。中は騒然としている。
戻ってきた三人の姿を見つけるなり、尋希が奥から駆け寄ってきた。その顔には緊迫した表情さえ浮かび上がっている。
「部長! 外に誰かいませんでしたか?」
「いや、こっちに来る時、誰とも会わなかった」
暴れ狂う心臓を宥めながら、耿輔は居間に視線をめぐらせた。
「それよりお前、何でこんなことになってんだよ」
耿輔の視線の先――居間の奥でタンスが倒れていた。一つだけあった、大きな木箱。中に何も入っていないとはいえ、その大きさからして重さも相当なものなのだろうと容易に察することができる。
それに倒れたタンスの近くでは美紗がへたり込んでいた。真衣と幸恵の姿があってなかなか状況の把握ができないが、もう少しタンスとの距離が違っていたら、大惨事になっていたことだろう。考えただけでゾッとする。何でこんなことが……。
いや、彼らはとっくに理由など解っていた。
風だ。
先刻感じた殺気は、ここで姿を現したと見て間違いないだろう。しかしその元となる風が、この場所からはもう消えている。これだけのことを起こしたのだから力は相当なはずなのに、やはり気配の断片さえ残っていない。
あまりにも時限違いなことに耿輔は頭を悩ませた。
本格的に危険が迫ってきている。今までにこんな現場、一度として見たこともない。やはり今回のは普通じゃないのか――
「綾瀬、お前無事か? 怪我とかしてねえ?」
だが、まずは部員の無事を確かめなければ。
靴を脱いであがってきた耿輔に、美紗は弱々しく頷いた。耿輔は美紗の元まで行くと、そばにいた真衣や幸恵にも事細かに事情や身体の具合を聞いている。
部員の元に戻っていく尋希の後ろ姿を見ながら、大輔は隣にいる慧哉に視線をやった。
慧哉は何も言わず、ただその光景を見つめていた。