六章 ねえ、聞こえますか?
目を覚ますと、まだ周りは薄い闇に包まれていた。
特に何をするわけでもないのに、何でこんな早く起きてしまったんだろう……。ケータイのウィンドウを覗けば、まだ朝の五時前だ。それでも障子戸には、鳥の羽ばたき行く影が見て取れる。
もうすっかり覚めてしまった瞼をこすると、大輔はのっそりとその場に座り込んだ。
隣を見てもどこを見ても、今この十畳間には七人の部員でいっぱいになっている。雑魚寝。まさにそれだ。
ましてや男女で寝ているわけだから、広いと感じていた十畳も狭く感じてしまう。男女との境界線はくっきりとしており、更には男子の方がその場所が狭いときている始末。
大輔はゆっくりと深い息を吐き出す。それをまた深く吸い込めば、湿った畳のにおいが鼻腔をくすぐった。
また耳を澄ませば九人分もの寝息が聞こえてくる。それらはきちんと自らのリズムを持ち、繰り返し続けていた。大輔の覚めた呼吸では、みんなのよりも少し速いリズムを刻んでしまっている。呼吸が一人、調子に乗れていない。
そんな光景を目の当たりにしてから、大輔は再度瞼をこすった。すると明け方の蒼闇に目が慣れてくるのが解る。そしてそれと共に、僅かな疎外感が大輔の胸奥に生まれた。
今起きているのは、自分ひとりだけ。
たいしたことではないのに、それが酷く寂しかった。みんなは確かにいるのに、取り残されてしまったような気がした。
キンと小さく耳鳴りがする。
何となしに、大輔はもう一度ウィンドウを覗いた。時間は一分と経っていない。それでも静かな室内は、ゆったりとした夜明けの時を迎えようとしているのだろう。
居間から時計が時を刻んでいる音が聞こえる。
外から小鳥が飛び立っていく音が聞こえる。
朝露が水溜りに落ちる音が聞こえる。
みんなの寝ている音が聞こえる。
大輔は立ち上がると、まっすぐに縁側へと向かって歩いていく。そして障子戸を空ければ、淡い朝の光が静かな世界を照らしていた。
…*…
朝食を済ませてからすぐに、一向は部屋の片付けに勤しんだ。
女子部屋の畳をはずして、外へ持っていっては壁に立てかける。地味で単純だけど、かなりの肉体労働だった。
ぐっちょりと濡れた畳は褒めたくなるくらい水分を吸収していて、持ち上げれば濁った水滴が滴る。含んだ水がその分減るとはいえ、最早その重さは畳の域を越していた。正直、辛い。
ましてや十畳間だから、畳も十枚。一枚運んだ後にそれを考えてしまうと、部員たちは自然、嫌気の色を隠せなくなってしまっていた。
「ねえ、慧哉」
畳を縁側から外へ運び出しながら、大輔は小声で話しかけた。
「昨日の風、どう思った?」
「ヤバイだろうな。あいつマジで調子付いてやがる。それに――」
よいしょと下ろすと、二人は今しがた持ってきた畳を家の外壁に立てかける。
やっと今ので七枚目だ。あと一回運べば、この重労働は終わるはず。
そう思うと急に気分が軽くなった。現金にも鼻歌気分で大輔は慧哉の後をついていく。その途中、耿輔と尋希とすれ違った。重さでちょっと辛そうだったが「あと一枚ずつな」と耿輔に話しかけられる。二人はウッスとだけ頷いておいた。
あと一枚。
部屋に戻ると水浸しになった床を、女子が丁寧に拭いていた。
二人が畳を持ち上げると濁った水が、やっぱり滴って――するとそれは、真衣の逆鱗に触れてしまったようだった。水の滴った場所が、どうやら真衣の拭いていた場所だったらしい。
畳が重くてそれほどの速度は出なかったが、それでも二人は必死になって真衣から逃げていく。般若のような形相の真衣。彼女に追われながら部屋を出、二人は畳と共に縁側を飛び越える。
だが不運なことに勢い余ってか、縁側とだけでなく靴までも飛び越えてしまったのだ。足の裏に小石が刺さって、大輔は悶絶した。鼻歌気分はあっさりとどこかにすっ飛んでいく。
そんな事態に巻き込まれながらも最後の一枚を運ぶと、二人は外壁に向かって視線を向けた。清々しいくらい畳は真横一列に並んでいる。やっと終わったという安堵の息をつくと、二人は揃って向かいの生垣に寄りかかった。
「で。『それに』の続きは?」
足の裏を涙目で見ていた大輔が視線を向けると、慧哉は「ああ」と頷いた。
「あいつはまだ、近い場所にいる」
「そうだね。なんかこの家を取り囲んでるみたい」
そよそよと過ぎ行く風が、二人の髪を揺らした。その中には時折、子供の笑い声のようなものが混じる。悪戯好きの風の精が、楽しそうに遊んでいるのだ。
そう。そこにはまったくの悪意などはない。本人にしてみれば、ただの無邪気な悪戯に過ぎないのだろう。
どこからか風に乗って、また笑い声が運ばれてきた。
二人とも煩わしげに表情を歪めた。
「ほっといたら、今日も雨漏りだろうな」
「もう御免だよね」
「ああ、まったくだ」
腕が汚れているのも気にせず汗を拭うと、慧哉は視線を畳から空へと逸らした。
何も変わらない、夏の陽射しが照りつけている。けれど彼らには不気味に蠢く風が、はっきりと見えているのだ。ゾッとするくらい、はっきりと。
「今日中に、間に合えばいいんだが……」
縋る思いで、慧哉は呟いた。
掃除をサボっているということに、ちょっとした罪悪感が大輔の心に生まれていた。それでも大輔はその歩みを止めようとはしない。
思っていることとやっていることがかみ合わなくて、心がもやもやした。けれどこれは、しかたのないことなんだ。無理やりに自分を納得させ、大輔はその歩調を速める。
突き進んでいる森の中は、いつも通っているのとはまったく別の方向だ。そのくせして、生い茂る木々は同じような物ばっかり。変わらない景色を見るたびにに、本当に迷いそうだと思う。
天を覆っている木の葉の間を縫いながら、木漏れ日はちろちろと降り注いでいた。
一人で広大な森の中を歩くのには少しばかり勇気がいるのだが、木漏れ日は突き進もうとする大輔の支えとなってくれている。多少の明かりがあるだけで、こんなにも気楽になれるとは。我ながら単純だと、大輔は苦笑する。
「……っと、この辺」
同じような光景を延々と歩き続けた大輔は、不意に立ち止まった。そこもやっぱり、他の場所とは変わらない。同じような木があるだけの、何の変哲もない森の中だ。傍から見れば、だが。
大輔は耿輔から言われたことを思い出していた。
風の精はどうやら下宿先を基点として、行動をしているらしい。寝ていたと思いきや、耿輔は夜通しでその気配を辿っていたのだという。
おかげで耿輔の目元には薄っすらと隈が浮かび、朝食の片付けでは皿を何枚か落しかけていた。どれも間一髪のところで受け止めたようだが。
ついでにそこから、この風の精には悪意の欠片もないことが解った。あの無邪気な笑い声が、何よりの証だ。
……ただ無意識下の行動だと、風使い、風の精。どちらにとっても何かと厄介なのだ。
何故なら悪意があるとなれば、こちらとしてもそれなりの手段があるからだ。しばくなり封じるなり、何でもすればいいだけなのだから。
だが悪意がないとなければ、安易に手の出しようもない。何かてそうなのだろうが、無闇に何かを傷付けることはできないのだ。
そうなるとやはり、神の元に送り返すのが最善の道なのだろう。これは満場一致で、誰もがそう思っていたから、さして問題ではなかった。重要なのはこの後だ。
そのため三人は、巨大な結界風術を張らなければならない。その中に風の精を閉じ込め、追い詰めるのだ。だがそれは同時に、大きなリスクを背負うも同然だった。
何しろ耿輔以外は初の試みだし、ましてや大輔は力が弱い。こういう連携タイプの風術は、互いの息が合うことが肝心なのだ。逆に言えば、力の均衡が保たれない限り、どれだけ強大な威力を持ってもその効力をなくしてしまう。
問題はそれだけじゃなかった。今回使う風術は標的以外に力を及ばせないタイプなのだが、それ故に互いの標的とするものが合わなければ、その結界は張ることさえできないのだ。もしも昨日大輔が言ったように、別の風の精がいたとしたら――そこに混乱が生じる可能性だって高くなる。
そして嫌なことに、問題点はもう一つあった。それは定められた位置から、同時に力を発動させるということ。三人は結界を張るのだから家を囲うようにして、大きなトライアングルを作らなければならなかった。勿論互いとの間には大きな距離がある。掛け声なんてものはない。同時に発動することさえも、難しいのだ。そしてここが、大輔のいるべき場所。
今の三人にとって、まさにそれは賭けのようなものだった。
大輔はもと来た道に身体を向けた。――もう下宿先は見えない。
それでも下宿先のあるほうを見据えながら、長く長く息を吐き出した。
長く長く、より深く意識を研ぎ澄ますために。
大輔は瞼を伏せた。視界は漆黒の闇と、一点の光。
光は瞬いては消え、近づいては遠のく。それを何回も繰り返して。
……すると光は話し声に変わった。あの風の精の声だ。
さらに深く息を吐いた。声はさらに鮮明になる。
その声を聞き逃さないようにゆっくりと、大輔は瞼を上げた。本物の光と――風の精の軌跡が、はっきりと見えてくる。胸の奥に、熱い何かを感じた。
大輔はその場に方膝をつくと地面に左手を当て、もう片方の手ですばやく紋様を描いた。淡い紫の瞳が、何かを見つけた。
注ぐ陽光の中で 私たちが歌いましょう
この世に溢れる悲しみ 憎しみ 嘆き 憂い
全てを包み込めるほどの歌声で
明るさを導き出せることを祈りましょう
この世が喜びの光輝に満たされるその日まで
皆の心にそよ風が吹き抜けるその日まで
唱え始めると、淡い紫の光が辺りを覆った。
――最後の二つのリスクは、無事突破したらしい。
あとは風の精を追い詰めるだけだ。その間は何としてでも、力の均衡を保たなければならない。
大輔は立ち上がる。左手を前に出したまま、最初の一歩足を踏み出した。
やがて時は過ぎ
私たちのいた場所も変わりゆく
その時の訪れは 一体誰に止められよう
この世は常に環を描き
暗転する日もいずれ来よう
運命は常に 巡るものなのだから
胸の奥は、熱くなるばかりだった。けれどそれは、自然と不快ではなかった。
つながっている。三人で……。
詩は終盤に近づいていく。唱える口調は、歌うように軽やかになっていった。
歩む歩調はだんだんと駆け足になっていく。突き出した左手からは、結界内部で風が巡っているのが感じられた。
息を切らしながらも、大輔は力を絞り続ける。淡い紫の光は、より濃く、そしてより小さくなっていくようだった。
さすれば 私たちが歌いましょう
この世は常に巡り続けるものです
いつか果てよう日が来るまでは
宿りし悲しみを 憎しみを 嘆きを 憂いを
この両腕で包み込んであげましょう
森を抜けた。目の前には宿舎となっている、あの古い家。
畳を立てかけた場所へと駆けつけると、すぐそばに耿輔と慧哉が。二人とも左手を突き出していて、その先は淡い紫の光で彩られている。三人は見事に、同じ言の葉を紡いでいた。
そして三人が追い込むその中心――結界内には、暴れている透明の影。
風の精は、すぐそこにいる。
大輔は空気を吸い込んだ。二人のそれと重なった。
永久の明かりを祈りながら
この世が喜びの光輝に満たされるその日まで
皆の心にそよ風が吹き抜けるその日まで
「……ッ、捕まえたぞコンチクショウ!」
唱え終えると同時、耿輔はむんずと透明な影を掴み取る。手中には何かを捕らえた確かな感触があった。
風の精は耿輔から逃れようと必死に暴れている。何か羽目が外れたのか、それはだんだんと姿をあらわにしていった。
「さあテメェ。神様んとこにつれてってやらぁ」
するとそこには掌二つ分ほどの、子供の姿をした風の精がいた。紫色のとんがり帽子に、瞳はやはり淡い紫色。耿輔に首根っこを掴まれているせいか、大きな瞳は潤んでいた。
「やだっ! 放してよ!」
じたばたと風の精はもがいている。が、まったくと言っていいほど、耿輔には通じていない。耿輔は首根っこを掴んだまま、顔の前まで風の精を持ち上げた。その双眸は何かよからぬ色さえ含んでいる。
「はァ? お前何言ってんだよ。悪ぃことしたら怒られるって、神様からちゃーんと聞いてるだろ?」
「僕、悪いことなんて何にもしてないもん!」
「へーそう。そういう言い方するんですか、アンタは」
あ。ヤバイ。
にこやかな笑顔を浮かべている耿輔を見て、二人は直感的にそう感じた。この人完璧にキレちゃっている。
背筋にスーッと落ち行く寒気を感じた。
「お前なァ、風使いをなめんじゃねぇぞ! こちとらな――」
「やめよう! 冷静になろう兄貴!」
「そうですよ。このままじゃシャレにもなりませんって!」
この状況はまずいと感じ、二人は何とか耿輔を止めにかかる。怒りのあまりに込み上げた笑みを浮かべる耿輔に、逆に微笑まれた。
「何がシャレにならないだって、慧哉くん。俺ァいつだって本気だ。シャレで済ませる気なんざ、さらさらねえよ」
ギリッという鈍い音が、風の精を掴んでいる首根っこから聞こえた。
風の精は顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、二人に助けを求めている。
「俺はなァ、こいつのせいで一睡もできなくてイラついてんだよ」
刹那、クハハハ――と狂ったように、耿輔は笑い声を上げだしていて。
慧哉は咄嗟に風術を口にしていた。