五章 雨、むしろ滝
不気味なほどに、あれから何かが起きることはなかった。吹き抜ける風の中には些細な乱れも生じない。あの騒動の後には、ただの日常しか残らなかったのだ。
あくまで一部を除いての話だが。
(冗談じゃねぇよ……)
今日一日でどれだけ悩めば気が済むんだろう。あー、マジでどうすりゃいいんだと、確か朝にも思っていたことを大輔は再び脳内で絶叫した。
なんか未だかつてないくらい、夏休みを最悪なスタートできったな。オイ。
ジージーとミミズだか螻蛄だかの鳴く声を耳にしながら、大輔は現実逃避とばかりにたそがれた。居間から聞こえてくる団欒とした話し声さえも、今となっては恨めしい限りだ。
夜の縁側に寝転がりながら、大輔はうんうんと頭を悩ませる。議題はズバリ『ホモ疑惑』だ。
暴露した時の反応を考えるだけでも怖いから、まず慧哉には口が裂けても言えないだろう。言ったら絶対に殺される。
となれば必然的に大輔一人で疑惑解消に努めなければいけないのだ、が。……とはいえたった一人で、どうすればあの誤解を解くことができるというのだろう。
あのまさに信じきったの代名詞とでもいえるような美紗の顔を、大輔は鮮明に思い出していた。あれは相当重傷だ。ちょっとやそっとじゃ解消できないだろう。ましてやインパクトがインパクトだし、事情さえも――御子にかかわることだから言えやしないし。
(せめて綾瀬がなー……)
大輔は考えてから、顔に腕を置いた。
やめよう。ありえないもん、そんなこと。偶然にもほどがある。
思考を振り払うように大輔は寝返りを打つと「あー……」と気の抜けた声を垂れ流した。寝返りを打った時に落ちた腕が、こつんと乾いた音を立てる。手の甲がぴりぴりと痛んだ。
もう、嫌だな。目を伏せると鼻の奥がつんとした。胸の奥が苦しくて、ろくに息をすることさえもままならない。上の瞼が熱くなって、痺れる感じがした。それでも泣きたくないからと、大輔は手をぎゅっと握った。
掌には爪が食い込みそうになっている。痛い。けれどそのおかげで、胸の苦しさが少し和らいだような気もした。
だんだんと呼吸が楽になる。溜まっていた息を吐き出して、新しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「恋人、か」
「なんだお前、付き合ってんのか?」
「いや。ただの疑惑」
「へぇ。誰と?」
「ごくごく身近な人だよ。ところでさ、何しに来てんの慧哉サン?」
起きる気もないのか、大輔は顔だけを慧哉に向ける。
まさかその疑惑の恋人に自分の名前が挙げられているとは露知らず、慧哉はその場にしゃがみ込んだ。
「夕立が来る。そのまま寝てると余計に腹を冷やすぞ」
「そう」
耳を澄ましながら、大輔はそう答えた。確かに虫の鳴き声が弱まっている。流れてくる風からは、淡く雨の匂いがした。よく見れば、森から覗く上っ面の空が光っている。だけど音はまだしない。それでも十分と経たないで、夕立は来てしまうのだろう。
さすが光と風の御子が多い県だけある。
連日の夕立に動じる様子もなく、大輔はのっそりと起き上がった。
「お勝手の窓、閉めてくるね」
案の定、夕立はすぐにやってきた。雷はうるさいくらいに落ちている。
ただ意外だったのは、女子が全然怖がる素振りを見せていないことだった。クラスの女子といえば雷を見るたびに叫んでいたものだから、女子は雷が鳴ると条件反射的に叫ぶものなんだろう。勝手な固定概念だけれど、大輔はそんな風に思っていたのだ。
しばらく部員同士で雑談をした後、さてと耿輔が立ち上がる。するとそれを合図だと言わんばかりに、それぞれの部屋へと別れていった。部屋は居間のさらに奥。襖戸で仕切られた十畳間が男子部屋。その隣にある、同じく十畳間が女子部屋だ。男女部屋の間も襖で仕切られているが、無駄に発情期な奴はどちらにもいないから特に心配はない。
とはいえ男子部屋は居間との続きなので、やはりその前面にも縁側は続いていた。
視線を外にやれば、滝のように降り注ぐ雨と、やたら気合の入っている雷が未だ張り切り続けている。
鞄の中をあさっていた大輔はふと夕立と――そして風を見ながら、はぁっとため息をついた。風はぴゅうぴゅうと吹いており、縁側は吹き付けられた雨に、少々濡れている。
「大輔、まだかよ」
「あー……、もうちょっと」
するとあからさまに不満そうな耿輔の声が、大輔の背中を押してきた。視線を外から中へと戻すと、大輔は焦って鞄の中をもう一度確認しだす。
ウノするぞ。
そう耿輔に言われたのは、ほんの数分前。学生にとってウノとは合宿の醍醐味なのだと言われるがままに、大輔は目的とするものを探しているのだ。
どこにやったのだろう。痛い視線を一身に受けていた大輔は、しかしすぐにその手に確かな感触をつかみとる。
輪ゴムで一括りにされたウノを取り出すと、大輔は耿輔に向かって投げ渡した。それから鞄のチャックを閉めて戻ろうとすると、もう耿輔はカードを切っているではないか。耿輔の行動は、何かといつでも早い。
「何順? 時計回り?」
「じゃんけんで勝った人から時計回りでいいと思いますよ」
もうカード分けをしながら、耿輔と尋希はルール設定まで決めていた。大輔は自分の位置に、ちょこんと座った。
それから各々にカードが配られると、どこかに行っていた慧哉がちょうど帰ってくる。
「どうした慧哉。女子の部屋でも覗きに行っていたのか?」
と興味なさそうに耿輔が聞く。
「水飲みに行ってました」
するとこれまた興味なさそうに慧哉が返してきた。その目はすでにウノの存在に気付いており「またウノとかやるんスか?」と明らかに訴えている。勿論耿輔は軽くスルーした。
のっそりと慧哉が胡坐をかくと、それが合図かのように妙な緊迫感が生まれる。誰も喋らない。次に喋れば、それがスタートの銃声になるはずだ。
それぞれの前には七枚のカードの束がある。予想外にも最初にそれを手にしたのは慧哉だった。それに倣い、それぞれの束を各人手元に置く。
「……最初はやっぱ、グーだよな?」
耿輔が一様にみんなを見渡した。三人は無言で頷いていく。
――銃声は、鳴った。
「ぃよーし! んじゃあ、最初は――」
「ヤバイ!!」
途端、鼓膜が破れるほどのキンキン声が、襖戸を勢いよく開けて聞こえてきた。「グーだっつっただろ!」と耿輔は三人に怒鳴り飛ばすが、ハッと思い出してからそれが男の声ではないことに気付く。
振り返るとそこには、肩で息をする真衣が立っていた。隣の部屋だというのに、その暑さと言おうか疲労と言おうか。それはマラソンをした後のようにさえ感じられる。
一斉に振り返った男子の驚きに気付きもせず、真衣はもう一度その口を開いた。
「ちょっ、ヤバイッスよ部長!」
「待て。ちょっと待て。そしてとりあえず落ち着け樺沢」
あまりの迫力に耿輔は思わずカードを落し、そしてジリジリと後ずさった。
だが真衣も負けない。開いた距離を確実に詰めてくる。その目はまさにハンターともいえよう、鋭いものである。
「コレが落ち着いていられる状況ッスか!」
「もう何でもいいから、とりあえず迫ってくるなアホ」
「迫ってなんかいません。前のめりになってるだけです!」
「同じだからね。近いことに変わりないからね」
「いいえ、やっぱ変わると思いますよ!」
ずいずいと迫ってくる真衣に、耿輔は圧倒されていた。
コイツ怖い……。と耿輔は後方の男子三人に視線を投げかける。……のだが、なかなか立ち向かってくれない。それどころか視線を逸らされてしまう。思わずチッと舌打つと耿輔は覚悟を決め、真衣の両肩をむんずと掴み立ち上がった。
「つーかお前、寝巻きで風呂にダイブしたのかオイ? なにびしょ濡れで――」
「いや、違うんスよ部長! 雨と風がすごいんですって!」
なんともいえない迫力で迫ってくる真衣に、耿輔は思わずその腕を突っ張った。猪かこいつは? と迫り来る真衣を見て呟きかける。
「当ったり前ェだろ。夕立つったら雨と風が強くてなんぼじゃねぇか」
「いや、半端ねぇんスよ! もうヤバイッスよ!」
「なんだぁ? さてはお前も怖くないのに怖がる女子の部類なのか? こないだなんて雷見て『うわっ、すげかっけー!』とか騒いでたじゃないか」
顔を引きつらせながら耿輔は冗談めかしく言ってくる。だが逆に肩を掴まれたうえに、その言葉は一蹴された。
「んなこたァ、もうこの際どうでもいいんです! 問題なのは雨と風がすごいことで――」
落ち着きの欠片もない真衣にガクガクと揺らされまくって、耿輔の脳ミソは半ば混ざりそうになる。三半規管ってなんだ? 視界が回って気持ち悪い。何か嫌なものが込み上げてくる感覚に、耿輔は襲われた。
ああ、もう駄目かも……。無駄に青春とプラスαを感じながら、耿輔が意識を手放しかけたその時。急に真衣の動きが封じられた。美紗と幸恵が、真衣を羽交い絞めにしていたのだ。
ふらつく足取りの耿輔も隣にいた慧哉に支えられ、何とか背面ダイブを免れる。意識も一応はつながっているようだ。
「鬼みたいに意味解らないんだが。……そこの二人、通訳しろ。樺沢の通訳をしろ」
おうぇッと口元を押さえながら真衣から距離を置くと、耿輔はその場にへたり込んだ。
一旦消えていた尋希と大輔は、コップに水を汲んで戻ってくる。それぞれを真衣と耿輔に手渡した。
「えっと、雨漏りしているんです。風もどこからか入ってきて……」
耿輔が落ち着くのを待ってから、幸恵がそう口を開いた。
「雨漏りが? だったらバケツとか見つけてこようか?」
「うん……。でも、ちょっとね」
そう言う尋希に曖昧ながら答えると、幸恵は美紗の顔を見る。美紗は言葉もなく首肯した。
「なんていうか、バケツが足りない気がするの」
「はい。それに足りてもきっと、居場所が……」
二人の様子が、どうもおかしい。
バケツが足りない?
居場所がない?
一体どういうことなんだと、男子はそろって首をかしげた。
「てか、見りゃ解りますよ」
するといまだ息の荒い真衣が、般若のような形相で耿輔の肩を掴んだ。そのまま女子部屋前まで拉致られる。
来た時同様、真衣は壊れんばかりに勢いよく襖戸を開け放った。するとそこには――
「…………なんじゃこりゃ……」
古い家だとは聞いていた。平屋だとは知っていた。木造建築だとも知っていた。
時々ムカデが出るからねーとか、ネズミがいたらごめんねーとか。覚悟はしていたけどまさかこんなことが起こるだなんて……。
あんぐりとだらしなく口をおっぴろげながら、耿輔は別の意味でその場にへたり込んだ。
「なんで雨が?」
そこは雨と言うよりも、むしろ滝と見間違うほどの雨漏りに見舞われていた。畳も濡れていない部分のほうが、見つけにくいといった感じであろう。
なるほど、真衣が自分を忘れて叫ぶのにも納得がいく。こんなことなど想像にさえしない。
これじゃあどこぞの夢の国のアトラクションも真っ青だ。
「一応荷物だけは持ってきたんですけど」
「まあ、それが正解ッスね」
正常に機能していない耿輔の変わりに、慧哉が幸恵に向かってそう答える。そして女子部屋の荒れようを一目見てから、苛立たしげに前髪をかき上げた。
「耿輔さん。これからどうするんですか?」
まばゆい光の直後、甲高い雷鳴が轟く。
痺れるような音は空気を振るわせていった。近くに落ちたのかもしれない。
乱れた風が、吹き抜けていく。三人はぴくりと肩を震わせた。人間はやはり、気付かなかったようだ。
誰もが耿輔に視線を向けている。耿輔は黙って女子部屋の畳に、自らの手を置いた。ひたりとした水の感触が、掌いっぱいに伝わってきくる。
「……しょうがねぇから、この部屋で一緒に寝るしかないだろうな。嫌だって言うんなら、男子が縁側にでも行くけど」
居間には各自の画材やら作品やらでごった返している。片付けるには、かなりの時間を要するだろう。……だとしたら、これしかない。
耿輔は立ち上がり、濡れた手をズボンで拭った。ズボンの拭った箇所は、色を増して跡を残している。
「さあ、どうしたい?」
夕立の奏でる不協和音の中、耿輔の声だけが時間を止めた。