序章 夏の扉
『上毛かるた』(財)群馬文化協会
より、「紅葉に映える妙義山」を引用させていただきました。
「え、合宿?」
むしむしと暑苦しい教室の中、大輔は扇風機を抱え込んでそう呟いた。
「ああ。合宿だ」
そう返すのは兄の耿輔。その表情は大人びた冷静さを湛えている。
だが大輔を見てからというもの、少々引きつり気味だ。実に嫌そうなため息を垂れ流すと、耿輔は眉間に指を添える。そして耐えるように瞼を伏せると、手近にあった机へともたれかかった。
カタンと机と椅子の動く微かな音がする。それは虚しくも、夏の大合唱の中へと消えていき。蝉は高らかにミンと鳴くと、どこか彼方へと飛んでいった。
周囲は田圃に囲まれており、今は緑の鮮やかな海が辺りを包み込んでいる。
長閑すぎて時間が経つのも忘れてしまいそうな、そんな群馬県も平野。高崎市内に点在する公立高校の一つで、それは起こっていた。
終業式も午前中に終わり、浮かれ気分な学生たちが集う校内。
そしてここは美術部の活動場所。とはいえ今日に限っては、美術室ではなく一般教室だ。
現在地は二階ということで、眺めはそれなりにいい。だがそうはいっても、さすがは田舎と言いきれる県だけはある。見たところで田圃と、遠くに関越道くらいしかない。
確かに反対側を見れば市街地だって市役所だって見える。けどそのギャップがなんともおかしくて、しかたがなかったりするのだ。余計に田舎を主張しているかのような、本当にそんな光景だったりする。高崎も外れなのだからしょうがないのだろうけど。
また中を見てみても、教室は何の変哲もないものなのだ。おっきな黒板を前に、教卓と四十人分もの机と椅子が所狭しと詰め込まれているだけ。
黒板の横やら教室の後ろやらには色々と掲示物があるが、誰にも見られやしなかったりする悲しい存在だ。そういえは最近、各教室にやっと扇風機なんぞがつけられたりもした。
最初ばかりは天の助けと言わんばかりに、思い慕われていたんだ。扇風機も。
しかし一転、風があるからといったところで涼しくなんかならないと。むしろ生暖かい風の悪循環じゃないかと。そう時間が経たないうちにも生徒たちにとっては、もっぱら不評の嵐の火種と化してしまっている。
悲しいかな、クーラーとの性能の違いでものすごい邪険にされてしまっていて。今となっては、文明の利器の足元にも及ばずといったところだ。
しかしそれでさえも、多少の涼しさは欲しいところ。それを一番よく示しているのが、あの大輔だったりする。
勿論それは例外なんかじゃなくて、休み時間ともなれば大抵の生徒たちが扇風機の取り合いをし始めるのだから、面白い現象だ。女子だって最近は女を捨てて、そこに参戦し始めるというのだから尋常じゃない。
そんな大活躍なのかそうじゃないのか……。という扇風機と戯れている大輔は、前髪を風に吹かれるがままに、重たい口を開いた。
「……合宿とかって俺、正直聞いてないんだけど」
ブーンという扇風機の羽音が、無駄に大きく聞こえてくる。
「そうだろうな。前に話していた時、確かお前寝てたし」
「うそッ」
「本当」
あっさりと告げる耿輔は頬杖をつきながら、気まずそうにふいっと視線を逸らした。
……冗談じゃねーよ、オイ。
すると不意に、ガタンと壮大な音が耳を突く。やっと大輔が扇風機を開放したのだ。……が、当の本人の顔色も、最早蒼白だったりする。
自分が寝ている間にことの次第が進んでしまっていたのが、どうにもこうにも寂しくて悲しくて。「え? 俺一人ぽっちかよ」と大輔の表情がそう訴えていた。
そもそもそれ以前にだ。何でこれだけの人数がいても、誰一人として教えてくれなかったのだろうか。
寝ていたことは、確かに悪いとは思っている。自分に非があったこともちゃんと認める。だけど、いくら何でも酷いんじゃないのかと大輔は思うのだ。
「何で誰も教えてくれないんだよ!」
空気を揺るがすほど勢いよく立ち上がると、大輔は部員を一様に見渡した。
すると彼らは、やっと各々やっていたことから目をはなす。そこにはあからさまに『またか』という文字が浮かび上がってた。……ということはだ。大輔のこの行為がすでに一度や二度じゃないことは明白で。数人がやっぱり、気まずそうに視線を逸らした。
え。これってプチいじめなんですか?
「大輔。お前さぁ、アホ?」
とか言いながら、慧哉は読んでいた本から視線を上げる。アホじゃねぇと大輔は、小さく慧哉に反抗したが、当の慧哉はまったく聞く耳なしだ。救いようがない。
「教えてくれないんじゃねぇんだよ。あえて教えないだけ」
「うわっ、ヒドッ」
「酷くないですー。これが美術部の暗黙の了承なんですー」
慧哉はからかうような間延びな声をあげると、再び本に視線を落した。これ以上は何も聞かねぇと、態度がそう言っている。
大きな瞳を細めながら、あーそうですかと大輔は投げやりに言葉を吐き出した。
「で、どこに行くの。軽井沢?」
相も変らぬ態度の耿輔へと大輔は尋ねる。しかし耿輔は、んな豪華な避暑地に何で三流の部活が行けるんだよと呟いて。
「荒船山」
「荒船山って……」
鸚鵡返しに問い返しながら、大輔はほとんど空っぽの頭を捻った。
群馬県は北側を見れば南西から北東にかけて、多くの山々が聳えている。
その西部に一つだけ、やけに平らな山があるのだ。それが確か荒船山だった気がする。山好きの父がよく、大輔を捕まえては山の話をしていたのだ。
とは言っても、細かく教えられすぎてほとんどを忘れてしまったというのも、また事実。
いまいちよく解っていないことを察したのか、耿輔は大げさにため息をつきながら大輔に向かって言葉を投げつけた。
「妙義の近くだよ。『紅葉に映える妙義山』の妙義」
「みょ、妙……義?」
大輔は眉間に影ができるくらい、深い皺を刻み込んだ。
妙義って言ったらあれだよな。赤城・榛名と共に名高い上毛三山の一つで。地元一の名物――上毛かるたの札にもあって。ついでに言えば運動会なんかだと団分けの際に、大方緑だか黄色だかの鉢巻を巻いて区別されちゃうとかいう、あの……。
かなり聞き覚えがあるだけに、大輔の脳内には様々な記憶が飛び交っていた。
例えば真冬の寒い中、体育館でカルタ大会をさせられたことだとか。
小学校の持久走大会で緑の鉢巻をつけながら、でこぼこの農道を走ったことだとか。
運動会が近づくと、クラスが団ごとに妙な派閥を作っていたことだとか。
極めつけには運動会前に、一人残されて応援歌の練習をさせられたことだとか。
思い出が思い出なだけに、憂鬱な気分がいっそう高まった。
うわー、いい思い出ないじゃん妙義。と、大輔は思わず動きを止めてしまった。
「日程は明日からな。んで下宿先は、山奥の空き家」
しかしそんな大輔の心情など露知らず。耿輔はさらなる事実を淡々と告げていく。
話によると、こうだ。
先生は来ない。あくまで部員だけの合宿である。移動方法は電車とバスと、原始的だが徒歩の三つ。そして極めつけに、空き家を借りるのと合宿中の食費等で部費は使ってしまったから、行き帰りの電車とバスの代金は自腹で払え、と。
部員たちの間で、ため息が行き交うのが嫌でも聞こえてくる。
「部費、ねぇんだよ。三流部活だから」
そう言う耿輔の声は、嘲笑っているかのようだった。