踏み出せない一歩と、揺れるイヤリング
「佐藤君って、本当にいいやつだよね。相談しやすくて助かる」
給湯室で同僚の女性からそう言われるたび、俺、佐藤拓海(25歳)は曖昧に笑ってやり過ごす。コミュニケーションは男女問わずに取れるほうだ。だが、いつだって「いいやつ」止まりである。
(いいやつ、か。どうせ『都合のいいやつ』の間違いだろ)
心の中でそう毒づく自分が、俺はあまり好きではない。
20歳の頃から5年間付き合った彼女に別れを告げられたのは、つい一ヶ月前のことだ。別れ際に言われた「拓海と一緒にいても、ネガティブすぎて息が詰まるの」という言葉が、今も胸に刺さって抜けない。ソロキャンプや一人映画など、一人でできる新しいことには挑戦できる行動力はある。けれど、他人と深く関わることや、新しい恋愛に踏み出すことにはすっかり臆病になっていた。どうせ俺なんか、と常に否定的な言葉が頭をよぎるからだ。
昨夜もそうだった。
ふられてからやることがなく、ぽっかりと空いた時間を埋めるため、ふらりと入った薄暗いオーセンティックバー。そこで、カウンターの隣に座った女性と偶然言葉を交わした。
彼女はどこか、うちの部署の氷川さんに似ていた。ただ、会社では隙のないまとめ髪にタイトなスーツを着こなす完璧な彼女とは違い、その女性は緩く巻かれた髪を下ろし、柔らかなニットを着て、気怠そうにグラスを揺らしていた。二人とも、普段とは違う空気を纏っていたせいだろうか。名前も名乗らないまま、俺たちは気づけば日頃の会社の愚痴や、お互いが好きだという少しマイナーな深夜ラジオの趣味の話で盛り上がっていた。
「……でね、うちの課長が本当にわかってなくて」
「あー、わかります。俺も昨日、似たようなことで理不尽に怒られて。結局、俺みたいな目立たないやつが割を食うんですよね」
「ふふっ、卑屈だなぁ。でも、そういうの嫌いじゃないですよ」
彼女のカラカラとした笑い声と、耳元で揺れていた『青い石がついた三日月のイヤリング』が、微かなアルコールの熱と共に記憶に残っている。
そして、翌日。
昼休みのオフィスで、俺はPCの画面を見つめたまま固まっていた。
「佐藤さん、先週お願いしていた資料の件ですが」
背後から声をかけられ、振り返る。そこには、いつものように凛とした表情で立つ氷川さんがいた。
「あ、はい。今日の夕方には提出できます」
「助かります。……どうしました? 私の顔に何かついてますか?」
氷川さんが小首を傾げた瞬間、彼女の耳元で、キラリと光るものがあった。
『青い石がついた三日月のイヤリング』。
間違いない。昨夜のバーにいたのは、氷川さん本人だ。
(えっ、待って。あの愚痴ってたの、氷川さん!? ってことは、俺が昨日グダグダとネガティブな不満を垂れ流してたのも全部聞かれてたってことか!?)
心臓が早鐘を打つ。
『昨日、バーにいましたよね?』と言えばいいだけだ。しかし、俺の持ち前のネガティブ思考が強烈にブレーキをかける。
もし人違いだったらどうする? 気まずすぎる。それに、会社では完璧な彼女が、バーで見せたあの気の抜けた姿を知られたくなかったら?俺がうっかり口に出したせいで、今の「ただの会社の同僚」という関係すら壊れてしまったらどうしよう。
「……いえ、なんでもないです。その……」
もじもじと視線を泳がせ、口ごもる俺。結局、核心には触れられず、ただ愛想笑いを浮かべるしかできない。
「……そうですか? 変な佐藤さん」
氷川さんは少しだけ不思議そうな顔をした後、踵を返そうとした。
やっぱり言えなかった。肝心な時に踏み込めない、俺は本当に駄目なやつだ。また自己嫌悪が顔を出しそうになったその時。
「あ、そういえば佐藤さん」
氷川さんが立ち止まり、振り返った。彼女の手が、そっと右耳のイヤリングに触れる。
そして、普段のオフィスでは絶対に見せないような、昨夜バーで見たのと同じ柔らかくフランクな笑みを浮かべた。
「今日の深夜ラジオ、ゲスト回でしたよね。……リアタイ、します?」
それだけ言い残して、彼女は足早に去っていった。
オフィスに取り残された俺は、しばらくの間、彼女の言葉の意味を反芻し——やがて、顔から火が出るほど熱くなるのを感じた。
いいやつ止まりで、ネガティブで、自分に自信がない。
すぐに変われるわけじゃない。でも、明日の朝、今日の深夜ラジオの感想を言い訳にして、彼女にもう一度話しかけることくらいなら……俺にも、できるかもしれない。




