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妻の顔

作者: 雉白書屋
掲載日:2025/10/25

「……う、はい……うん……ああ、わかった。すぐ向かうよ」


 おれは電話を切り、短く息を吐いてリビングへ向かった。

 ……あった。これのことか。電話で言っていたとおり、ソファの上に紙袋がぽつんと置かれていた。今日の夕食会に持っていくはずだったらしい。たぶん中には、友人への土産が入っているんだろう。この前、ちょっと遠出して買い物したらしいからな。

 おれは紙袋を手に取り、サンダルをつっかけて家を出た。車に乗り込み、エンジンをかける。


 会場は繁華街のビルの屋上にあるビアガーデンだった。蒸し暑い夜気が肌にまとわりつき、人の熱気に圧倒された。楽しげな笑い声が渦を巻き、頭にガンガン響く。香水と食べ物の匂いが入り混じって、鼻を突いた。胸の奥がムカついて、おれは思わず口を押さえた。

 一角にひときわ騒がしいグループがいて、自然と視線が吸い寄せられた。たぶん、あそこだ。あたりを見回したが、他に女性だけのグループは見当たらない。おれは小さく息を吐き、紙袋を抱え直して小走りで近づいた。


「あのー」


 声をかけると、女たちが一斉に振り返った。


 ――えっ。


 その瞬間、頭が真っ白になった。


 ――どれが妻なんだ。


 いや、自分でもおかしなことを言っているのはわかってる。だが、本当にわからない。

 ど忘れというやつなのか? まさかこんなことが……いや、あるんだろうな。現に今、そうなっている。言い訳をさせてもらうなら、妻の化粧姿をしばらく見ていなかった。家ではいつもすっぴんなのだ。

 だが、そんなことを口にしたところで――そもそもできるはずもない。どれだ、どれが妻なんだ。ああ、まずいぞ。間が空きすぎている……。

 そもそも、向こうから手を振ってくれてもいいじゃないか。『あら、あなた、早かったのね。ありがとう』なんて、一言でも言ってくれれば……いや、ないな。まさか、自分の夫が顔を見分けられないなんて思いもしないだろうし。

 グラスを片手に余裕の笑みを浮かべている女か? それとも、ひそひそと何か囁き合いながらニヤついてる二人のどちらか……? 

 まずい、早く……ええい、もう勘で――。


「あら、あなた。来たのね」


「え、あ、ああ」


 背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。おれはぎこちなく返事をし、小さく息を吐いた。


 ――危なかった……。


 おれは悟られないように背を向けたまま、再び安堵の息を吐いた。いや、ほんとに危なかった。この中にはいなかったのか。たぶん、トイレにでも行ってたんだろう。勘で声をかけなくて本当によかった――。


「もーう、どうしたの、その恰好。寝巻きに、頭もボサボサじゃない。ごめんなさいね、うちの主人ったら。あははは!」 


「うふふふ!」

「旦那さんだったのねえ」

「何かと思っちゃった」

「危ない人かもなんて、ねー。あははは!」


「ふふふ。ほらもう、挨拶してよ」


「あ、ああ。どうも……。いや、今日はちょっと具合悪くて、寝てたんだ」


「あら、そうだったの。ごめんなさいね。それなのに、わざわざ忘れ物を届けてくれて本当にありがとう」


「まあ、優しい」

「ねー、奥さん思いよねえ」


 ――なに……今、なんて?


 背筋がぞわりとした。おれは振り返り、目の前の女の顔をまっすぐ見据えた。


「……君は誰だ?」


「え?」


「君は僕の妻じゃない。誰なんだ?」


「ちょ、ちょっと、何ふざけてるの?」


「彼女は僕に礼なんて絶対に言わない。むしろ『遅い!』って怒鳴るはずだ。虫けら扱いして罵る。そもそも、顔が違うじゃないか。彼女の顔はもっと――」


 あっ――おれはほっとした。

 妻の顔が、みるみるうちに普段通りのものに……。

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― 新着の感想 ―
先の読めない展開でいながら無理のない、納得できる素晴らしい結末・・非常に面白く勉強になりました。
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