妻の顔
「……う、はい……うん……ああ、わかった。すぐ向かうよ」
おれは電話を切り、短く息を吐いてリビングへ向かった。
……あった。これのことか。電話で言っていたとおり、ソファの上に紙袋がぽつんと置かれていた。今日の夕食会に持っていくはずだったらしい。たぶん中には、友人への土産が入っているんだろう。この前、ちょっと遠出して買い物したらしいからな。
おれは紙袋を手に取り、サンダルをつっかけて家を出た。車に乗り込み、エンジンをかける。
会場は繁華街のビルの屋上にあるビアガーデンだった。蒸し暑い夜気が肌にまとわりつき、人の熱気に圧倒された。楽しげな笑い声が渦を巻き、頭にガンガン響く。香水と食べ物の匂いが入り混じって、鼻を突いた。胸の奥がムカついて、おれは思わず口を押さえた。
一角にひときわ騒がしいグループがいて、自然と視線が吸い寄せられた。たぶん、あそこだ。あたりを見回したが、他に女性だけのグループは見当たらない。おれは小さく息を吐き、紙袋を抱え直して小走りで近づいた。
「あのー」
声をかけると、女たちが一斉に振り返った。
――えっ。
その瞬間、頭が真っ白になった。
――どれが妻なんだ。
いや、自分でもおかしなことを言っているのはわかってる。だが、本当にわからない。
ど忘れというやつなのか? まさかこんなことが……いや、あるんだろうな。現に今、そうなっている。言い訳をさせてもらうなら、妻の化粧姿をしばらく見ていなかった。家ではいつもすっぴんなのだ。
だが、そんなことを口にしたところで――そもそもできるはずもない。どれだ、どれが妻なんだ。ああ、まずいぞ。間が空きすぎている……。
そもそも、向こうから手を振ってくれてもいいじゃないか。『あら、あなた、早かったのね。ありがとう』なんて、一言でも言ってくれれば……いや、ないな。まさか、自分の夫が顔を見分けられないなんて思いもしないだろうし。
グラスを片手に余裕の笑みを浮かべている女か? それとも、ひそひそと何か囁き合いながらニヤついてる二人のどちらか……?
まずい、早く……ええい、もう勘で――。
「あら、あなた。来たのね」
「え、あ、ああ」
背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。おれはぎこちなく返事をし、小さく息を吐いた。
――危なかった……。
おれは悟られないように背を向けたまま、再び安堵の息を吐いた。いや、ほんとに危なかった。この中にはいなかったのか。たぶん、トイレにでも行ってたんだろう。勘で声をかけなくて本当によかった――。
「もーう、どうしたの、その恰好。寝巻きに、頭もボサボサじゃない。ごめんなさいね、うちの主人ったら。あははは!」
「うふふふ!」
「旦那さんだったのねえ」
「何かと思っちゃった」
「危ない人かもなんて、ねー。あははは!」
「ふふふ。ほらもう、挨拶してよ」
「あ、ああ。どうも……。いや、今日はちょっと具合悪くて、寝てたんだ」
「あら、そうだったの。ごめんなさいね。それなのに、わざわざ忘れ物を届けてくれて本当にありがとう」
「まあ、優しい」
「ねー、奥さん思いよねえ」
――なに……今、なんて?
背筋がぞわりとした。おれは振り返り、目の前の女の顔をまっすぐ見据えた。
「……君は誰だ?」
「え?」
「君は僕の妻じゃない。誰なんだ?」
「ちょ、ちょっと、何ふざけてるの?」
「彼女は僕に礼なんて絶対に言わない。むしろ『遅い!』って怒鳴るはずだ。虫けら扱いして罵る。そもそも、顔が違うじゃないか。彼女の顔はもっと――」
あっ――おれはほっとした。
妻の顔が、みるみるうちに普段通りのものに……。




