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ネクロアリア

診療所の扉を押し開けた瞬間、冷たい夜気を顔に感じた。

息を吸い込むとどこか懐かしい匂いがする。

…線香花火の後みたいな匂い…?

かすかに甘くて、少し煙い様な。

それに雨上がりみたいなどこか澄んだ匂いも混じっている。

知らない匂いなのに、なぜか懐かしい気がして、不思議と親近感を覚えた。


そして_

一歩踏み出すと、そこには異世界が広がっていた。


「……これが……ネクロアリア……!」


目の前に広がっていたのは、見たこともない街の光景だった。

巨大なクレーターの様に街はすり鉢状に広がっていて、中央の一番低い場所に遺跡の様な建造物と穴が開いている。

それも見たこともないくらい大きな。

そこから青白い霧が立ちのぼっていて街全体を幻想的な霧で包んでいた。上空から空撮した台風の目の様にも見える。


「ヤバ…」

なんだこれ?

ちょっと待って。

壮大過ぎて…頭がついてかない。

さっきまでのワクワク感は、急な不安感へと想像を絶する世界観に塗り替えられてしまった。それほどまでに目の前の景色は前世の常識にほんと比べて異常だった。

もしこれが、“最強スキルでエンジョイチートライフ!”系の異世界転移だったらもっと気楽にエンジョイ出来たんだろうけど…

迷宮での一件を思い出すと期待できそうもない。


え…?

無理じゃない…?

俺は猛烈に現実感に引き戻され、今自分が置かれている厳しい状況を理解した。

どうやってここで生きていけって?


診療所はすり鉢状に広がる街の中段付近に建っていて、見晴らしがいい。

建物はどれも群青と銀で彩られていて、尖った塔がいくつも空に突き出していた。その輪郭は霧に溶けて、ぼんやり光って見えた。遠くの鐘楼からは低い音が響いてきて、より世界観を引き立てている。


建物の構造や、迷宮の存在感、そして濃い霧。

言語化する前に直感的に俺の常識が何もかも通用しないだろうと理解出来た。


中央の大穴に近づくほど街は賑わっているのが上から見るとよく分かる。

何となくだが、俺は賑わっている中央付近の明かりとは逆に向かって歩き始めた。

人が集まる場所にはそれだけトラブルも付き物だ。

近づかないに越したことはない。

おそらくこれ以上ないほど俺は今、無防備だ。


「落ち着け…まず何をしたらいい?」

怖過ぎて震えてきた。異様で、現実感がなく、どこに踏み出せばいいのか分からない。歩き進める毎に一歩一歩不安が募っていき、テンションが上がったり下がったりと情緒不安定に行き来している。思ったより俺はテンパってるのかもしれない。そんな俺をあざ笑うかの様に霧も少し濃くなってきている。

方向感覚が狂う…。

エナさんの診療所に戻りたい衝動にかられたが、なんとか堪えた。


『とりあえず何か食ってみろ。そうすると落ち着く』


よく父がそんな事を言っていたのを思い出した。父は海外の駐在員をしていて、俺に海外のあるある体験を話してくれた。父の出張先はアフリカとか中東とかインフラがあまり整っていない場所が多く、やはり就任直後は不安に襲われるらしい。ライオンが襲ってきたらどうしよう?とか急にクーデターでも起こったら?など。そういう時は、とりあえず現地の食べ物を何か食べてみるとか。

ハァ…まさか自分が異世界で、それを経験する事になるなんて。

うん、オッケー。とりあえず何か食ってみよう。


ふと香ばしい、いい匂いがして振り向くと、通りの端に屋台があった。

黒い布をかけた台の上に、こんがり焼けた丸いパンが山積みにされている。

「黒麦パンだ。ひとつ3銅オブリ」

店主の男がこちらを見向きもせずに、ぶっきらぼうに答えた。

視線も合わせてこない。日本じゃあまり考えられないが、俺はあまり見られるのが得意じゃないしこれくらいでいいかも。

3銅オブリか…高いのか安いのか分からない。

そういえば父が、海外に行ったらまず最初に現地の金銭感覚を掴むのが重要だとか言ってたな。うむ…とりあえず何か食えというのは意外と理にかなっているのかも。

しばらく眺めていると近くの子どもが銅貨を数枚を渡しているのが見えて、恐る恐る腰の袋から同じ硬貨を取り出して、台に置く。

「……これで…」

店主は、にやりと笑ってパンを渡してくれた。

買えた!やった!!ぶっきらぼうだが、そんな悪い人って訳じゃないのかも。

異世界での初めての買い物に嬉しくなってしまう。


ガリッ

焼きたてのパンはまだアツアツで、めっちゃ固いけどかじりついた瞬間香ばしさとほのかな苦みが口いっぱいに広がった。そんなに悪くないな。

正直、コンビニのパンのがうまいと思う。

けど、ここは異世界だ。食べ物にありつけたというだけである程度満足出来た。腹が少し満たされてほっと一息つけた気もする。

父の経験も役に立つものだ。


ふぅ。

石段に腰をおろした。

改めてネクロアリアの街並みを見下ろし、ここが異世界だと実感する。

といっても霧がどんどん濃くなっていて、今じゃぼんやりとしか見えないんだが。

生まれて初めての完全なる孤独ひとりぼっち

家族もいなければ友人も知り合いすらいない。

いや、友人はずっといなかったわ。


ここから起こる全ての事は、自由で自己責任だ。

一つの行動が重く、この先の自分の未来に直結する。


「俺はこの世界でこれから一人で生きていかなければいけない」

自分に言い聞かせる様に、口にした。


まずは今ある物の確認だ_


「このパンが3銅オブリだった」

円に換算して高くて300円くらいだとする。うんうん、と俺はひとり頷きながら想像で計算を続ける。となると…3銅オブリ=300円。じゃあ、1銅オブリ100円くらいか。なるほど…なるほど…。

診療所のエナさんに持たせてもらった布袋を覗き込む。

銀の硬貨が13枚、銅の硬貨が23枚。銀の硬貨はいくらくらいなんだろう?

いや、よく考えろ。多分めちゃくちゃ大事だぞ…。

もし銀が1000円だとしたら…銅を23枚じゃなくて銅を3枚で銀を2枚にしていたのでは?

つまり、銀の価値は1000円じゃなく、1万円。

おお~、俺冴えてるんじゃね?完全に想像の範疇はんちゅうを出ないが。

となると、俺の全財産は13万2300円だ。

こんな大金、前世では持ったこともないが、これが俺のこれからの生活費全てだと思うと多いのか少ないのか分からない。


次は_

「泊まる場所を探さないといけない」

とにかく今夜の寝床を確保するべきだろう。後の事は一度宿でゆっくり考えたらいい。

この街の治安とかよく分からないし、野宿はさすがに駄目だ。

明日からの事を考えると、ここで一度しっかり休んでおいた方がいい。

夜が更けるにつれ、気温も下がってきた様に感じる。

冒険者協会に行くのも明日また考えよう。

次の目的が決まって少し冷静になる事ができた。


そんな事を考えながら歩いていると、通りの奥から笑い声が聞こえてきた。

賑やかそうな建物の前にはランタンが吊られ、人の出入りも多い。

恐る恐る近づくと、扉の横に揺れる看板が目に入った。

どうやら宿らしい。


[魂の還る宿 2号店]


心臓がドクンと高鳴る。

「……これ、宿だよな?」

宿ってどうやって借りるんだっけ?

ハァ…急に怖くなってきた。やっぱ俺無理かも。どうしよう。

店の前でトイレの順番を待つ人みたいにウロウロして、試しに少し扉を押してみる。


ギィィィィィ…


「いらっしゃいませー!!」

「うわっ…!」

扉は押したら開く系で、少し転びそうになりながら店内へと入った。

入っちゃったよ…どうしよう。ふわっと温かい空気に包まれ、外気で冷えた体が温まり、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

外の雰囲気とギャップすげえな。

鎮魂の喪中みたいな街の雰囲気から一転して急にファンタジー感満載の店内は賑わってた。店内を流れるBGMもどこかロックっぽい。

店内は石と木でできた広間で、正面には受付の台があり、その奥には帳簿や鍵が並んでいた。壁際には灯火が等間隔に吊るされていて、炎が揺れるたびに影が床に伸びては消える。薄暗いのに、不思議と落ち着く明かりだ。

左手には食堂らしきスペースがあり、木のテーブルと椅子がずらりと並んでいる。

皿を叩く音や笑い声が時折響いてきて、旅人や冒険者らしい人たちが酒を酌み交わしていた。

そして、俺は見つけてしまった。

「ッカ…ッカハ」

言葉にならない声が俺の喉から漏れた。

うわっ…うわっ…待って!待って待って待って!えええええうさ耳おる。

マジで獣人族とかおる世界観やん。

なんて言うか、外国人は全員可愛く見えるのさらに上って感じ。

あんま見たら失礼だよな。ハァハァ、不審者に思われたら追い出される。

そうだ、宿取らなきゃ。

完全に不審者のギコチナサでガチガチに歩いてカウンターらしき場所に何とか近づいた。


「ぼそぼそぼそ」

「はい?どうされました!?」

「ぼそぼそぼそぼそ」

「え?何て…?すいません、騒がしいお店で!全然聞こえないです!ぼそぼそしか聞こえなくて…」

「こ…れで…ぼそぼそぼそ」

「1銀ob…?ご宿泊ですかね?」

俺はヘビメタのロックシンガー並みにヘッドバンキングして答えた。

ブンッブンッブンッブン

俺の読みが正しければ1銀オブリは1万円だ。

1万円あれば絶対泊まれるはずだ。

「かしこまりました。身分証の提示をお願いします」

っへ!?無い無い。身分証ってなんだ?

やっぱり先に冒険者協会行かなきゃ駄目だったか?

店員さん達が何やらぼそぼそ話している。俺の真似…じゃないね。

「それではお部屋にご案内しますので、こちらにどうぞ!」

え?いいの?やった…!とにかく何とかなったっぽいぞ。

受付の女性に変わり、別の若い男性スタッフに案内されて本日の宿部屋に辿り着いた。

一通り部屋の説明をしてくれたスタッフがこちらを凝視している。

え…?何?もう行っていいけど?あ、あれか?布袋から銅オブリを1枚取り出し恐る恐るスタッフに渡してみた。スタッフは硬貨を受け取ると、何も言わずに立ち去って行った。


はぁぁ~~~~~……さすがに疲れた。

部屋は前世でもよくあるログハウスっぽい作りで、ベッドに簡易的な机、照明器具に窓が一つ。トイレと風呂は別らしい。

ベッドに横になる。

ベッドは少しゴワゴワしていて、干し草の匂いがする。何かベッドなのに畳に寝転がっているみたいだ。ちょっとだけチクチクする。


天井の壁紙は何かの幾何学模様で、中央付近で小さなプロペラがクルクル回っていた。

こうして無事に宿を借りれたのも、セレナさんとエナさんのおかげだ。

命を救われただけじゃなく、お金までもらってしまった。

あの時、骸骨野郎から落ちた光る石がエナさんの言ってたソウルストーンなんだろう。

討伐後、セレナさんが俺に持たせてくれたんだ思う。

「ちゃんと返さないとな…」

エナさんの言ってた事は、ほとんど意味が分からなかったけど…。サークルがどうとか、ヘソクリがどうとか…何を言ってたんだろう?

ただセレナさんは間違いなく、この街最強の冒険者なんだと言うことだけは分かった。


“今度は青春出来るといいね!”


ギャル女神の言葉を思い出す。無茶言いやがって…。

パン屋でパンを買って、宿屋に泊まるだけで精一杯の俺に青春なんて出来る訳がない。

しかもあんな…手の届きそうもない相手と。


俺はただ…青春が………スゥー……スゥー……。

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