春の旅立ち ― シアルフィの大森林をあとにして
春は音もなく訪れた。
雪解け水が小川を満たし、森のあちこちに柔らかな芽吹きの気配が広がる。
シアルフィの大森林もまた、長い眠りから目を覚まし、吐息のような風が新緑の香りを運んでいた。
リフィはその朝、いつもより少し早く目を覚ました。
店の戸口には露が宿り、まだ目覚めぬ森の気配に包まれていた。
店内の炉はすでに火を落とされ、いつもの温もりは跡形もなく、炉のそばには代わりに旅支度の背袋が静かに据えられていた。
戸を開けると、二つの影が待っていた。
「おっ、ようやく出てきたな。寝坊でもしたのかと思ったぞ」
にやりと笑うのは、いつもの調子のクルツ。
肩に弓を軽くかけ、旅用の皮衣に身を包んでいる。
「まあ、春の朝はつい長居しちまうもんだ。惜しむ気持ちは、わかる」
そう言って背を向けるのは、剣を腰に携えたエルド。
いつもの無愛想な口調にも、どこか寂しさが混じっていた。
リフィは小さく息を吐き、扉に手を置いて一度だけ店内を振り返る。
並んだ椅子、磨かれた木の卓、そして——最後まで冷まさずにいた炉の石壁。
「行こうぜ。最初の村までは半日の道だ。途中で風が強くなるだろう、羽織を忘れるなよ」
「まるでガイドか宿の親父みたいな口ぶりだな。けど、2人が心配性なのは前からか」
クルツとエルドが肩をすくめ、リフィは旅支度の背袋を背負い、肩を揺らして笑った。
そうして三人は森の入り口を越えて、広がる春の陽の中へと足を踏み出した。
シアルフィの大森林を抜けると、最初に現れるのはノアスの村。
そこから東に曲がればベルタの集落、さらに南へ下れば交易拠点として栄えるカレンの町がある。
その先にあるのが、今回の目的の都市——ホウバステオン。
「で、お前さんはそのホウバステオンで何を探すんだ?」
エルドが歩きながら問いかけた。
「新しい食材、新しい調理法の情報。そして……新しい“味”だ」
「ま、あんたのことだ。今度もまた美味い飯をご馳走してくれるのだろう?」
クルツが笑い、リフィはふっと目を細めた。
「それは食ってからの、お楽しみだな」
三人の足音が、若葉の匂いに包まれた道に軽やかに響いていく。
鳥のさえずりと、風の音、そして時折交わる冗談と笑い声が、春の旅のはじまりを彩っていた。
やがて、森を背にした彼らの姿が、木々の影に溶けていく。
リフィの旅路は、再び動き始めた。