締めの一品と旅立ちの予感
店内のざわめきが消え、薪のはぜる音だけが静かに空間を満たしていた。
常連たちは思い思いに満腹の表情を残し、いい時間になったと帰っていった。
けれど、椅子にふわりと身を預けている女がひとり、まだグラスをゆらゆらと揺らしていた。
「……ほんと、いい夜ねぇ」
豊満な体を包むチュニックの胸元をきゅっと引き寄せ、リムは片肘をついて微笑んだ。
頬はうっすら紅く、けれどその瞳は醒めていた。
リフィは片付けの手を一旦止め、彼女に向けて言った。
「もう一杯、いくか?」
「ふふ……いいけど、お酒じゃなくて、今日の“締め”が欲しいわ。ほら、あれ、前に少しだけ味見させてくれたやつ。シム茸を使った汁?」
リフィは小さく頷くと、静かに調理場へと戻った。
闇に沈む森の外とは対照的に、店の奥からはふんわりとした暖かい香りが立ち上ってくる。
鍋の中では、シム茸の出汁がゆっくりと温められていた。
それは昨日から仕込んでいたものだ。
乾燥させたシム茸を水に浸し、上から木の重しをのせ、じっくりと時間をかけて旨味を引き出す。
自分で見つけた“出汁の取り方“のひとつだった。
その出汁に、細かくみじん切りにしたクムユの葉を加える。
粘りとともに現れる淡い辛味が、この料理の鍵だ。
さらに、発酵させたゴマム豆のペーストを一匙ずつ丁寧に溶かし込む。
ゆるやかに混ぜながら、沸騰させぬように火加減を見極める。
焦らず、慌てず、ただ静かに、味がひとつになるのを待つ。
ほどなくして、店の木卓に小ぶりな椀が置かれた。
「クムユのシム汁だ。熱いから、ゆっくりな」
リムは両手で椀を包むように持ち、ふぅと一息。立ちのぼる湯気に目を細め、ひと口、すすると——
「……んっ、これは……」
喉の奥を滑り落ちる粘りの中に、クムユの淡い辛みがほのかに立ち上がり、シム茸のコク深い旨味が全体を包む。
そして味のベースにもなっているゴマムの塩味が調和し、後からふわりと香った。
それはまさに優しい目覚めと共に体に染み渡るほっとする味。
酔いを締めくくるためにある味だった。
「ねえ、リフィ」
リムは器を抱えたまま、ぽつりと呟いた。
「春になって、寒い季節が明けたら……また、旅に出るのでしょう?」
リフィは答えず、鍋にかけた布巾を静かに絞った。
その横顔には、どこか憂いが滲んでいる。
「そろそろまた、新しい味を探しに行きたいとは思っていた」
「ふふ、やっぱりね」
リムは微笑み、椀の底を見つめる。
そこには、夜の静けさを映すかのような、深い琥珀色の汁が残っていた。
森の外では、細かな霜が夜気に白くきらめいている。
店の炉の中には、まだ消えぬ火が灯っているのだった。