旅籠での密談
カレンの町の夜は、思いのほか静かだった。
昼間の熱気と喧噪が嘘のように引き、路地の明かりがぽつぽつと灯るだけの落ち着いた街並みが広がっている。
リフィたちは"砂鐘亭"という旅籠に腰を落ち着けていた。
年季は入っているが手入れの行き届いた建物で、客も旅人や商人が多く、居心地の良い場所だった。
遅めの夕食を終え、クルツとエルドは既に部屋に戻っていた。
リフィはひとり、帳場裏の小さな湯沸かしの間にて、明日の朝食のために乾燥豆を水に浸しつつ、茶を一杯淹れていた。
と、その静けさを破るように、隣の間から声が漏れ聞こえてきた。
「……それで? まだ“戻ってない”のか?」
男の低い声。疲労と苛立ちがにじむ。
「ええ。最後に見かけたのは十日以上前。療養院が封鎖されたって話だけは、北の門番経由で……でも患者も職員も戻らないままなの」
女性の声が続く。早口だが低く抑えている。
リフィは思わず手を止めた。
療養院。戻らない患者。封鎖。
「南区だけの話じゃないみたいよ。最近じゃ西区でも発熱と咳が止まらないって訴える人が増えてるって。薬が効かないって、あの……例の症状に似てるって噂も出てる」
「……まさか、広がってるのか……? あの病が?」
リフィは、棚に寄りかかるようにして身じろぎもせず耳を澄ます。
「高位の医師が倒れて以降、対応が遅れてるんでしょ。あの人がいればまだ違ったかもしれないのに……」
「でも……その医師に仕込まれた助手がいるって話じゃないか」
一拍の沈黙が落ちる。
そして、女性が小さく口を開いた。
「……高位の医師に仕込まれた“レイナ”さんがいるのは確かさ」
リフィは、手にしていた湯飲みを静かに置いた。
炎の揺らぎのように、胸の奥に名前の余韻が広がる。
「……レイナ。ホウバステオンの高位医師……まさかな……」
リフィは立ち上がると、音を立てぬよう静かにその場を離れ、廊下を抜けて中庭へ出た。
月は雲の切れ間から顔をのぞかせ、わずかに夜を照らしていた。
“命の糧すら拒む病が来たれり”
“癒しの娘は沈む手をあげられず”
あの夜の詩が、再び蘇る。
その「癒しの娘」とは——
封鎖された療養院に残された娘のレイナのことなのか?
そして、あの“断章”が示す詩が、この病に対する鍵になるのか。
風が落ちた葉を運ぶように庭の片隅をかすめていく。
リフィはゆっくりと視線を上げた。
その夜、彼は眠らず、手帳を広げて処方詩の断章を見返した。
そこに記された三種の素材——
そして翌朝。
彼は手帳を閉じ、仲間たちに出発の支度を促した。
「行こう。ホウバステオンへ。あの街に、俺の“料理”が必要だ」




