黒の仮面と“病を詠う歌”
森の道を外れた野営地。
焚き火の火が静かに揺れ、薪の爆ぜる音が沈黙を優しく破っていた。
夕食を終え、まどろむようにそれぞれが思索に沈む中——
風の隙間に紛れるように、どこからか微かな笛の旋律と、誰かの詩の声が混じり始めた。
クルツが耳を立てる。
「……おい、今、笛か? 歌か……?」
「いや、気のせいかと思ったが……確かに何か聞こえるな」
エルドが言う。
だがリフィの耳には、より明確にそれが届いていた。
それは旋律のような語りのような、どこか警句めいていて、どこか祈りにも似ていた。
「命の糧すら拒む病が来たれり、眠りの街に灯は絶え、癒しの娘は沈む手をあげられず……」
言葉の合間に聞きなれない言葉が混ざり、輪郭がぼやけていく。
けれどその詩の響きは、不思議と胸の奥に深く残った。
「……見てくる」
焚き火のそばを離れたリフィは、音のする方へと足を踏み出した。
やがて、大木の陰に隠れるようにひとつの焚き火が見え、その火を前に黒の仮面の男が座っていた。
光を一切返さない漆黒の仮面には銀の細工が施されており、目元だけがわずかに見えていた。
「……先ほどの詩は?」
リフィが問うと、男は詩を止め、火越しにリフィを見つめた。
「君は、火と食を扱う者だな。香の残り香が語っている」
「料理人だが、それが何か?」
仮面の男はわずかに頷いた。
「ならば、この詩に耳を傾ける資格があるかもしれん。“命の糧”に通じる者は、古より“癒し”に近い存在とされてきた」
「……癒しの娘。沈む手。眠りの街。病……何のことだ?」
「未来の予兆だ。“東の城塞都市”で、ある女医が沈黙の中で呼びかけている。料理人よ、その声に応えられるかは、君次第だ」
そう言うと、男は火の縁に一枚の羊皮紙をそっと置いた。
そこには暗号のような詩文と複数の図形、素材らしき文字が綴られていた。
それは素材や調理の手順を抽象化し、詩として記した“処方詩”の断章と男は言った。
男は、独り静かに詩を口ずさむ。
「三相の調べ、命を織りなおす……」
黒き夢より摘まれし花、
影を封じ、静けさを吸う香よ。
白き願いの葉は風に舞い、
清き苦みで滞りをほどく。
深紅の果実は遠き血の記憶、
滴り落ちて熱を灯し、命をゆり起こす。
三つをひとつの鍋に託し、
炎は眠りのごとく穏やかに。
湯は過去を映す鏡、
最初のひと匙が、深き底に届く。
「古い治療師の言葉で“薬と食は等しき命の術”。この断章が意味するものを、君が解けるなら——その先に癒しの鍵がある」
リフィが再び目を戻したときには、男の姿はすでに消えていた。
焚き火と羊皮紙だけが、そこに確かに残されていた。
リフィはそっとその紙を手に取り、暗く沈んだ森を見上げた。
彼の胸に蘇る、かつての薬師の言葉。
自分の歩むこの先の道に“処方詩”が交わるのなら——
それを知った自分なら何かを救えるかもしれない。
リフィは、羊皮紙を胸元にしまいこみ、仲間の元へと帰路を取った。