第九話 悲劇
文化祭当日は絶好の文化祭日和と言っても良い快晴だった。九月の下旬ともなれば暑さも引き始め、朝の空気は爽やかな匂いで満たされていた。
前日は遅くまで作業をしていたのに、朝の早い時間から準備のために次々と生徒らが登校してくる。普段と違って生徒らは朝からやる気に満ち満ちており、今日が特別な日であることを否が応でも感じさせる。
三年F組も七時集合にほとんどの生徒が集まり、出店の準備を始めていく。飾り付けの最終調整に、フロア担当はコスプレ衣装への着替え、バックヤード担当は裏方作業の確認と鹿森中心に準備が着々と進んでいく。
勇輝は衣装製作担当からコスプレ衣装を着せ替え人形のごとく着せられ、クラスメイトらにまじまじと見られ、客が来る前から挙動不審になっている。そんな彼を離れた場所から力弥はニヤニヤと眺めていた。
「明星君、いい感じだね。ちょっと写真撮らせてよ」
「えええ」
勇輝の喘ぎ声はクラスメイトには届かない。
「その刀を構えてみて」
「こ、こう?」
クラスメイトの何人かが写真を撮っているのを見て、力弥もスマホのカメラを起動すると、勇輝に声をかけた。
「いいねいいね、明星クン、こっちにも視線ください」
力弥の囃し立てるような掛け声にクラスメイトから笑顔がこぼれる。ただ一人、勇輝だけは彼を睨みつけている。
「ほら、笑って笑って」
そうやって力弥は勇輝で遊んでいると、後ろから鹿森に声をかけられた。
「リッキー、楽しそうなところ悪いんだけど」
「ん? 何?」
力弥が後ろを振り向いて鹿森の方を見ると、彼女は出店名のロゴが入った段ボールの看板らしきものを持っていた。
「ちょっと客引き行ってきてくれない?」
「え?俺が?」
「うん、リッキーは背が高いし、目立つからちょうどいいよねって話になったの」
教室で勇輝をからかえないのは残念だが、客を連れて来た方が面白くなりそうだと思い、引き受けることにした。
「いいよ。それ持って、人を連れて来ればいいんだな」
「うん。お願いね」
そう言って鹿森は看板を力弥に手渡した。力弥は頼まれたものの一人で行くのも侘しいなぁと思い、祐介に一緒に来てくれるように頼んだ。「いいよー」と祐介はニコニコしながら力弥の傍に行くと、二人は教室の外に出た。
力弥と祐介は軽く相談した結果、来客が集中する昇降口に向かうことにした。昇降口に向かう途中、どこの教室でも来客を呼び込もうとする声で廊下は溢れていた。F組のような喫茶店以外にも定番のお化け屋敷や演劇以外にも体験型アトラクションなども見られた。
どこのクラスも工夫を凝らした魅力的な出し物であるため、力弥と祐介は勧誘に行くつもりが、逆に勧誘されそうになっていた。まさにミイラ取りがミイラになるという状態だった。
そうして二人はダラダラしながらもようやく昇降口に辿り着くと呼び込みをしようと意気込んだ。しかし、そこは力弥ら同様に勧誘をしようとする生徒らで溢れ、力弥らは昇降口に近付けなかった。二人は完全に出遅れた形となった。
「これは凄いな」
「お客さんに近付けないねー」
宣伝にやる気を出している他クラスの生徒らの後ろで、二人は手持無沙汰に昇降口の人混みを眺めていた。「とはいえ、誰かしら連れてこないとねー」と祐介がゆったりとした口調で正論を言うので、「そうだな」と言いながら力弥は周囲を見渡した。
力弥らの周囲には宣伝のためのビラや看板を持っていない生徒の姿もチラホラ見受けられる。「外からのお客さんじゃなくて、うちの生徒に声をかけるか」力弥は祐介にそう言うと、人混みに背を向けて周囲の生徒たちに声をかけ始めた。
力弥と祐介はしばらく粘った結果、二年生のカップルを一組だけ捕まえることに成功した。そして二人を丁重にF組の教室まで連れて行った。力弥は教室の入り口で「二名様ご来店です」と言って、二人の『お客様』を店内に通した。その時、店の中に見知った顔が客として来ていた。藤鳥だ。
彼女は何人かの女子生徒と一緒に来ていた。そんな彼女らの接客は勇輝がしていた。勇輝はトレイに乗せた飲み物を一つずつその女子の一団に配膳している。よく見ると、勇輝は耳まで真っ赤になっていて、どうにか接客している状態だった。
配膳が終わると、藤鳥らからポーズを取るようにお願いされていた。勇輝は恥ずかしがりながらも彼女らの要望に応えている。そんな楽しそうにしている勇輝と藤鳥を見て力弥は話しかけるのは野暮だと思い、看板を担いで廊下に出た。
「祐介、また客を探しに行こうぜ」
「そうだね」
二人を眺める力弥のことを見ていた祐介は、何かを感じ取ったように力弥の後に続いた。
力弥と勇輝と祐介は同じタイミングで休憩に入った。三人が中庭に行くと、そこには焼きそばやかき氷を売る露店が並んでいた。適当な場所に三人は腰掛けると、露店で売られている物で昼食をすませた。
その後、三人は次のシフト時間まで暇をつぶそうとぼんやりしていると、渡り廊下の方から祐介を呼ぶ声がした。どうやら同じ部活のメンバーのようだ。
「リッキー、明星君、サッカー部の連中に呼ばれているから、行くね」
「おう、またな」
力弥がそう言って手を振ると、勇輝も小声で「お、お疲れ様」と言った。祐介は力の限り手を振ったかと思うと、颯爽と走り去っていった。そうして、力弥と勇輝はまた中庭でボケっとしていたが、勇輝が二人の間の沈黙を破った。
「あ、あのさ」
「うん?」
勇輝は前を向いたまま話始めると、力弥はそんな彼を見つめた。
「ありがとう。あの、明日の約束をしてくれて、今更だけどさ」
「そんなことか、別にいいよ」
力弥は何でもないという顔で笑いかけた。
「その、藤鳥さんも楽しみにしているって言っていたし」
「そっか」
再び沈黙が流れた。少しして力弥がスマホの画面を見ると「そろそろ時間だな」と言って、立ち上がった。勇輝もそれに続いた。
「で、俺は途中でバックレなくていいの?」
「それはしなくていい」
「なんで?」
「心の準備が、できてない」
勇輝の答えは昨日と違っていた。今はそれでも良いと力弥は心の中で呟いた。人と距離を取り、つながりを忌避する勇輝に変化が生じたことが力弥にとって嬉しかった。同時にきっと藤鳥のおかげだろうと力弥は感じていた。それは自分が勇輝と関わる以前から彼女が彼といてくれたおかげだと。
そんな二人のことを考えていると、力弥は教室までの足取りが軽くなった気がしていた。すると中庭から校舎に入ろうとしたところで、二人は藤鳥とすれ違った。
「あれ、藤鳥さん、どこ行くの」
彼女は自分の教室とは反対方向へ向かっているので、気になって力弥が声をかけた。
「ああ、明星君に燕谷君。何か、紙コップと紙皿が足りなくなったみたいで、買い出しを頼まれちゃったの」
藤鳥が言い終わるのとほぼ同時に、彼女の後ろから鹿森が出てきた。
「あ、リッキー、ちょうどよかった。買い出しに行ってきてくれない? コップがなくなりそうなの。あとジュースも」
力弥と勇輝は文化祭準備の初日から薄々気付いていたが、鹿森は力弥を便利な雑用係と見なしているようだった。力弥としては勇輝を藤鳥と一緒に買い出しに行かせたいと思ったが、そう言おうと思った次の瞬間には勇輝は鹿森に連行されていた。
「じゃあ、よろしくね。あと、明星君は借りていくね。彼、お客さんの受けがいいの」
「いや、あの」
「ごめん、急いでいるから。買い出しよろしくね。領収書はもらっておいてね」
そうして、力弥としては不本意だが、藤鳥と二人きりになってしまった。
「あー、どうせなら一緒に行こうか?」
「そうだね」
そうして力弥と藤鳥は高校から近いショッピングモールに向かうことにした。昼を回ったこの時間帯は学校を訪れる人の数がもっとも多い。そんな人の流れに逆らうように二人は正門から学外に出た。
*
ショッピングモールまでの道中、力弥と藤鳥は勇輝のコスプレがいかに似合っていて彼の振る舞いがどこか可愛らしいという話で盛り上がっていた。本人が聞いたら猛然と抗議してきそうだ。
「あいつ人見知りのくせして、言われたことには素直に従うからな」
「そういうところが可愛く見えちゃうのかもね、こんなこと言ったら悪いけど」
そう言って藤鳥はくすくすと笑った。力弥はそんな彼女を見て先ほどの教室での二人のやり取りを思い出した。わざわざ自分がお膳立てをするまでもなかったんじゃないかなと心の中で呟いた。
「明日は、二人きりで遊んできてもいいんだよ」
力弥がそう言うと、藤鳥は少し考えてから答えた。
「それは違うよ、燕谷君。私も明星君もあなたと一緒に遊びたいんだよ」
正直なことを言えば、三人で行くことを一番望んでいたのは力弥だった。ただ、彼はそうした自分の気持ちに蓋をしようとしていた。勇輝への気遣いは、どちらかと言えば言い訳だった。二人は横断歩道の前で立ち止まり、信号が青に変わるのを待った。
「そっか」
力弥がそう言うと信号が青に変わり、二人は歩き出した。
土曜日の昼間ということもあり、ショッピングモールの入り口の周辺には家族連れの姿が見られた。中にはマイペースな子供もいて、離れた場所から母親から早く来るように急かされている。
藤鳥はそんなマイペースな女の子を見て「可愛いね」と力弥に声をかけていると、その子の近くに黒い靄のようなものが集まっているのが見えた。黒い靄は次第に集まり、人型を形作ろうとしている。力弥はそれに周囲の誰よりも早く気付き、妙な寒気に襲われていた。嫌な予感がする。周囲の人々も異変を感じ始めた時には黒い靄の中から怪物が姿を現していた。
それは人型ではあるが、頭はトカゲだった。トカゲの頭に人の体を持ち、大振りの曲刀のようなものを持っている。体の大きさは力弥より一回り大きい程度で、彼がこれまでに見た怪物たちと比較すると小さい。しかし、いずれにしても異形のものではある。しかも少し離れた場所にもう一匹現れた。
「何、あれ、映画か何かの撮影?」
「いや、違う。藤鳥さんは下がって」
力弥は藤鳥を庇うように一歩前に出る。そうして辺りを見ていると、トカゲ男の一匹が小さな女の子に向かっている。大きく開いた口からは青色の不気味な舌をだらりと出しては女の子に狙いを定めている。
「やばい」
そう言うより早く力弥は駆けだしていた。そして、女の子を抱えると、怪物から距離を取ろうとした。しかし、唐突に力弥の横腹に衝撃が走った。トカゲ男が太い尻尾を振り回し、力弥の体に強烈な一撃を入れたのだ。
力弥はどうにか女の子を守りぬくも、体を植樹に強か打った。どうにか立ち上がろうとするがうまく力が入らない。周囲の人たちの中には力弥に加勢しようとする者もいるが、もう一匹のトカゲ男に阻まれ、近付くことができない。
「威勢よく出て行って、これかよ。カッコつかねぇな」
そうぼやきつつも、女の子を抱えながら立ち上がった。しかし、次はトカゲ男の蹴りが決まると、再び彼は吹き飛ばされた。そして、女の子から引き離されてしまった。
「大丈夫? 燕谷君」
藤鳥が力弥に駆け寄るも「ダメだ、君は早く逃げろ」と言って、彼女が近付くのを制した。そして、女の子のもとに行こうとするが、力弥は痛みで体を動かすことができなかった。
トカゲ男は邪魔者がいなくなったかとでも言わんばかりに泣きわめく幼女のもとへ向かう。遠くでその子の母親らしき人物が叫んでいる。力弥は体を引きずりながら立ち上がろうとしていると、傍らにいた彼女が走り去るのが見えた。
「待って」
心臓がつぶれたような衝動が力弥を襲った。そして、走りゆく彼女の後姿がスローモーションのようにゆっくり動く。まだ間に合う、俺なら。そう思いながら、力弥は全身の力を足にこめて立ち上がる。
その間にトカゲ男が手に持っている曲刀を振りかぶる。そして振り下ろされるその瞬間に幼女の体を藤鳥が庇う。力弥は手を前に突き出し、持てる力を振り絞って駆けだす。しかし、無情にもトカゲ男の曲刀は藤鳥の背中に振り下ろされる。
「やめろー」
力弥の声が響く中、鮮血が飛び散る。噴き出すしぶきの一滴一滴までが力弥の目には止まって見えた。自身への情けなさともどかしさに頭がどうにかなりそうだった。
「うわああぁぁぁぁ」
力弥はトカゲ男にタックルを入れると、トカゲ男の体は吹き飛び植え込みの中へ突っ込んでいく。そして力弥は息を切らせながら藤鳥の方に駆け寄る。そして、彼女の名前を何度も呼ぶ。
「藤鳥さん、藤鳥さん!」
藤鳥の体を揺らしながら名前を呼ぶ。その彼の手には彼女の血がべっとりと付いていた。そんな力弥の背後にトカゲ男の体がゆらりと立つ。そして、トカゲ男は怒りに満ちた顔で力弥を見下ろすと再び曲刀を振り上げた。
「逃げて、燕谷君。あなたまでやられちゃう」
「君を置いて逃げるなんてできるかよ」
力弥は藤鳥とその下にいる女の子の体を守るようにトカゲ男に背を向けた。そして、彼は覚悟を決めると同時に、「勇輝、頼む、来てくれ」そう心の中で叫んだその時だった。
「シャアァァァァァ」
トカゲ男が耳をつんざくような叫びをあげながら派手に吹き飛んでいった。そして、力弥が振り返るとトカゲ男のいた場所には黒い体の戦士がいた。
「勇輝、来てくれたんだな」
彼の姿を見た力弥は緊張の糸が切れて、その場に倒れこんで意識を失った。
*
勇輝がバックヤードに呼ばれて飲み物と菓子を取りに行った時だった。右腕に熱を感じた。奴らが出たのだ。しかも二体いる。勇輝は左手でブレスレットを押さえると、敵の位置を探ろうとした。
「そんな」
それはすぐ近くのショッピングモールの方角だった。あそこには藤鳥と力弥が向かっている。二人に危険が迫っている。そうわかると、勇輝はバックヤードから出た。
「腹が痛くなったから、保健室行ってくる」
誰に言うでもなく勇輝はそう叫ぶと、走って教室から出た。クラスメイトや客らはそんな彼を茫然と眺めていた。人や物で溢れた廊下を走りながら、勇輝は身を隠せる場所を探した。
勇輝は学校中を走り回っていた。
だめだ、どこもかしこも人がいっぱいだ。校舎の周辺はどこも人がいて、以前に変身に使った倉庫の近くも人がいるだろう。どこか、どこかないのか。こうしている間にも藤鳥や力弥に危険が迫っている。そう考えると、勇輝は自身の心臓の早鐘が聞こえてくるようだった。そして、その心音を感じては更に動揺した。
上履きのまま校舎を出て、あたりを見回した。サッカーコートの方は人がいない。それに気付くと、人の波に逆らいながらサッカーコートに向けて全力で走った。息を切らしながらコートに辿り着くと、案の定人はいない。
勇輝はすぐ近くのサッカーボールなどが入っている用具入れに身を隠すとブラックドッグの姿に変身をした。光の粒子が収まるのを待たずして彼は用具入れから出ると、上空に飛び上がり、ショッピングモールの方に視線を定めた。
既に怪物が現れ、動き回っている。「藤鳥さん、力弥、無事でいてくれ」そう呟くと空中で体の向きを整え、ミサイルのように怪物に向かって突進した。学校からショッピングモールまではさほど離れていないため、一瞬で着くことができた。
そして、その突進の勢いのまま怪物に体当たりをすると、怪物のいた場所に降り立った。勇輝はあたりを見渡し、藤鳥と力弥の姿を探した。それはすぐに見つかった。
力弥は気を失って倒れ、そのすぐそばで藤鳥は血まみれだった。
「間に合わなかった」
『何かあったら、俺が守ればいい』だって、できもしないことを宣言するなんてお笑いぐさだ。
戦う以外に能がないのに、他に何もないのに、大切な人たちを守ることすらできないなんて、俺に何の価値があるんだ。
俺の話を聞いてくれる優しい彼女。
ただ一人俺を理解してくれる相棒と言ってくれたあいつ。
そんなかけがえのない二人を同時に失うなんて、もう、どうしたらいいんだ。
勇輝は力なくその場に佇み、泣くのをこらえるように肩を震わせている。
そんな絶望する勇輝に二体のトカゲ男たちが迫る。片方のトカゲ男は勇輝の攻撃で片腕を垂らし、足を引きずっていた。それでも片方の手には曲刀が握られている。二体のトカゲ男は同時に曲刀を掲げると、勇輝の黒い体に振り下ろした。
バッキーーーン。
二本の曲刀は飴細工のように砕けた。絶望は同時に怒りを呼び起こしていた。その怒りは力となり、勇輝の黒い体をダイヤモンドのように硬くしていたのだ。そして、その力は彼の両手に集まっていく。そこにはナイフのような爪があった。
「邪魔」
そう言って、真後ろにいるトカゲ男たちに一閃を入れると、トカゲ男たちの体は一瞬のうちに寸断され、すぐに黒い塵となって消えた。敵は倒したが、勇輝に喜びなどありようもなく、力なく腕を下した。
そんな彼の後ろ姿を藤鳥は見ていた。消えゆく意識の中で、彼女はブラックドッグの姿が、悲しそうにしょげる明星勇輝の姿として映っていた。黒く猛々しい戦士ではなく、いつもの勇輝に見えたのだ。
「明星君、元気、出して」
彼女は最後の力を振り絞って、それだけ言った。勇輝は何かが聞こえたのか、彼女の方を振り返った。止めどなく血が流れ、彼女の周囲は血だまりとなっていた。自分に何かできないかを考えた。しかし今の彼にはどうすることもできない。
この姿は戦うことしかできないただの獣。怪我を直したりできるわけでもない。自分にできることはこの場を去り、救急に全てを託すことだけだった。
「ほんと、俺って無能だな」
そう言って勇輝は飛び上がると、その場を後にした。晴れていたはずの空は黒い雲に覆い隠され、あたりはサイレンの音で溢れていた。その音は誰かの悲痛な叫びのように響き渡り、やがて黒い空に溶けていった。
*
眩しい。そうか、寝ていたのか。力弥は目を開けると、そこには白い天井があった。それは見たことのない光景だった。すると、誰かの顔が視界をふさぐ。母親だ。少し離れた場所には高瀬がいる。もう一人の人は知らない人だった。
みんなが何かを言っている。力弥にはそれが分からなかった。少しずつ脳がクリアになっていく感覚がして、周囲の声を理解できるようになってきた。それと同時に自分の身に何が起きていたのかを思い出そうとした。
「・・・藤鳥、さんは?」
力弥は上体を起こした。それと同時に体のあちこちが痛いことに気付いた。痛みを感じる部位を手で押さえていると、周囲の人たちは憐れむような顔をして、彼を見下ろしていた。
「あなたのせいじゃないの」
母親が言った。
「お前はよくやった」
先生が慰めた。
周りを見ると、先生の後ろには数人の生徒がいた。皆、表情は暗い。その中には勇輝の姿もあった。彼は俯き、何かを耐えているようだった。どうしてみんなそんなことを言うんだ。勇輝はどうして俯いているんだ。
力弥は最悪の可能性を考えては、それを打ち消そうとした。しかし、どうしてもその考えしか浮かばない。誰か、誰か、否定してくれ、頼むから最悪の現実だけは言わないでくれ。
「藤鳥結衣さんは、その、亡くなられたんだ。救急車が到着したときには、既に手の付けようがなかったらしい」
高瀬がこみ上げる感情を押し殺すようにそう言い放った。力弥の頭は真っ白になった。それと同時に力弥の頬を一筋の涙が零れ落ちた。目の焦点が定まらない。それでもどうにかして再び勇輝の方を見た。彼の姿はなかった。
「だけど、小さい女の子は無事だったわ」
「そうだ。お前が刀を振り回している異常者から彼女らを守ったと聞いたぞ」
そうやって周りの大人たちは自分を庇ってくれる。しかし藤鳥は守り切れなかった。いや、むしろ彼女のおかげであの女の子は無事だったのだ。まただ、また自分は偽りのヒーローに祭り上げられる。賞賛を浴びるべきは自分ではない。彼女だけであるべきだ。
力弥の目からは止めどなく涙が流れていく。
「今は休みなさい」
「・・・うん」
力弥は頷くと仰向けになった。そして、右手で目元を覆うと嗚咽を漏らした。高瀬やクラスメイトはそんな彼を見るに堪えられず、病室を出た。外は雨が降っていて、窓からは雨音が響き、力弥の泣き声をかき消そうとしていた。
*
少しして、検査で力弥は脳に異常がないことが分かると、次の日には退院できると言われた。既に外は暗く、母親は今日のところは自宅に帰り、明日迎えに来るとのことだった。力弥は体を起こして外を眺めた。
窓の外は暗く、所々に他の病室の明かりが見えた。相変わらず雨は降り続け、雨音が静かな病室に響いていた。一人になって、改めて力弥は勇輝のことを考えていた。
勇輝は辛そうだった。
それはそうだ、彼女が死んでしまったのだから。
でも、もしかしたら俺が余計なことをしなければここまで悲しまずに済んだのではないのか。
二人の仲を取り持とうとして、あいつに余計な期待をさせてしまった。
それがあいつにより大きな悲しみを背負わせることになったんじゃないのか。
力弥はベッドの上で膝を抱えると、顔を膝に埋めた。そして、一人ではらはらと涙を流し始めた。
俺は、俺はまた、自分の気持ちだけで動いて、暴走して、誰かを困らせたんじゃないのか。
どうして、どうしていつもこうなる。
力弥は両手で膝をグッと引き寄せ、更に顔を膝に押し込める。
もう止めよう。
気持ちを押し殺して、蓋をして、仮面を被っていればいいんだ。
そうすれば、これ以上傷つくことはない。
俺も、あいつも。
ふと、力弥は顔を上げた。そして、勇輝の俯いた姿を思い出す。
あいつは俺を許してくれないかもしれない。
あいつに会うのが、怖い。
怖い。
怖い。
「怖い」
最後に一言ぽつりと口から言葉が出ると、再び力弥は膝に顔を埋めてしまった。雨だけが力弥の悲痛な叫びを聞き届け、せめてもの救いにと雨音は次第に強まり、彼の嘆きを呑み込んでいった。
*
暗い部屋に雨音だけが響き渡る。ザァザァという音は誰かの涙を代弁しているようにとめどなく落ちては流れていく。勇輝は明かりもつけずにベッドで横になると、ただ天井を見つめた。彼の顔にはおよそ感情と呼べるものはない。ただ、無表情に真っ直ぐ視線を向けている。
以前にも駆けつけるのが遅れて、怪我をした人や亡くなった人はいたじゃないか。
今回はたまたまそれが知り合いだっただけだ。
そう、いつも通りだ。
哀しみと悔しさと怒りをどこか遠くに置き去り、心をただ空っぽにする。
そうすれば大丈夫。
むしろ、空っぽにしなければ自分は内側から壊れてしまう。
心が砕けてしまう。
壊れてしまうくらいなら、空っぽの方がマシだ。
誰かを思ったり、誰かにもたれかかったりするから失くしたときに心が壊れそうになるんだ。
だったら、一人の方が良い。
失うものがなければ、怖がることもないのだから。
勇輝は静かに目を閉じた。
何も感じない心。
力を受け継いだあの日から少しずつ体得したもの。
どうして今更それをやめてしまったのだろう。
やめなければ、こんなに傷つくこともなかったのに。
やめよう。
誰とも関わらないでいよう。
「そうだ。それが一番いい」
勇輝はそう呟いて息を吐くと、闇の中に体を揺蕩わせた。