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第六十七話 氷の刺客の裏にて

蟹?


 形だけ見れば、蟹と形容したくなる何かがそこにいた。


 大きさにしておよそ四、五メートルほどの巨大な蟹のような怪物が道路の真ん中に佇んでいた。ただ、それが蟹と違うと言えるのは、大きさもさることながら、背中に羽が生えているからだ。


 周囲の人々が警戒しつつ、その巨大な蟹を眺めていた。幾人かはスマホを構え、写真を撮っていた。


 しかし、そうやってこの怪物を物珍しく見ていられるのも今のうちだった。


 突如、怪物は巨大なハサミを掲げると、目の前の車にそれを振り下ろした。


 ボンネットが大きくひしゃげると、危険を察知した運転手がすぐさま車から降りた。それと同時に車が爆発し、炎上した。


「キャー」


 先ほどまで怪物たちを眺めていた人々は次々と逃げ出していった。一方、蟹の怪物は近くにいる人に向かって歩き出した。しかし、怪物の動きは遅く、全速力で走れば逃げることは難しくなかった。


 ところが、空からもう一体の蟹怪物が降下してきた。そのことで、周囲は更に混乱し、大きな悲鳴が次々と沸き起こった。


 人々が逃げ惑う中、伊織の視界には二体の怪物に退路を塞がれ、どこへ逃げるべきか迷っている少女の姿があった。離れた場所には友人らしい数名の少女がいた。


 助けないと。


 既に多くの大人たちは逃げた後で、怪物たちに最も近い位置にいたのは伊織と、友人らしい少女たちだけだった。


 地面には逃げた人が落としたと思われるスマホがあり、伊織は申し訳ないと思いつつ、怪物の気をひくためにそれを投げた。


 見事にスマホは片方の怪物に当たり、怪物の興味は伊織に向けられた。そして、何本もの足を巧みに動かして、伊織の方に近付いてきた。


 よし、こっちへ来い。


 伊織は怪物の姿を確認しつつ、少女から遠ざかるように道の奥へ向かって走り出した。その間に、少女が逃げ出せることを祈りつつ。


 怪物の動きは遅いと、高を括っていたが、本気を出した怪物にとっては、人間に追いつくことなど造作もないようだった。


 このままでは追いつかれると思った伊織は、とっさに側方に体を跳躍させることで怪物の突進を躱すことができた。蟹の怪物は道の突き当りにある金網に突っ込み、しばらく動こうとしなかった。


 どうする。


 金網が体に引っかかっているのか、怪物はもぞもぞするばかりですぐには動こうとしなかった。


 伊織は周囲を見渡していると、もう一体がゆっくりとこちらに向かって来ていた。二体同時では逃げ切れない、直感的にそう感じた。


「力を貸します。右手首の腕輪をかざして、『変身』と言いなさい」


 どこからともなく女性の声がした。思わず、右手を見るといつのまにか腕輪がはめられていた。


 そして、伊織は周囲を見渡したが、誰もいない。


「早く。このままでは殺されます」


 金網に突っ込んだ怪物が体を起こし、体勢を立て直していた。


 伊織は、どのみちこのままでは殺される。そう思い、謎の女性の声に従ってみることにした。


「変身」


 その時、雲一つない青い空から突如として稲妻が落ちた。それは伊織の体を貫いたかに思えたが、そうではなかった。雷は伊織の周囲にまとわりつき、実体を伴う肉体へと変じた。


 伊織は自身の体が拡張されていく感覚を持った。腕も足も体も二回りほど大きくなり、頭からは何かが突き出る感覚があった。そう、それは二本の角だった。


 伊織の体は、青と緑の模様を持った巨躯の鬼となった。


 巨大な蟹の怪物は伊織の変化を危険と察知したのか、ハサミを振り上げると、目にも止まらない速さで振り下ろした。


 しかし、ハサミは地面をえぐるだけで、鬼の姿の伊織を捉えることはできていなかった。


「ヤァ」


 伊織が掛け声とともに蹴りを怪物に叩きこんだ。それは物理的な衝撃に加えて電撃を相手に与えた。そのとてつもない衝撃によって怪物の硬い甲殻にひびが入り、怪物の体は吹き飛んだ。


 蹴りを入れた伊織の背後に、もう一体の蟹怪物が二本の巨大なハサミを同時に振り下ろした。


 後ろに目がついているのだろうか。伊織はそれも見事にかわし、蟹の怪物の側面に移動した。


 そう、彼は周囲に僅かな電気を流すことで、視覚が捉えずとも、怪物たちの動きを感じることができるのだ。故に、一体目に蹴りを入れる前から、もう一体が自分を狙っていることに気付いていた。


「シャッ」


 伊織は跳躍すると、足を高く振り上げた。


「テリヤ」


 そして、怪物の顔と思しき部分にかかと落としを喰らわせた。


 本来の蟹であれば目がある部分にはイソギンチャクのような触手がぬらぬらと蠢いていた。その不気味な部位は伊織のかかと落としで見るも無残な形になっていた。


 この一撃で怪物は沈黙し、その場に突っ伏した。


 伊織は近くに降り立つと、怪物の次の動きを警戒し、構えた。しかし、怪物は動かなくなるどころか、体から黒い塵のようなものが出てくると、みるみる小さくなっていった。


 倒したのか。


 見渡すと、吹き飛ばしたもう一体は影も形もなくなっていた。どうやら、怪物たちは塵となって消えてしまったようだ。


 どうにかなったと思い、伊織は「ふー」と息を吐いた。そして、気を落ち着けると、周囲を見渡した。


 すると、彼の背後にショートヘアーの女性が立っていた。直感的に、先ほどの声の主は彼女だと思えた。


「あの、これは」


「説明は後で、これからあちらに向かいなさい。そして、燕谷力弥と協力し、もう一人の敵を倒してください」


 女性は南口の方角を指さしながら言った。一方、伊織は力弥の名前が唐突に出てきたことで、面食らってしまい、茫然としてしまった。しかし、そんな彼にこの女性は容赦がない。


「急いで。斗星暁人も危険です」


 暁人の名前も出てきたことで、伊織は益々混乱しそうになったが、彼が危険だと知り、考えることを止めた。


 そして、深く頷くと、高く飛び上がり、駅の方角に向かった。その間、伊織は気付いていないが、周囲の人々は意識がないような遠い目をして、ただ佇んでいた。


 駅舎を越え、南口周辺に降り立つと、周囲が白くなっていることに気が付いた。寒気を感じ、この白いものが氷であるとすぐに分かった。


 伊織は周囲を見渡し、より冷気の強い方向へ向かった。すると、そこには動く者たちがいた。


 しかし、暁人の姿は確認できたものの、力弥らしき人物はいなかった。暁人以外には、黒と赤の姿をした人物と白い仮面と外套の人物しかいない。そのどちらも人には見えなかった。


 今まさに、仮面の人物が巨大な氷の塊を振り下ろそうとしていた。


 伊織はどちらかが力弥なのかと思ったが、とにかくこの戦いを止めようと思った。しかし、仮面の人物の氷が消え、やがてその者は姿を消した。


 伊織は助けようとしたものの、その必要がなくなり、手持無沙汰にその場に立ち尽くした。


「『解除』と言いなさい。変身が解けます」


 いつの間にか伊織の右隣りに例の女性がいた。神出鬼没だなぁと思いつつ、伊織は頷いてみせた。


「解除」


 すると、彼の姿は元に戻っていった。そして、伊織は右腕の腕輪を見ようとしたが、それはなくなっていた。


「今回は緊急的な処置で、力は一時的に貸しただけです」


 女性はそう言うと、立ち去っていった。


 伊織は立ち去る女性の姿を眺めつつ、結局説明してくれなかったと心の中でぼやいていた。


 そして、視線を戻すと、そこには力弥の姿もあった。どうやら、赤と黒の人物は力弥だったようだ。彼はその場に跪き、辛そうにしていた。


 伊織は暁人と力弥のもとに駆け寄ると、「手伝います」と言って、力弥が立ち上がるのを手伝った。


「伊織・・・」


 当然だが、力弥は驚いていた。


「うっす」


「どうして?」


 暁人も同様だった。しかし、何と答えたらいいか分からず、とりあえず「えっと、何か辛そうっすから」と答えた。何となく、変身したことや謎の女性のことを話すのは憚られた。


 その後、力弥の体力が戻るのを待って、伊織は帰宅することにした。剣一の所在はつかめなかったものの、次の機会には彼が何をしているのかを突き止めようと考えた。

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