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第六十一話 新島真吾

「鹿森先生、この間、H本駅で男の人と一緒だったでしょー」


 鹿森の担当生徒の一人がそう言っているのが聞こえてしまった。


 この塾では個別指導の形態をとっており、各生徒は仕切りで区切られた座席についていて、講師は通路に丸椅子を置いて、担当生徒に指導を行う。一人の講師が三人から四人程度の生徒を受け持っている。


 この日、真吾は鹿森と場所が近く、生徒との会話がたまたま耳に入ってしまった。


「今は授業中だから、そういう話はダメ」


 鹿森は窘めているが、中学二年の女子学生であれば、色恋沙汰にも興味が湧いてくるというものだ。真吾は中三の男子生徒に英語を教えながら、鹿森と生徒の会話の断片を聞こうとしていた。


「ええっと、これは関係代名詞のwhoだから・・・」


「先生、その行の説明は二度目っすよ」


「ああ、ごめん。ええっと、だから、こっちの行だね」


 鹿森の方に意識が行ってしまい、長文問題の解説で同じ行を説明するというポカを真吾はしていた。流石に、集中せねばと思い直すも、やはり、鹿森に男性の影があることが気になって仕方ない。


「身長高くて、カッコいい人だったよね。何してたのー? デート?」


「何にも答えませーん」


「えーケチー、教えてよー」


「じゃあ、この問題が解けたら、一つだけ質問に答えてあげよう」


「よし、分かった」


 二人の会話を盗み聞いていた真吾は心の中で、数学を教わっているその中二女子にエールを送った。彼女が頑張れば、鹿森に彼氏がいるのかどうかが分かる。彼氏でないなら、自分にもワンチャンあるはず。


「よし、じゃあ、説明の続きをするよ。ここは関係代名詞のwhoだから~」


「だからーじゃないっすよ。先生、そこの説明は三度目です」


「あーあー、ごめん。ええっと・・・」


 真吾は集中できていなかったので、どう説明すべきかが頭から飛んでいた。


「最初からやり直していいかな?」


 その後、真吾は改めて説明をし直すことで、どうにか生徒に対する信頼を取り戻せたが、鹿森が指導している生徒との会話を聞き逃してしまった。


 真吾はがっくりと肩を落としたが、次のコマではその生徒の国語を自分が担当することになっていた。これは聞き出すチャンスだと考えたが、ダイレクトに聞いてしまうと、鹿森への下心がバレてしまう。


 そうだと気付かれないように聞き出せねばと真吾は教材の準備をしながら、心に留めた。


「鈴木さん、こんにちわ。宿題はやってきましたか?」


 鹿森にあれこれ聞いていた生徒にいつも通りの調子で話しかけた。


「やってきたよー」


 鈴木という生徒はバッグから教材を取り出すと、真吾に広げてみせた。真吾は答え合わせをしていき、間違えたところを指摘すると、今日の指導内容に取り掛かった。


 いきなり聞き出しては怪しまれる。授業の合間に、それとなく聞くことにしよう。


 他の生徒にやや難しい問題を与え、それを解くために長めに時間を与えた。この間に、鈴木からさっきの話を真吾は聞き出そうと考えた。


「そういえば、さっき、鹿森先生と盛り上がっていたけど、何の話をしていたの?」


 当然知っているが、知らないふりをして聞いてみた。


「え、シンゴ君も鹿森先生の彼氏が気になる系?」


 ちなみに、童顔の真吾は一部の中学生からシンゴ君と呼ばれている。良い言い方をすれば親しみを込めて、悪い言い方をすればなめられている。


「彼氏じゃありません!」


 隣にいた鹿森から反論が飛んできた。ボリュームを落として聞いていたが、聞こえていたらしい。


「彼氏じゃないって」


 真吾がそう言うと、鈴木はジーっと真吾の顔を見つめた。


「え、何?」


「シンゴ君、何、ニヤニヤしてるのー」


「ニヤニヤなんてしてないよ」


 嘘である。気付かないうちに真吾の顔はにやけていた。


「まぁ、鹿森先生綺麗だしね、分かるよ」


 鈴木はうんうんと頷きながら、真吾の肩を叩いた。


「いやいやいや」


「でも、鹿森先生のことは諦めた方が良いよ。どう見ても、あれは彼氏さんだったから」


 鹿森から反論が返ってこない。離れた席で生徒に解説をしている。彼女のリアクションを見たい気もしたが、見るのも怖い気もしてきた。


「そ、そうなの? どんな感じだった?」


 思わず聞いてしまった。恥も外聞もない。


「どうって、どう見ても、お互いに相思相愛って感じ? 鹿森先生は楽しそうにしてたし、相手の男の人も笑ってたよ。あーでも、しばらく後をつけていたら、他の男の人も来て、三人で行動してたね」


「それって、デートじゃないんじゃない?」


「うーん、でも、もう一人の人が合流するまで三十分以上も一緒だったし。三人で集合するのにかこつけて、先に二人だけで会っていたとも取れない?」


 三十分以上もストーカーしていた彼女を窘めるべきだろうが、一体、どういう関係なんだと真吾は頭を悩ませつつあった。


「うーん」と真吾がうなっていると、鈴木が覗き込んできた。


「シンゴ君、授業、やらなくていいの?」


「あ、ああ、そうだね。じゃあ、次はこの問題を解いてみてください」




 授業が終わり、真吾は先ほどの鈴木の話を思い出しては、ダラダラと片づけをしていた。どことなく胸の中に黒いわだかまりのようなものがある。


 やはり、彼氏なのか。


 いや、鹿森さんは否定していたし、やっぱり彼氏じゃないのか。


 楽しそうに会っていたというし、恋人同士と思った方が良いのではないか。


 生徒の前であまりプライベートな話をしてはいけないから、否定をしたとも取れる。


 だけど、飲み会で彼氏がいないと言っていたことの説明がつかない。


「お疲れ様です」


 真吾がちんたらしている間に、鹿森は仕事を終え、教室を出ていった。黒いわだかまりは胸から脳に至り、教室を出ていく彼女を見送る真吾の頭の中にはとある考えが浮かんでいた。


 鹿森が彼氏じゃないと言うなら、それが正しいのだ。


 きっと、鹿森はあの男に付き纏われていてるんだ。


 何か、弱みを握られて、それで仕方なく一緒にいるのではないか。


 そうだ、そうに違いない。


 本当は、彼女は自分といたいと思っているはずだ。


 それをあの男が邪魔しているんだ。


 黒い何かが真吾の体全体を支配していく。


 真吾の手の動きが早くなる。的確に仕事をこなしているわけではない。ただ、唐突に頭の中に浮かんだ偏狭な考えに囚われ、自動書記のように手が動いている。


 書かれている文字に意味があるのかないのか、それは彼自身にも分からない。


 書くべき欄を埋め、ファイルを戻すと、機械的な動きで帰り支度を整えると、すたすたと教室の出入り口に向かった。


「お疲れ様です」


 同僚や教室長が呼び止めようとしたが、彼の耳には何も入ってこなかった。目は見開かれ、まっすぐに前だけを見据えて、歩いている。意思のないロボットのような動きは、道行く人をしり込みさせるほどに不気味だった。


 塾の入っているビルを出るも、鹿森の姿はなかった。既に駅に入って電車に乗ってしまったのだろう。


 H本駅にいるらしい。


 日曜にバイトのシフトは入っていない。


 待ち伏せしよう。彼女もきっと喜ぶ。


 無表情だった顔が急にニタニタと笑いだした。そんな彼を周囲の人々は避けるも、今の真吾にはそれすらも気付かずにいた。

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