第六話 記憶と記録
騒動から逃れるように二人は電車に乗った駅の方へ戻ることにした。途中にファミレスなどはあったが、駅の近くまで歩こうという話になり、駅の南側にあるショッピングモールに入った。
ショッピングモールの一階にはフードコートがあり、たくさんの椅子と机が並んでいる。所々に自分たちと同様に勉強している学生の姿が見られる。力弥と明星は適当なテーブルに陣取ることにした。
「あー疲れた」
力弥はスクールバッグをテーブルに置くと、そこに突っ伏した。駅前からここまでは2キロメートルはあった。とはいえ、本当にそこまで疲れているわけではない。力弥とは対照的に明星は筆入れと参考書とノートをバッグから出していた。
「真面目か」
「いや、勉強しに来たんだろ」
力弥の軽口に明星は呆れたような視線を返した。すると「冗談だよ」と力弥はクスリと笑うと、彼もバッグから勉強道具を取り出して、席の前に広げた。その時、彼の視界に大手ドーナツチェーン店が入った。
「なぁ、ドーナツ食いたくねぇ?」
明星は振り返って、力弥の視線の先のドーナツ屋を見た。一仕事を終えた後だ、甘いものが欲しいと明星は思っていたので、力弥の提案は渡りに船だった。しかも、秋の新作が出ている。これはすぐにでもあの店に行きたい。
「うん。いいよ」
そんな内心とは裏腹に明星は何でもないような態度で答えた。二人は揃って席を立ち、財布とスマホを持つとドーナツ屋に向かった。力弥はどことなく明星が嬉しそうに自分の前を歩いているように見えた。もしかして甘いものが好きなのか。そんなことを思いながら、ドーナツ屋の列に並んだ。
*
甘いものとコーヒーのおかげで勉強は捗った。数学の参考書が随分と進んだように見える。とはいえ、今日は定積分の基本的な練習問題ばかりだ。もう少し難しい応用問題を解きたいなぁと勇輝は思った。
大学受験勉強がどれだけ自分に意味があるのかを勇輝は疑問に感じつつも、問題を解くという行為自体は好きだった。特に数学や物理は様々な知識と問題文に組み込まれた手がかりをもとに解答を導く過程は推理小説の謎解きのようだと思っている。
「なぁ、ちょっと聞いていい?」
燕谷が片手で頭をかきながら、勇輝の方を見た。
「うん、数学?」
「そ、ここの問題、何でこうなるか分かんないんだけど」
燕谷は参考書の問題文とその解説部分を勇輝に見せた。ちょうど、勇輝も同じようなところをやっていた。少し分かりにくいが解法は大体同じ感じになるだろう。
「ここはさ、積分の公式でさ、この式の形になるように置換するんだよ」
「うーん、そっか。公式に当てはめるように考えた方が早いのか」
そう言って燕谷はノートに自分で計算をし始めた。そうして、計算し終わり、解答が正しいことを確認すると、アイスコーヒーを手に取って一息ついた。勇輝も残しておいたドーナツを頬張った。
「そういえばさ」
燕谷はストローでコーヒーを飲みつつ勇輝に声をかけた。
「何?」
勇輝はドーナツを飲み込むと、彼もストローでアイスカフェラテを口に含んだ。
「お前、彼女とかいないの?」
口に入れようとしたカフェラテが逆流してコップに流れ込んで、勇輝は盛大に噴き出した。そして、勇輝は赤面しながらむせ返った。
「え? 何その、反応?」
燕谷がストローを銜えながらニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「片思いとか?」
そう言いながら、燕谷はせき込む勇輝の顔を覗き込んだ。
「いねぇよ、バカ」
そう言いながら、勇輝は紙ナプキンで口の周りを吹いた。燕谷はからかいがいがあるなぁという表情で勇輝を見ている。そんな彼の顔を忌々しげに勇輝は睨み返すと、反撃とばかりに言い返した。
「そういうお前はいないのかよ」
「うーん、今はいないかなぁ」
切り返し方が妙にこなれている上に余裕のある態度に勇輝は心の中で舌打ちをした。しかも、『今は』ということは、かつてはいたけど今はいないということだ。いたことあるのかよとも思った。
「いたってことは、別れたの?」
勇輝は反撃するつもりで、少し意地悪なことを聞いてみた。すると、燕谷は軽口で返してくるかと思いきや、少し寂しそうに答えた。
「まぁ、告られたから何となく付き合ったけど、気が付いたらフラれてたわ」
字面だけ見ればモテ男の自慢話のようにも思えるが、燕谷の少し影のある表情と寂しそうな声を前にすると、勇輝もつられてしんみりしそうになった。
「なんか、ごめん」
「なんでお前が謝ってんだよ」
そう言って燕谷は誤魔化すように朗らかに笑った。すでに日は落ち、フードコートを囲むガラス張りの向こうは闇に包まれていた。勇輝が燕谷を見つめると、まるで外の闇に彼が包まれているように見えた。
勇輝は燕谷がクラスで見せる明るくて誰とも仲良くなれる太陽みたいなやつだと思っていたが、一方で誰にも気付かれていない影のような部分があるのだろうかと感じるようになった。燕谷のことを知るほどに、知らないことが増えていく。
*
「神奈川県のS市の駅前広場にて大規模な爆発事故がありました。本日午後四時ごろ、神奈川県S市S駅の駅前広場にて複数の爆発が起きたと駅利用者が証言しており、県警では事件と事故の両面から捜査を開始したとのことです」
力弥は明星との勉強を終え自宅に帰ると、家族がテレビで報道番組を見ていた。力弥はその番組内で夕方の事件の報道がされていることに気が付いた。
当然だが、怪物が暴れていたなどとは報道されていない。あれは何かが爆発したということになっているらしい。車の入れない場所だし、交通事故以外で誤魔化すしかないよなと思いながらテレビを眺めていた。
この先も、大きな戦闘があってもこうして事件や事故として片付けられるのかと思うと、どことなく寂しい気がした。それは自分たちだけが違う世界にいて、今ここにいる両親ですらも異世界人のように思えるからだ。
力弥は遅めの夕食を済ませて自室に入ると、ベッドに横になった。夕方の決意がすでに揺るぎそうになっていた。明星はこんな思いをどれだけ続けてきたのだろうと、明星の心中に思いを馳せた。
しかし、明星について考えても、フードコートでのやり取りを思い出して、クスリと笑ってしまった。まだまだあいつのことを知らないんだなと力弥の思考は広がらず、自分の胸の上に小さくわだかまっていた。
次の日、力弥が学校に登校すると、正門に入ったあたりから注目の的だった。何かやらかしただろうかと力弥は不思議に思いつつも教室に入ると、クラスメイト全員からの視線を集め、それはまるで英雄の凱旋のようだ。
教室に入ってきた力弥に最初に駆け寄って来たのは祐介だった。祐介は力弥に自身のスマホの画面を見せた。そこには子供を庇っている自分の写真があった。「これ、リッキーだろ?」と祐介は確信したように力弥に尋ねた。
怪物たちの記録は一切残されていないが、力弥が子供を庇っているところはしっかり写真に残っていた。どうやらあの場にいた誰かが写真を撮って、SNSにでも投稿したのだろう。自分の顔ははっきりとは写っていないが、クラスメイトが見ればそれが力弥であることは一目瞭然だった。
「リッキーカッコいいじゃん」
「めっちゃバズってるよ」
「まるでヒーローだよね」
クラスメイトは口々に力弥を褒め称えた。俺がヒーローだって?違う。俺はヒーローじゃない。ヒーローは、力弥は教室の隅に目をやった。明星は自席にて興味がないような表情で外を眺めている。
力弥は自分に注がれるクラスメイトからの賞賛の声が鋭い刃のように感じられ、それらの言葉が発せられるたびに、力弥の心はずたずたに切り裂かれた。それは明星への裏切りのように思えた。
この賞賛の声は自分がもらっていいものじゃない。
これは、あいつが、明星が本来受け取るものだ。
どうして、どうしてみんな分からないんだ。
あいつが、自分の身を顧みずに、俺とあの男の子を守ってくれたのに、どうして。
「どうしたリッキー。流石に照れくさいか」
狼狽している力弥をよそにクラスメイトは益々力弥を持ち上げていく。ホームルームが始まると、クラス担任の高瀬までが力弥が子供を庇った英雄だとクラス中に喧伝していった。この熱は収まらない。自分ではどうしようもないと力弥は諦めた。
「いやいや、そんな大したことじゃないよ。気が付いたら足が動いてたんですよ」
そう言って力弥はいつものムードメーカーの仮面を被った。そして、皆を満足させようと事実とは異なる英雄譚をクラスメイトに語っていった。できるだけ、明星の方を見ないように、彼の顔を見たら、今の自分の仮面が剥がれ落ちそうだから。
まるでピエロだな。
必死に笑顔を作り、皆の期待に応える自分の姿は滑稽だった。明星はそんな自分のことをどんな目で見ているのだろうか。卑しいやつだと思っているのだろうか。嘘をついてまで注目されたいと思われているのか。そんなつもりはないのに、こうするしかなかった。
泣けるものなら、泣きたかった。
*
別に悲しくもないし、悔しくもない。そういう感情は随分前に捨ててきた。勇輝は学校の中庭のベンチに腰掛けると空をぼんやり眺めた。燕谷は勇輝の顔を見るたびに辛そうにしていた。彼のそんな顔を見たくなくて、勇輝はここに来た。
二つの校舎に挟まれた空間が中庭となっている。植え込みに様々な木々が植えられ、緑に溢れている。そして、所々にベンチが用意され、生徒たちが互いに語らったり、食事をしたり、本を読むなど思い思いの過ごし方ができる。
昼休みの中庭にはちらほらと生徒たちが屋外でのランチを楽しむ姿が見られる。勇輝も弁当を食べ終え、本を読もうとしたが、先ほどの燕谷の顔が頭の中にちらついて本を読む気がなくなっていた。
どうしてだろう。そういう感情は置いてきたつもりなのに、燕谷が悲しそうにしていると自分の胸がモヤモヤする。彼が子供を庇ったのは事実だ。あんなに悲しそうな顔をすることないじゃないかと勇輝は思った。しかし燕谷は納得してないんだろう。ああ見えて、あいつは真面目だからな、多分。
勇輝はまた一つ燕谷の知らない部分に気が付いた。でも、直感的に彼が真面目で熱意に溢れていることには確信めいたものがあった。そうでなければ、あんな顔はしないだろと勇輝は一人で納得していた。
すると、燕谷が渡り廊下の方から自分に近付いていることに勇輝は気が付いた。そして、何も言わずに燕谷は勇輝の隣に座ると、一言「ごめん」と声をかけてきた。その声は静かに暗く悲しげなトーンだった。
「何が?」
勇輝は何でもないかのように返事をすると、本を開いて読むふりをした。
「お前が褒められるべきだったのに、俺が、その、それを奪ったから」
燕谷の声は段々と小さくなった。自分でもどうしようもないと分かっているのだ。それでも彼は勇輝に謝るべきだと思ったのだろう。真面目なやつだなと勇輝はほくそ笑んだ。
「お前が気にすることじゃないし、俺も慣れてるし」
自分にとって何でもないことだと分かれば燕谷も納得すると思った。しかし、それは逆効果だった。
「そんなのおかしいだろ」
燕谷は怒ったような顔をして勇輝に迫ってきた。
「あんなデカいのを二体も同時に相手して、殴られたり、踏んづけられたり、挙句の果てには食べられたりされて、何でもないなんてことはないだろ。怪我だってしてたし」
燕谷はここまで一気に喋り散らすと、他の生徒たちがこちらを見ていることに気付いた。周囲を気にして少し冷静になり声のトーンを落とした。
「かすり傷だよ。ほら、もうほとんど治っている。これもこの力のおかげだよ」
「だとしても、怪我は怪我だ」
声のトーンは押さえているが、言葉には力強さがある。
「お前にとって何でもないことでも、俺にとっては凄いことだったんだよ」
勇輝は何て言ってあげたら良いか分からなかった。こういうときに口下手の自分が憎らしかった。誰かのために怒ったり、悲しんだりして、それを口に出せるなんて、こいつは凄いなとも思った。
「俺はあんなになれなかった。デカいあれを前にして、俺は動けなかった。お前みたいにはなれなかった」
「仕方ないよ。俺は力を持っているから、あの程度じゃ死なないけど、お前は生身の体だから、あいつらに殴られたら死んじゃう」
勇輝は読んでもいない本を閉じて、勇気を出して燕谷を見つめた。
「俺に言わせてみれば、お前の方が凄いよ。生身の体であいつらの前に出て、子供を守って。皆が言うようにお前はヒーローなんだよ」
燕谷は申し訳ないような、それでいて嬉しいような不思議な顔をしていた。それでも自分ではなく勇輝が称えられるべきだと改めて燕谷は思い直した。
「だけど、明星、お前はどんなに頑張っても、誰も覚えてないし、写真すら残っていない。それはやっぱり寂しいよ」
「それは違う」
勇輝は立ち上がると、燕谷の方に体を向けた。
「お前が覚えていてくれるだろ」
勇輝は自然と笑顔だった。屈託のない笑顔が燕谷に向けられた。勇輝は自分の中の思いを口に出そうとした結果、何だか晴れやかな気分になって燕谷に笑いかけていた。自分の思いを口にするのは気持ちの良いことだった。
「誰の記憶にも残らずどこにも記録されないとしても、お前だけは覚えていてくれる。そうして俺の生きた証をお前が持ち続けていてくれれば、それで良いんだよ」
「・・・そうか」
「だから、言わせてくれ、燕谷。覚えていてくれて、ありがとう」
さすがに最後は照れくさくて、声が小さくなっていた。ずっと勇輝にとって、この世界は異世界だった。誰も自分を覚えていない。力を尽くしても、その証は残されていない。それは自分だけが異世界に来ているような感覚だった。
でも、今は違う。自分を知っていてくれる奴がいる。しかもそいつは自分の代わりに世界の理不尽に怒ってくれる、嘆いてくれる。これ以上に嬉しいことがあるだろうか。この気持ちの全てを言葉にすることはできないが、精一杯伝えたつもりだ。
すると、泣きそうな顔をした燕谷も立ち上がった。身長差があるので、目の前で立ち上がると少々面食らうなと勇輝は少し後ずさった。
「俺の方こそ、ありがとう!」
そう言って燕谷が唐突に抱き付いてきた。何をされているのか分からなくて勇輝は狼狽して混乱した。それでも抱き付かれていることは分かったので、勇輝は必死に抵抗をした。
「やめろ、抱き付くな、気持ち悪いだろ。ほら、みんな見てるから、離れろよ」
勇輝は燕谷を引きはがそうとするが、勇輝よりも体格の大きい燕谷から逃れるには変身するより他にない。変身するわけにもいかないので、ただそうやって、中庭の生徒たちからの好奇な視線に赤面しながらわめいているしかなかった。
*
力弥は高校三年間クラス担任が高瀬だった。流石に三年生になった際にその点を高瀬に抗議したが、まったくの偶然とのことだった。そのため、力弥は高瀬と仲が良いというより、生徒と教師の関係にしては馴れ馴れしい。
一応は『先生』と高瀬のことを呼ぶが、基本的には高瀬と接している際の力弥には緊張感がない。むしろ、かなり侮っている。嘗められるのは教師としてどうかと思うが、高瀬側にも都合が良いこともある。それは雑務を任せやすいということだ。
力弥は高瀬から物理の実験ノートをクラス全員分から集めて、物理実験室まで持ってくるように高瀬に指示された。クラスのことはクラス委員が取り仕切るが、それ以外のこうした雑務はほぼ力弥に回ってくる。
力弥はF組全員のノートを回収すると、物理実験室まで運んだ。教室から物理実験室までの途中で中庭を望む渡り廊下を歩くことになる。何とはなしに中庭を眺めているとベンチに見慣れた顔がいた。明星だ。ベンチに座っている彼の正面には他に誰かいて、楽しげに会話をしている。
これはレアだ。
渡り廊下の柱の陰から力弥は明星とその対面にいる女子生徒のやり取りを覗き見た。教室では端っこで本を読んでいるか、ぼうっとしているだけの明星が誰かと楽しそうに話していることなんて見たことなかった。
何の話をしているのだろう。そう思って、渡り廊下から少しずつ中庭の方に入っていく。できるだけ気付かれないよう、中庭の木に身を隠しながら。だが、体格の良い力弥は木の陰に隠れているつもりでも隠しきれておらず、どう見ても目立つのだ。
ただ、本人はそんなことを気にする様子もなく、少しずつ明星と謎の女子に近付こうとしている。この時の彼は近付けば明星に見つかるというリスクが頭になく、ただ何を楽しそうに話しているのかが気になっていた。
じりじりと近付いて、やがて二人の笑い声が聞こえるレベルまで近づいてきた。あと少しで会話内容が聞けるぞと力弥はいやらしく右の口角を引き上げながらまた一歩二人のもとに近付いた。すると、後ろから声が聞こえた。
「燕谷、野暮なことやってないで、早くノートを持ってこい」
力弥が後ろを振り向くと、そこには高瀬が立っていた。しかも、力弥の思惑が筒抜けの上に、窘められるというみっともないことこの上ない状況だった。力弥は両手に持っているノートを見せながらひきつった笑いを見せた。
「いやー、今運んでいる途中じゃないですか」
「出歯亀してたじゃないか」
「なんすか?それ」
「まぁ、いいや。ともかく、楽しそうにしている二人を邪魔しようとしないでさっさとノートを持ってこい」
そう言って高瀬は力弥の制服の後襟をつかむと、渡り廊下の方に引き戻そうとした。
「いや、先生、あと少しだけお願いします」
「ダメだ。早くしろ」
力弥と高瀬のやり取りにさすがに明星たちも気が付いた。そして、明星は力弥がいたことに気が付くと「げっ」と思わず声が出て、ジトっとした目つきで力弥の方を軽く睨んだ。そして、「見られてしまった」と誰にも聞こえないような声量で呟いた。
明星に気付かれたことで力弥はバツが悪そうに苦笑いをしながら、高瀬に引きずられていった。まぁ、そもそも中庭で堂々と話をしておいて、バレることをどうこう言うのもどうかと明星は思い直した。
*
「明星君の友達?」
勇輝と話をしていた女子生徒、藤鳥結衣がそう聞くと勇輝は改めて燕谷との関係を考えた。友達は友達なのだろうけど、それだけではないような気もした。彼との付き合いは長くはないけれど、他の言い方がある気がした。
「まぁね。同じクラスの奴だよ」
その場はそう答えておくにとどめた。
「F組だよね。そういえば、あの人、見たことあるかも」
「あいつ、目立つからね」
藤鳥はスマホの画面に表示されている時計を確認した。
「じゃあ、今日は予備校あるから帰るね」
「さっき話した本は明日持ってくるよ」
「うん、じゃあお昼に借りに行くね」
そう言って、藤鳥は手を振って正門の方へ向かった。勇輝も軽く微笑みながら彼女を見送った。そして、燕谷に見つかる前に帰ろうとベンチから立ち上がるが、背後に気配を感じて足が止まった。
「明星クン、今の子は誰ですかー?」
燕谷の声だった。いつの間に背後に立ってんだよ、こいつは。しかもさっきのノートを物理実験室まで運んで、もう戻って来たのかよ、と冷静に彼の行動を分析して、勇輝は戦慄した。はっきり言って今は話したくなかったので、逃げようとした。
しかし、肩をがっしり掴まれて動けなかった。身長差があるので、こうして肩を掴まれ体重を掛けられると身動きが取れない。定期的に燕谷との身長差を勇輝は苦々しく思った。今から身長が十五センチ伸びる方法はないものか。
「離せよ、お前には関係ないだろ」
「いいじゃん、俺とお前の仲だろ」
「どんな仲だよ」
「うーん、そう言えば俺たちの関係ってなんて言ったらいいんだろ」
燕谷が考え事を始めたことで彼の押さえる力が弱まった。今がチャンスと言わんばかりに勇輝は抜け出そうとしたが、今度は後襟を掴まれていた。制服が破けるのを恐れた勇輝は止まらざるを得なかった。まるでいたずらをして飼い主に首根っこを掴まれた飼い猫のようだった。
「まぁまぁ、座ろうぜ」
そう言って燕谷は勇輝を強引に座らせると、その隣にドカッと座った。燕谷はニヤニヤと満面の笑顔で勇輝の横顔を眺めている。勇輝はどうにもバツが悪いなぁという顔で正面に視線を送った。背中には徐々に汗をかきつつあった。
「で、さっきの子は彼女?」
「いや、彼女とかそんなんじゃないよ」
まさかの問いかけに勇輝は赤面せずにはいられなかった。
「なんだ、違うのか。で、結局、彼女はどなた様?」
勇輝は黙った。ここは黙秘だ。言わなければバレないという浅はかな判断をした。少し考えれば分かることだが、顔の広い燕谷が聞き込みをすればさっきの女子が何組の誰なのかは簡単に割れてしまう。
「ふーん、言わない気なんだ」
燕谷はつまらなそうな顔をするが、すぐに何かを思いついた。
「それならさ。明星、明日は一緒に昼飯食おうぜ、ここで」
勇輝は燕谷の言わんとしていることが分からず、彼の方に顔を向けた。何で唐突にそんな話になっているんだ。意図が読めないが、このことは黙っていれば問題ないのだから、昼食を一緒に取るくらいは構わないだろうと判断した。
「まぁ、いいよ」
勇輝が了承すると、燕谷は再びニヤニヤとしたいやらしい笑顔に戻った。何かまずいことを言っただろうかと勇輝は思ったが、勇輝は自分の判断ミスに気付くことはなかったのだ、この時は。
次の日の昼休みになると、勇輝は二つの約束がブッキングしていることに気付いた。一つは燕谷との昼食の約束、もう一つは藤鳥に本を貸す約束。勇輝は机の上に弁当と本を出して愕然とした。明日、本を貸すことを聞かれていたのかと、そして昼休みを一緒に過ごすことで藤鳥との仲を知ろうということか。
「明星クン、飯に行こうぜー」
今更気が付いたのかと今にも声を出して笑いそうな笑顔で燕谷が勇輝の横に立っていた。二つの約束を覚えていたのに、独立したものと思い込んでいた。勇輝は観念して、燕谷と一緒に中庭に向かった。中庭に着くと、燕谷は中庭全体を見渡した。
「あれ、お前の彼女はまだ来てないじゃん」
「だから、彼女じゃない」
二人は一つだけ空いているベンチがあったので、そこに並んで腰かけた。二人は食事をしながら、学校の授業のことや受験勉強のことなどごくありふれた高校生らしい会話をしていた。二人が食事を済ませた頃に藤鳥が中庭に姿を見せた。
「お、お前の彼女来たぞ」
燕谷がそう言うと、もはや勇輝は彼の言葉を否定する気も失せていた。そして、燕谷は両手を振って、藤鳥にこちらに来るように促した。当然ながら、彼女は困惑していたが、すぐ横に勇輝が座っているのに気が付くと少し安心したように近付いてきた。
「本を借りに来たけど、お邪魔だったかな」
藤鳥は少し遠慮したように勇輝に尋ねた。
「いいよ。邪魔なのはこいつの方だから」
勇輝がそう言って燕谷を小突くと、燕谷は気を使って立ち上がった。このベンチは三人で腰掛けるには少々窮屈だった。燕谷は立つと藤鳥に座るように促した。彼女は遠慮したが、燕谷も譲らないので結局藤鳥は勇輝の隣に腰掛けた。
「本を借りるだけだから大丈夫なのに」
藤鳥がそう言うと、勇輝はその本を早速取り出した。それはやや厚めの文庫本だ。勇輝はここ最近この作者のシリーズに凝っている。これはその中でも代表作とも言えるもので、勇輝のお気に入りでもある。
*
「これはどういう本なんだ」
外野のはずの力弥が本のタイトルを見ながら明星に聞いた。彼は待ってましたと言わんばかりに本の説明をしだした。
「とある孤島の研究所が舞台なんだけど、この研究所が凄いんだよね。全部コンピュータで管理されていて、音声認識とかあるし、ロボットも出てくるんだ。この本の初版が1998年だから俺らが生まれるよりも前だよね。その時にこういう研究所を舞台にした話を考えるなんて面白いよね。当然、登場人物のパソコンの知識が凄いんだよね。UNIXとか知らない単語も出てくるし、フロッピィディスクってホントに使われていたんだね。実物は見たことないけど、こうして本の中に出てくると、どう使われていたとか想像しちゃんだよね」
明星が一気にまくし立てて話し始めて、力弥は面食らった。こいつこんなにしゃべる奴だったか。隣に座っている藤鳥は慣れた感じで彼の話に聞き入っている。昨日もこんな風に本の話をしていたのか。
「これってジャンル的には何なの?」
「ミステリーだよ」
「ミステリーって、人が殺されたりするやつだろ、そしたら、タイトルも何とか殺人事件とかそんな感じじゃないの」
力弥のミステリーの知識は小学生になってしまった高校生探偵が難事件を解決していく推理漫画止まりだ。本のタイトルからはそうした殺人事件を連想させるフレーズはない。むしろ、どんな内容なのか見当がつかない。
「このタイトルが凄い重要なんだよ。ネタバレになるから言わないけどね。この研究所にいる超天才研究者が殺されてしまうんだけど、そのトリックが壮大というか、俺にもっとパソコンやロボットの知識があったら、もっと楽しめたのかなって思うんだよね。それなりに色んなミステリーを読んできたけど、ロボットが登場するのって珍しいんだよね。しかも、SFみたいな感じでもないし。あと、この本じゃないんだけど、同じシリーズの本の中ではSNSの予知的な話もしていて、さすがにこの本が出た頃にSNSはなかったから、そういうのを話題にできる作者は凄いよ」
止めないとこいつは永遠に話し続けるんじゃないかと力弥は思った。言っていることのほとんどが分からないけど、ネタバレは気を使っているということだけは分かった。流石にミステリーの本を勧めておいて、トリックや犯人を先に言ってしまう奴はいないだろう。
力弥が呆気に取られているのに対して、楽しそうに聞いている藤鳥を見て、彼女は凄いなぁと思った。明星の話が一段落したところで、すかさず力弥は藤鳥さんに「で、今の話、分かったの?」と聞いてしまった。そういえば自己紹介してなかったなと今更気が付いた。
「うーん、ちょっとね」
そう言って藤鳥は微笑んだ。そして、明星から本を受け取ると「ありがとう」と明星に笑いかけた。明星は何だか話し足りないようだが、読んでいない人にあまり言うのはよくないと思って最後に「読んだら感想聞かせて」と付け加えた。
「そういえば、自己紹介してなかったね」
藤鳥は立ち上がると、力弥の方を向いた。
「藤鳥結衣です」
「あ、燕谷力弥です」
明星のマシンガントークで調子を狂わされて、力弥のトークに切れはない。藤鳥は髪を肩にかかる程度まで伸ばして、縁なしの眼鏡をかけている。背は明星より少し低い感じで控えめな雰囲気を感じさせた。
ふと、この二人が並んで歩く姿を力弥は想像した。きっと似合っているだろうな。趣味も合うし、ばっちりだろと考えると、この場にいる自分がどうにも場違いで、この状況を仕組んだ自分の浅はかさに恥ずかしくなった。
一方で明星のことを更に知ることができたことに満足もしていた。普段、言葉少ない彼がこうして好きなことになると饒舌になって、女子と話をしている。やはり、明星も普通の高校生なのだと思えた。
「燕谷君は本とか読まないの」
「漫画しか読まないけど、なんか面白そうじゃん」
話を合わせるために何気なく言っただけだが、今の言葉に明星が目を輝かせながら反応してしまった。明星は立ち上がると、力弥の前に立って熱弁し始めた。さっき話し足りなかった分を取り返そうとしている。
「え、お前も本読む? 漫画は読むんだろ、じゃあさ、原作が漫画のノベライズとかどうかな。推理物なら高校生が主人公のがあるよ。あとは読みやすいミステリーだと猫が主人公の刑事を助けてくれるシリーズもいいと思うよ」
地雷を踏んだことに気が付いた力弥は早々に話を切り上げようと、「分かった。明日持ってきてくれ」と言った。ちょうど、そのタイミングで予鈴がなった。それで明星も少し冷静になり、「うん、分かった」と言った。
そして、三人で揃って校舎の方に歩き出した。藤鳥はA組なので教室は一階、力弥と明星のF組は二階なので、階段のところで別れた。「じゃあね、本ありがとう」と言って、藤鳥は軽く手を振るとA組の教室の方に向かっていった。
力弥と明星は並んで階段を登った。力弥は昼休みのことは悪乗りが過ぎたと思い、謝ろうとした。明星のことを知りたいとはいえ、二人の間に自分がいるのはやはりおかしいだろうと。
「なんか、さっきはごめんな」
「何が?」
明星には力弥が何に謝っているのか分からないようだった。
「いや、普通にお邪魔虫だったろ、俺」
「なんで?お前も本を読みたいんだろ。だったら別にいいよ」
もしかして男女のどうこうってのはこいつの頭にはないのかと半分呆れたような思いで力弥は横にいる明星の顔を見ていた。きっと、好きなことになると他が見えなくなる所謂オタクという奴なのだろう。
階段を登り切ったところで力弥は足を止めた。すると、明星は数歩歩いたところで力弥が止まっていることに気付いて振り返った。力弥はそんな明星の姿を見ながら、彼という人間について考えていた。
とんでもない怪物たちと戦っている一方で、好きなものの前では周りが見えなくなるただの高校生でもある。その両方が明星勇輝を形作っているのだろうと思いつつ、ではブラックドッグの姿は明星に何を与えているのだろうとも思った。
そして寂しさを抱えながらどうして明星は戦い続けているのだろうか。最初は『孤高のヒーロー』という彼のスタンスにカッコよさを感じていた力弥だが、明星の日々を見つめるうちに、変身し続ける彼の心を知りたいとも思うようになった。
「授業始まるぞ」
「ごめん、考え事してたわ」
そう言って力弥は明星に駆け寄ると、彼の肩に手を回して教室に向かった。「暑いから離れろよ」と明星は抗議したが、力弥は気にしなかった。そして、昨日の明星との会話での『俺とお前の仲』について考え始めた。まだ答えはないが、掴めそうなそんな予感がしていた。