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第五十七話 闇が形を成す

 研究室見学のあった日以来、体調が思わしくない。


 授業やその準備、単純な作業などをしている間は気を紛らわせることができるが、部屋で一人になっていると、色々と考え込んでしまう。気持ちが落ち込んでしまい、自分への失望、未来への絶望に押しつぶされそうになる。


 そのため、できるだけ学生と話をしたり、自分で手を動かすなどをして一人で思い悩まないようにしていた。


「お疲れ様です。今日もお邪魔していいっすか?」


「いいよ。今日はM2は就活で、M1は授業で、ラボは人があんまりいないから」


 このところ、力弥は頻繁にラボに顔を出していた。力弥はサーモバンド以外にもラボの研究に関わる製作に関わっている。研究というほどのものではないが、ラボのメンバーと話し合って課題を見つけて、製作するというものだ。


「よく来ているけど、クラブの方はいいのかい?」


「ええ、今はあんまりやることがないんで」


 力弥はそう言って、作業台の彼がよく座る席についた。一年生の頃からいるので、今のM2並みにラボに所属していることになる。中々に長い。


「先生も、体調は大丈夫っすか?」


「ああ、今日は良い方だよ。この分なら、午後の外勤も何とかなりそうだよ」


「良かったです。それで、どこに行くんですか?」


「M沢の近くにある大学だよ。学会の会議があるんだ。オンラインでもいいんだけど、会議の前にラボ見学させてもらうことにしたんだ」


 猪川は力弥に訪れる大学のことや、そこでどんな研究をしているのかなどを一通り語り終えると、作業に戻った。力弥もそれに習い、自分の作業を開始した。


 しばらくは各々が作業する音が実験室内に響き、静かな時間が過ぎた。


 そして、昼を告げる放送が実験室内に流れると、力弥は道具を片付けて、席から立ち上がった。


「じゃあ、自分は午後に授業もあるんで、失礼します」


「うん。お疲れ様」


「お疲れさまでした」


 そう言って力弥が実験室から出ていくと、再び猪川は一人になった。すると、急に不安に陥り、動悸が激しくなる。誰かいた方がましだと考え、居室の方に向かった。すると、授業を終えたM1が戻っていた。


「お昼に行かない?」


 猪川はどうにか言葉を吐き出すと、学生らがこちらを向いた。一瞬、その目が生気のない人形のように見え、自分を軽蔑してるようにも、バカにしているようにも、あるいは猪川のことを道端に落ちている棒を見ているようにも思えた。


 そう感じられた瞬間、再び動悸が激しくなり、背中に汗をかいていた。


「ど、どうかな?」


 不安を拭い去るように、言葉を重ねた。


「いいですよ。食堂ですよね?」


 誰かがそう言った瞬間、学生らの顔に生気が宿ったように見え、いつもの風景に戻っていた。


 き、気のせいか。


 猪川は大きく息を吐くと、「じゃあ、財布取ってくるね」と言って自席に向かっていった。そして、誰にも悟られないように大きく深呼吸をすると、廊下に集まっている学生らの元へ戻っていった。


 午後の用事を済ませると、会議のために大学を出た。


 M沢駅へはH本駅まで行って、そこから乗り換える。研究室見学と会議が終わると夜になってしまうので、猪川はそのまま直帰できるように荷物を一通り持って大学を出た。


 昼に見た一瞬の幻覚のせいで体調が芳しくなかったが、出歩けないほどではなかったので、予定通りに出かけることにした。学生らには顔色が悪いと心配されたが、多少なりとも無理をしないといけないとも猪川は考えていた。


 今、無理にでもやらなければ次がない。


 言いようのない焦燥感が猪川の背後には常に迫っていた。


 それが彼の行動原理の大半を占めていた。そうは言っても倒れてしまえば意味がない、どこかで引き返そうとも思っているが、引き際が分からないギャンブラーのような様相を呈していることに猪川自身全く気付いていない。


 帰宅ラッシュ前ということもあり、電車内は空いており、座ることができた。猪川は大きく息を吐きつつ、席に座ると、背もたれに体重をかけてリラックスをした。こうしていると、多少気分が良くなっていく気がする。


 シートにもたれながら、それとなく車窓から街の様子を見ている。住宅地や商店が並ぶ景色から工場などの大きな建物が目に入ってきた。そろそろH本駅が近い。


 猪川は立ち上がり、電車のドアの前に立った。


 次の瞬間、目の前が真っ暗になった。


 いや、猪川にそう見えているだけで、彼の周囲に特に異変は起きていない。猪川は視界に黒い靄がかかったような状態になると同時に、気分がこれまでで最悪の状態になった。


 それでも、電車のドアが開くとどうにか電車から降り、よたよたとした足取りでエスカレーターに乗った。手すりにもたれながら、どうにかして改札階に辿り着くと、トイレの方に向かった。


 明かりのない夜の中を歩いているような感覚。


 そして、侮蔑したような視線を猪川は感じていた。


 周りの人間は生気のない人形のように見え、そこからは自分を軽んじているような視線、憐れむような視線、路傍の石を見るような視線。あらゆる視線に晒されながら、見られることを恥じるように猪川はトイレの中に駆け込んだ。


 もちろん、そんな人間はいない。


 むしろ、足取りがおぼつかず、顔色の悪い彼を誰もが心配していた。中には駅員に相談している者もいた。


 乗客に声をかけられた駅員の一人が、駅員室から出て、トイレに向かった。トイレの中には小を済ませている客や手を洗っている客はいるが、特に具合が悪いように見えなかった。


 そこで、駅員は個室の方に目を向けると、一つだけドアが閉じられている個室があった。


「あの、ここの駅員ですが、大丈夫ですか?」


 駅員がドアを軽くノックをしながら、中にいる誰かに声をかけた。


「だ、大丈夫です」


 弱々しい声がドアの向こうからかすかに聞こえた。


「本当ですか? 随分と具合が悪いと聞きましたが」


「本当に大丈夫です」


 声からは力が感じられない。どう考えても助けが必要だろう。


「必要なら救急車を呼びますけど」


「本当に大丈夫だって言ってるだろ!」


 突然、声色が変わり、低い男の大声がトイレ内に響き渡った。


「そんな言い方・・・」


 駅員がそう言いかけた瞬間、激しい足音を立てて若い男がトイレの入り口に現れると、駅員はその方に目をやった。


「屈んで!」


 若い男がそう叫んだかと思うと、トイレの個室から黒い何かが噴き出してくるのが見えた。それを見た周囲の人間は一斉にトイレから出ていった。


「ひいいいい」


 駅員が怯えながら身を低くすると、個室から離れ、トイレから出ていった。やがて、黒い何かが噴き出るのが終わると、個室のドアが開き、一人の男が出てきた。


「猪川先生!」


 力弥が駆けつけるも、猪川はドアから出て来るや、その場に倒れこんでしまった。


「先輩! 怪物が改札の前に!」


 暁斗がそう言って、力弥の後からトイレに入ってくると、「分かった」と言って、力弥はその場でブレスレットを眼前に掲げ、「変身」と叫んだ。

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