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第五十六話 胸の暗がり

 そこにはにこやかな表情の西園寺がいた。ただ、蛍光灯をバックにして逆光の中にいる彼はどこか凄みがあるように思えた。


「どうかされましたか?」


 西園寺にそう聞かれ、どう答えたものかと、猪川は言葉を濁した。


「いえ、何でも。先生は用を足しに来られたんですか?」


「いえいえ、猪川先生のお姿が見えないので。戸田先生にお伺いしたら、お手洗いだと聞きまして」


「そうですか。何か、御用ですか?」


 猪川はトイレの奥の壁と西園寺に挟まれて、身動きが取れなくなっていた。


「実はですね。知り合いの先生から若手の新人採用を検討していると伺いましてね」


 猪川は西園寺の次の言葉に期待した。


「それで、猪川先生はどうかと思ったのですが、いかがでしょうか」


「ここの任期も終わりそうなので、そういうお話は大変助かります」


「そうですか。それは良かった。ただですね、ちょっと気になることがありまして」


 相変わらず西園寺は逆光の中にいて、顔の微妙な表情の変化を読み取りずらい。


「えっと、それは・・・」


 どこか分かり切っていることだが、一応尋ねる形にしてみた。


「はい。リサーチマップを拝見した限り、先生の業績が少々少ないかなと。学生さんの指導をされているとはいえ、先生のご年齢を鑑みますと、主著がもう少し欲しい所ですね。特に、インパクトファクター付きの」


 痛い所をつかれて、思わず猪川は顔をしかめた。


「それは、そうですね」


「いえいえ、セカンドオーサーは何本かありましたし、学生さんのご指導が良いのだと思いますが・・・」


 西園寺はそう言うと、少しだけ顔を近づけてきた。


「ただ、あれは大河原先生のご研究かと思いますが、いかがでしょうか?」


 更に痛い所をつかれて、猪川は逃げ出したい気持ちになったが、相変わらず壁と西園寺に挟まれて動けない。


「先生がご提案された研究の採択数が少ないように思えるんですが。予算の方もスタートアップだけのようで、その後は取られていないようにお見受けします」


「い、今、論文は何本か投稿中ですし、予算の方も申請はしていますので」


 西園寺が更に顔を近づけてきた。


「昨日、不採択通知が来ていますよね?」


「あの、それは」


 自分の置かれた状況をよく分かっているつもりだが、どういうわけか心が激しくざわつき、心拍数が上がり、呼吸が乱れていく。


「このままで、本当に大丈夫ですか?」


「えっと、だから」


「あなた、研究者としてやっていけると思っていますか?」


 もはや、西園寺の顔は見えているのに、見えていないような、真っ暗な何かとしか猪川には認識できていなかった。この黒い顔に問い詰められると、どうしようもない絶望感が心の中を占めていく。


「論文も出せず、予算も取れず、このままあなたは何になれるというんですか?」


「ぼくは・・・」


「その若さで、発想が尽き、柔軟性も失われて、あなたに何が残っているというんですか?」


「そんなことは・・・」


「本当は気付いているんじゃないですか、あなた自身が。自分に自信を失い、絶望し、理想を掲げた道を諦めるべきではないかと」


「あああああ」


 猪川は頭を抱えた。時折、頭の中を去来する、自己の限界、枯渇した可能性、絶望という名の暗がり。それが誇張され、胸の中から広がるのを感じていた。


「だけど、安心なさい」


 唐突に穏やかな声に変化した。


「・・・・」


「あなたの胸の奥にある仄暗い暗闇に語り掛けてみなさい。そこにこそ、あなたのすがるべきお方がいるはずです。さぁ」


 誰の言葉とも分からない。意味も理解できず、ただ、声を空気の振動として受け入れ、考えることができず、視界が暗転し、猪川という名の精神は混沌の中に落ちていった。


 辺りは暗闇に落ち、猪川はうずくまって、肩を震わせていた。


 ここはどこで、ぼくは誰で、この先、どうなるんだろう。


 唐突に訪れた不安に押しつぶされ、猪川は点滅する蛍光灯の下で頭を抱えるしかなかった。そこには言い知れぬ恐怖と不気味な影が彼の体を覆おうとしている。


 彼を覆う闇はやがて彼自身と一体化し、自我を保つこと自体が困難になりつつあった。


 過去も現在も未来も、何もかもが絶望に思え、どうすることもできずに猪川はその場にとどまることしかできなかった。


「もう、終わりだ」


 そう呟いていた。そうして、目を閉じ、認識できる全てを闇の中に陥れるしかないと、そう考えた。


「猪川先生!」


 突然肩をゆすられ、声をかけられた。猪川が目を開くと、とても眩しい何かが眼前にいた。


「猪川先生!」


 そこには一人の学生がいた。


「・・・燕谷君」


「大丈夫ですか? こんなところでうずくまって。具合でも悪いんですか?」


 不思議と吐き気を催すような恐怖は引き、猪川は立ち上がることができた。


「いや、大丈夫だよ。今、どういう状況?」


「えっと、この後の段取りは先生しか知らないんで、俺ら学生が猪川先生を探していたんです」


「そうか、ごめん。今、行くよ」


「え、でも、先生。顔色が凄い悪いっすよ」


 恐怖は引いたとはいえ、明らかに猪川の顔色は悪く、再び倒れてしまうのではないかと力弥が心配するほどだった。


「そ、そうかな。じゃあ、悪いけど、三階の会議室に皆さんをご案内してくれるかい。そこに大河原先生がいらしていて、先生がプレゼンをすることになっているから」


「分かりました。でも、先生は一人で平気っすか」


「もう少し休んだら、そっちに行くよ。心配しないで」


 猪川は無理やり笑顔を見せた。その姿は何とも痛々しいものだったが、力弥は猪川の指示通りに訪問者のいる実験室に戻ることにした。


 そして、力弥がトイレから出ていくと、猪川はよたよたと洗面台に向かい、鏡で自分の顔を見た。顔には涙の後があり、何とも酷い顔に苦笑いした。


 ふと、背後の暗闇に誰かの顔が見えた気がした。


 すぐに振り返ったが、人はおらず、掃除用具入れの扉が半開きになっているだけだった。


「だいぶ参っているな」


 猪川は片手で額を押さえながら、大きくため息をついた。そして、自分のなすべきことをやろうと、トイレから出て、会議室へ向かった。

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