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第五十五話 来訪者

 先ほどまで晴れていたが、級に雲が空を覆った。


 猪川は研究室で待っていることができず、建物の外に出て来客を待つことにした。そして、そわそわしながら、今日の分科会に参加する研究者らを待っていると、それらしい人物が近付いてきているのが見えた。


 三十から四十代ほどの数名の男性が話をしながら近づいてきている。おそらくは、今日の見学に来る先生方だろう。


 その研究者の中央にいる、モデルのようなすらりとした体型で、ダンディな雰囲気を漂わせた顎髭の男性が西園寺教授だ。彼の両サイドにもどこかの大学か研究機関の研究者がいるが、猪川はよく知らない人たちだった。


 まぁ、西園寺先生も初対面なんだけどね。


 そんなことを思いながら、背筋を伸ばして気を付けの姿勢で彼らが自分の前に来るのを待った。


「お疲れ様です。猪川先生でいらっしゃいますか?」


 おっとりとした、それでいて品のある口調で西園寺が猪川に話しかけた。


「はい。きょ、今日はよろしくお願いします」


「はは、リラックスしてください。他の先生方は到着されていますか?」


「いえ、先生方が最初です。あの、お名前を伺ってもいいでしょうか?」


 猪川が両サイドにいる研究者らに声をかけると、彼らはそれぞれの所属と名前を名乗った。そして、その場で名刺交換が行われた。


「西園寺先生のもいただけますか?」


 猪川が控えめな声でそう言うと、西園寺はにっこり笑って、「ええ、構いませんよ。そういえば、初対面でしたね」と言って、懐から名刺入れを取り出すと、猪川に名刺を差し出した。


 今回の分科会は西園寺とやり取りをして進めていたので、メールでのやり取りは済ませていた。しかし、リアルで正式に挨拶したのはこれが初めてである。ただ、猪川自身は学会で猪川の講演を聞いたりしているので、猪川の方は一方的に彼のことを知っている状態だ。


 そうして、第一弾の研究者らと挨拶をしていると、続々と他の分科会のメンバーが到着し、一通りのメンバーが揃った。時間もちょうど予定していた十五時だった。


「それでは、ご案内します」


 建物の中に入ると、普段よりもやや薄暗い気がした。太陽が雲が隠されたというのもあるが、何だか蛍光灯の明かりが普段より弱い気がする。猪川は変に思いながらも、一旦、考えるのをやめて、エレベーターの上ボタンを押した。


 ややあって、エレベーターが降りてきたので、来客たちに乗るように促した。貨物を乗せることも想定していて、それなりに大きなエレベーターなので全員乗るのは問題なさそうだった。


 猪川は全員が乗るのを確認して、自身も乗ろうとしたが、入った瞬間にブザーが鳴った。


「重量オーバーみたいですね。自分は階段でいきます。四階で降りてお待ちください」


 猪川はそう言ってエレベーターを出ると、「すみません」と西園寺が申し訳なさそうに言ったところでドアが閉まった。


「仕方ない」


 そう言って猪川は振り返って階段の方に体を向けた瞬間、急に全身が自由落下した感覚に陥り、気が付いたら尻餅をついていた。


「うわっ、なんだ?」


 尻餅をついた周辺の床にベトベトした液体が広がっていた。どうやらこれで足を滑らせて転んでしまったようだ。


「掃除のおばちゃんが洗剤をこぼしちゃったのかな?」


 猪川は立ち上がり、手についたベトベトをハンカチで拭きながらぼやいた。


「くさっ! 洗剤なのかな、これ」


 手に染み付いた匂いを嗅ぎながら、顔をしかめたが、「やばい、急がないと」と言って、足元に気を付けながら階段に向かっていった。


 息を切らせながら、階段を駆け上ると、そこには西園寺らがいた。特にイラついたようにも見えず、失礼がなかったと安心して、猪川は彼らに近付いた。ただ、ベトベトした液体の匂いが気になり、彼らと少し距離を取るようにした。


 見学が始まったらトイレで手を洗おう。


 猪川はそう思いつつ、研究者たちに声をかけた。


「では、ご案内しますね」


「はい。お願いします」


 そう言って、猪川は研究室のある方向へ向かった。ただ、やはり建物内が薄暗い。一階よりさらに薄暗くなっている気がする。四階の一番奥にロボットやデバイスを開発したり、動作検証できる実験室がある。ひとまずは、そこへ研究者たちを連れていくことにした。


 ずりゅ、ずりゅ。


 複数の人たちの足音が響く中、妙な音が聞こえる気がする。それは、水分を含んだ塊を引きずるような音に思えた。


 ずりゅ、ずりゅ。


 猪川はチラリと後ろを振り返るが、そこには数名の研究者たちがいるだけだった。また、その様子を物珍しそうに眺める研究生が数名いた。


 どこかのラボの中で実験か何かをしていて、その音が洩れているだけだろう。


 猪川はそう考えて、気にしないようにした。ただ、何となく背中にぞわぞわとした悪寒が走り、言い知れぬ不気味さが彼の心の中を支配しつつあった。


 実験室の前につくと、研究者らに中に入るように促した。そして、全員が入るのを見届けると、猪川自身も中に入った。そして、改めてラボについて説明をして、自己紹介をした。


「あと、今日のデモを担当してくれるうちの学生たちです。手前からM2、M1、B4。あと、一番奥にいる彼は学部三年生で、実は一年生の頃からラボに出入りしてウェアラブルデバイスを製作しています」


 猪川は力弥の紹介をすると、力弥は緊張しながら頭を下げた。


「では、この先は彼らに説明をお願いしようと思います。村田君、お願いします」


 猪川はそう言って、学生らにラボで研究開発しているものの説明を任せた。もちろん、全てを彼らに任せることはない。研究者からの質問に対して学生らは全て答えることはできないので、そのあたりは適宜、猪川がフォローする。


 恙なく、大河原研の紹介が終わろうとしている。隣のラボの紹介の間に手を洗おうと猪川は思い、そのラボの助教に声をかけた。


「すみません。さっき、転んだときにベトベトしたものを触って手が臭くなっちゃって」


「ああ、うちの説明の時に手を洗いに行っても大丈夫ですよ」


「すみません」


 そうしたやり取りをしている間に、力弥の説明も終わっていた。


「では、続けて、お隣の富山研の紹介に移りたいと思います。では、戸田先生、よろしくお願いします」


「はい。では、皆さん、こちらのロボットの前にお集まりください」


 髪にメッシュを入れたオシャレな雰囲気をした戸田がそう言って、研究者らを集めた。十数分の間はどうにかなるだろうと猪川は考え、実験室を出て、トイレに向かった。トイレはエレベーターホールのすぐ横にある。


 猪川は薄暗い長い廊下を小走りで抜けていった。学生らの出入りもなく、廊下は不気味なほどに静かだった。


 ただ、猪川の走る足音だけが辺りに響いた。


 そういえば、さっきの変な音は聞こえないな。


 「ずりゅ」という何かを引きずる音はしない。気のせいだったのだろうかと思いつつ、猪川はトイレに入り、洗面台の前に立った。そして、ハンドソープを泡立て、磨くように手を洗い、何度か鼻を近づけて匂いが取れたかを確認した。


 ドンドン。


 トイレの奥でドアを叩く音がした。突然の音にびくりと肩を震わせ、恐る恐る、音のした方を見た。すると、一番奥の個室のドアが閉まっていた。どうやら中に誰かいるようだ。


 猪川がその個室のドアを見つめていると、再び、ドアを叩く音がした。


 もしかしたら、中の人が助けを求めている?


 猪川は不気味に感じつつも、恐る恐るドアの前に立った。そして、ドアをノックしようとしたが、ドアはキイと音を立てて開いてしまった。


「誰もいない」


 敷居で隔てられ、蛍光灯の明かりが届きづらい個室の中は薄暗い。


 猪川は中をくまなく見渡すも、そこには誰もいなかった。ドアを叩く音は気のせいだったのだろうかと思い、個室から出た。


「猪川先生」


「うわっ」


 何の気配もなく、唐突に声をかけられたので、猪川は思わず後ずさり、声の方を見た。


「あ、西園寺先生」

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