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第五十四話 猪川助教

「notification」から始まるメールが届くと、胸がざわつく。


 自分としては最善を尽くしたつもりだ。これでダメなら、どうしろというのだ。そういう思いでメールを開く。


「はぁ」


 ほとんど条件反射のように重たいため息が吐き出された。


 そこに「reject」という文字はないが、端的に言えばそういうことだ。今回も「不採択」という終わり方を迎えた。


 いつの頃からだろうか、トップカンファレンスやトップジャーナルに通せなくなったのは。


 ぼくは画面の前で頭を抱えてしまった。隣室の学生部屋の明かりは落ち、上司も帰宅済みだ。おそらくは、このフロア全体を見渡しても、ラボにいるのは自分一人だろう。


 静かだが、胸のざわつきが周囲の空気を伝い、混沌と化した闇の中に身を置きながら、どちらに向かって進むべきかと正面を見据える。


 任期の終わりが近い。


 このままの業績ではこの大学でのキャリアアップはもちろん、他の研究機関への異動も厳しい。


 ここ最近の業績を思い直すと、学生がファーストオーサーのものはいくつか採択されている。それは自分も共著に入っているが、基本的には上司の教授が考えたテーマだ。自分は指導者の立場として共著になっているにすぎない。


 つまり、自分が考えたテーマでは論文採択に至らない。


 自分には研究者としての素養がないのだろうか。


 自ら生み出せず、他人の成果にただ乗りするようなやり方でしかプレゼンスを示すことができない。そんな自分に生きる価値があるのだろうか。


 研究者以前に、人として、自分に価値があるのかすら怪しい。


 体から染み出してきた暗闇はどこまでも広がっていく。


 自分の体と意識が次第に遠ざかり、ぐんぐんと頭上に意識が飛んでいく。それにつれてパソコンのディスプレイの明かりが次第に小さくなっていくように見えた。


 やがて星すら見えない混沌の闇の中に身も心も落ちていき、その果てにあるものが自分を救ってくれるような奇妙な感覚に陥っていく。


 この救済にすがりたい。


 永久に続く闇の果てにある、大いなる存在だけが、どうしようもない自分をあるべき場所に連れて行ってくれる気がする。


 曇天が広がる夜。


 窓の外は星も月もなく。どこまでも広がる黒い空だけ見える。この黒い空の向こうに、偉大なるお方がおわし、自分を遥かなる救済の土地に連れていってくださる。


 気が付くと、椅子から立ち上がり、窓の前に立っていた。ブラインドを上げ、黒い空を眺めていた。


 次に、視線を地面に下ろしていく。四階の窓から見える地面もまたはるか遠くにあるように思えた。天に向かって飛び上がり、混沌の闇に落ちていけば、やがて救済の地に辿り着ける。頭の中がそんな魅力的な妄想に満たされていた。


 頭をもたげ、思い悩み、自分の価値や存在に苦しみ続ける日々からの解脱。


 窓の鍵に手をかけようとした、その時。


「ピコーン」


 何かのメッセージアプリの着信音が部屋に響く。びくりと体を震わせ、我に返る。


 ぼくはブラインドを下し、パソコンの画面を見つめる。スレッドタイプのメッセージアプリを起動すると、学生からDMが来ている。


「燕谷君か」


 何気なく、パソコンの時刻表示を見ると、既に日付をまたいでいた。この時間に目上の人にメッセージを送るのは非常識だが、起きていたのでいいことにした。


 何よりも、メッセージ内容がどことなく微笑ましく、彼から感じられる前向きさがあったからだ。


 どうやら、先日教えたアプリ製作が上手くいっているそうだ。思わず、笑顔がこぼれ、先ほどまでの胸に渦巻いていた感情が雲散していた。


 自分が教えたことが役に立ち、学生の成長に役立っているのではないかと思えると、消え入りかけていた自己肯定感が沸き起こり、体全体が楽になっていた。


「あー、もう、次だ、次!」


 ぼくはそう言って、自分を鼓舞すると、椅子に座り直し、これからのことを改めて考えた。その前に、学生のDMへの返事だけ書いておいた。




 今日は見学者が来るのをすっかり忘れていた。


 猪川は大学の購買でエナジードリンクとパウチに入ったカロリーゼリーを買うと、大急ぎで研究室に向かった。見学自体は午後なので時間的には余裕はあるが、午後に予定していた明日の授業の準備を午前中にやらないといけない。


 今日は午前中に学生ミーティングがあるし、リジェクトされた論文の直しと再投稿もしないといけない。のんびり朝ごはんを食べている時間は全くなかった。


 今日の見学は所属している学会の分科会のイベントの一つだ。持ち回りで研究室見学を企画し、会に所属している研究者が来訪することになっている。


「よりによって、今日は西園寺先生が来るからな・・・」


 西園寺とは東都工業大学の教授で、猪川の所属学会で彼のことを知らない者はいないと言っても過言ではない名物教授だ。教授だが、年の割にはとても若々しいことで有名だ。女性に人気のありそうな顔立ちでオシャレと来ている。しかも気さくで社交的なのだ。


 猪川は自分とは真逆のタイプの西園寺に対して苦手意識を持っている。とはいえ、彼にきっちり売り込むことができれば、界隈での顔の広い西園寺から良い話をもらえるかもしれない。


 政治が苦手な猪川だが、多少は打算的にあるべきだろうと考えている。業績が芳しくない彼にとっては、任期の後のポストのことも考えねばならない。今のボスの大河原もベテランだけあって、学外の先生方に顔がきくが、できるだけ多くの先生にお願いすべきと考えている。


 メインストリートを急ぎ足で進んでいると、猪川は見覚えのある背中が目に入った。それは背が高くて、目立つ顔立ちの学生だ。


「燕谷君!」


 猪川が呼び止めると、力弥は猪川の方を向いた。そして、暁人たちには見せないような人懐っこそうな笑顔で猪川の方へ向かった。


「おはようございます。猪川先生」


「ああ、おはよう。今、ちょっといいかな?」


「いいっすよ。何すか?」


「今日の午後、十五時くらいなんだけど、授業が入ってたりする?」


「えっと、その時間なら平気っすよ」


「じゃあさ、その十分くらい前に研究室に来てくれる? あ、あと、君のサーモバンドも持ってきてくれる?」


「いいですよ。なんかあるんすか?」


「外部の先生がラボの見学に来るんだけど、君のも見てもらおうかなと思って。問題ないかな?」


「全然大丈夫ですよ。じゃあ、その時間に研究室に伺います」


「ありがとう。助かるよ。じゃあ、また」


 猪川はそう言って、再びラボに向かって走り出した。見学先は、猪川の所属する大河原研だけでなく、隣の研究室にも声をかけてある。それぞれのラボの出し物を合わせれば、十分すぎるほどあるが、多すぎて困ることはないだろうと猪川は考えた。


 あと、学部生がこうしたものを作れるように指導したというのは良いアピールポイントになるとも考えた。


 必死すぎるな。


 猪川は自分のすることにため息を吐きつつ、それでもどうにか研究者として生き続けるためには、この程度のことはせねばなるまいと思い直し、吐き出したため息を吸い込んで、前を向いた。


 研究室のある校舎に入り、エレベーターの上ボタンを押した。そして、この先の詰みあがったタスクを効率良くこなすために、カロリーゼリーを口に流し込みながら、エレベーターに乗り込んだ。


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