第三十八話 深淵より湧いてくるもの
冬の終わりのあの出来事以来、同じ状況に龍二は出くわしたことはなかった。
凪とは学校で会っているし、日常的な会話はしているものの、不可思議な現象については彼女の方から触れることはなかった。
「なぁ、また、あそこに行かねぇの?」
たまたま人の少ない場所で凪に会うと、龍二はそれとなく聞いたが、凪は「なんのこと?」ととぼけてまともに答えようとしなかった。
春先までは龍二も彼女からあそこで何をしようとしていたのか聞き出そうとしていたが、新学期を迎える頃にはどうでもよくなっていた。しかし、その頃から凪の身に看過できない出来事が起きつつあった。
学校がなければ釣りに行こうとするのが龍二の習慣になっていた。もはやそんな習性を持った動物とも言える。暖かくなってきたのでそれに合わせてポイントを変えることにした。
そこは島の裏磯に当たる場所で、休日であれば釣り人がいることもあるが、平日の夕方ならほとんど人はいない。ただ、暗い時間は危ないので注意されることはあるが、そうしたスリルもまたたまらなかったりする。
太陽は西の彼方に沈みかけ、いわゆる逢魔が時という時間帯だった。夕日に照らされながら釣り糸を垂らすのも乙なものだと思いながら、龍二は竿を振り、浮きを眺めていた。
すると、少し離れた場所に誰かがいることに気付いた。
それは彼が来る前からいたのか、彼が釣りに意識取られている間に来たのか分からなかった。陽が沈みかけ、薄暗い磯辺では相手の顔は分からなかった。
龍二は同じ釣り人だろうと思い、一瞥した後に、再び浮きを見つめるだけの簡単な作業に戻った。しかし、浮きが妙な揺れ方をしているので、周囲を見渡した。
すると、何かが海の中から這い出して、顔の分からない人影の方に向かっているのが見えた。どうやらこのシチュエーション、龍二がモブで向こうがメインらしい。
海から出てきたものは立ち上がり、人型であると分かった。シルエットだけではっきりとはしたことは分からないが、人間でないことを龍二は察した。そして、海から次々と人型の何かが這い出てくると、顔の分からない人に迫っていった。
龍二はその人が危険ではないかと思い、竿を握って駆けだした。海から這い出た者たちは顔の分からない誰かの周りを囲み、掴みかかろうとしていた。
「ちょっと、来ないで」
顔の分からない人は声から凪だと龍二は気が付いた。龍宮近くの林で何かしていたことが龍二に知られたので、どうやら裏磯に来ていたようだ。相手が凪であると知るや、龍二の脚は更に加速した。
海から這い出たものを前にして、龍二は一瞬、竿で殴ることを躊躇ったが、そろそろ買い直そうと思っていたから構うもんかと思い直すと、それを振りかぶった。
「おらぁ」
思い切り振り下ろした竿は海から這い出たものの頭にクリーンヒットした。近くで見ると、その怪物の顔はグロテスクな造形で、殴った後で止めておけば良かったと龍二は後悔した。
凪のすぐ近くにいた怪物が怯んだので、今がチャンスだと龍二は思った。
「逃げるぞ」
「あ、でも」
凪は何かを惜しむように沖の方を見た。
「でも、じゃないだろ」
そう言って龍二は無意識に凪の手を掴むと、磯とは反対方向に駆けだした。そして、坂と階段を登って、小高い場所まで来ると、そこで立ち止まった。
「ここまでは追ってこないよな」
そう言って龍二は磯の方を眺めた。既に辺りは夜の帳が落ち始め、彼らの場所からは磯に誰かがいるかは正確には分からなかったが、例の怪物が階段を登って追ってきているわけではないことは分かった。
「あの、離してもらえる?」
そう言われて龍二はずっと凪の手を握っていたことに気が付くと、「ごめん」と言って手を離した。
「・・・ありがと」
凪はそう言うと龍二の方をじっと見つめた。それは龍二に何らかの変化が起きることを期待しているような視線だった。龍二は女子に見つめられて、むず痒い気持ちになってきた。
「なんだよ」
「あんた、さっきあったこと覚えてる?」
凪がジトっとした目で龍二の方を見ると、龍二は質問の意図が分からずにいた。
「さっきのって、あのキモいやつらのことか?」
凪はその言葉を聞くと、「はぁ」とため息をついた。そして、何かを言おうとするも躊躇うを、何度か繰り返すと裏磯に背を向けて歩き始めた。
「いやいやいや、何か知ってるなら教えろよ」
凪は仕方なさそうに立ち止まった。
「多分、あんたのとこに変なおじさんが来るから、その人に聞いて。来なかったら、忘れた方がいいよ」
凪はそう言うと、龍二の方を軽く振り返った。
「釣り道具、置きっぱなしでいいの?」
龍二は竿は持っていたが、それ以外を磯に置きっぱなしになっていることを思い出した。そして、裏磯の方を振り返ると、それに合わせて凪は走り去ってしまった。
「おい、どういうことだよ?」
龍二が声をかけた頃には凪は随分と遠くまで行っていて、追いつくのは難しかった。ここで聞かなくても、どうせ同じクラスだからいつでも聞けばいいかと思い直すと、磯の方を向いた。
さっきまで不気味な怪物がいた場所に戻るべきか悩んだが、荷物を置いたままにするわけにもいかないので、警戒しながら、磯に向かって歩き始めた。
明らかに避けられている。
凪は学校には来ているが、明らかに龍二のことを避けていた。別に毎日、一緒に行動しているわけではなく、たまに話しかける程度の仲だが、それでも彼女の行動は自分に声をかけることを避けていると言えた。
「天澤に気でもあるのか?」と友人たちに茶化されたが、龍二は断固として否定しつつも、凪に話しかける機会を伺っていた。
気があるとかないとか、そういうことではなく、避けられていることがシンプルに気に入らないのだ。更に、あの怪物の正体も気になる。そして、凪を狙っていたことが龍二を不安にさせた。
この日も何の収穫もなく、部活帰りに一人で肩を落としながら龍二は家路についていた。太陽が西の空に沈みかけ、長い影を見つめながら歩いていると、龍二の影の横にもう一つ長い影が並んだ。
龍二は恐る恐る、影の方に視線を移すと、そこには黒い帽子に黒いコートのやたらと背が高い男がジッと龍二を見ていた。凪が言っていたのはこの男のことだろうか。
ゴールデンウイークも間近でコートがいらないほど暖かくなってきたのに、どうしてこの人はこんなものを着ているのかと龍二は疑問に思いつつ、じりじりと距離を取った。
凪の言う男が彼なら事情を聴いてみたいとは龍二は思うものの、いくらなんでも見た目が不気味すぎる。しかも、周囲に人はいなくて、何かされても助けを呼ぶことはできないので、男に背を向け走り出そうとした。
「君さ、葛城龍二君だっけ、ちょっといいかな」
名前をフルネームで呼ばれたことで更に恐怖を感じた龍二は、勢いよく走り出した。
後ろからついてきているかを確認することもせず、とにかく走り続けていると、住宅街の中にある小さな公園の前にいることに気付いた。そして、後ろを振り向き、黒い男の姿を探したが、それはどこにもいる気配はなかった。
全速力で走って疲れた龍二は、公園のベンチで休憩をすることにした。
「ふー、何だったんだ」
そう言ってベンチに腰を下ろした。
「逃げるなんてひどいじゃないか」
座った瞬間、隣に黒い男がいた。ベンチには誰もいなかったはずだけに、龍二は心臓が止まるほど驚いた。そして、そこにいるのがさっきの男だと分かると立ち上がろうとした。
「ちょっと、待ってくれない? 君に頼みたいことがあるだけだから」
今度は男に腕を掴まれ、逃げ出すことができずにいた。龍二は観念して頷くと、ベンチに座り直した。すると男は立ち上がり、龍二の前に移動した。
「葛城龍二君だよね?」
男はおっとりした口調で聞いた。それが見た目と行動の不気味さとマッチしているのか、ギャップがあるのか、何だかちぐはぐな雰囲気がする。
「はい」
「前に、海で変なものを見ただろ?」
凪を襲った怪物のことだとすぐに理解した。
「海から出てきたあの、半魚人みたいなやつらですか?」
「あー、そうそう、君らはそう呼んでることがあるよね」
「あいつらは何なんですか?」
単刀直入に聞いてみた。
「深淵より湧いてくるものたちはね、この地の力を狙っている。まだ、水底に沈んだ彼らの神の復活を諦めてないようだからね」
龍二の頭の上でクエスチョンマークが次々と出てきた。
「宗教の勧誘か何かですか?」
龍二の言うこともまた、相手の男には伝わっていないようだ。彼の頭の上にもクエスチョンマークが出ていた。
「なんのことだい? 宗教? 勧誘? このぼくが、なんで?」
「いやだって、神様がどうこうとか言っているし」
龍二がそう言うと、男は手を顎にあて、のんびりと考え始めた。そして、何やら色々と頭の中で連想しては、どのことだろうと頭をひねっていた。
男が悩んでいる様子から、龍二は宗教の勧誘ではないと判断すると、いつまでも一人でぶつぶつ言っている男に次第にイライラしてきた。
「あの、それで、頼みって何すか?」
そう言われて、黒服の男は両手を合わせて、「そうだそうだ」と言って、龍二の方を見つめた。
「これはね、ぼくの主からの頼みでね。引き受けてくれるかな?」
「な、内容によります」
男の怪しい物言いに、龍二は未だに宗教勧誘の可能性を捨てきれていないでいた。
「天澤凪という子を守ってください」
「あの怪物から、凪を守れと」
「そう。この間みたいにね」
簡単だろうという顔を男はしたが、龍二は複雑な表情で返した。
「だけど、凪が俺から逃げてるから・・・」
「だから、なんだい?」
言い方がとろくて、察しが悪くて、ほんとイライラするなぁと龍二は言いたくても言えないことを飲み込んだ。
「つまり、守ってやりたくても、あいつが逃げちまうからできねぇって言ってんすよ」
「そんなことか。だったら、ぼくから彼女に言っておくよ」
男はため息をつきながら、そう言うと、為すべきことは為したと龍二に背を向けた。そして、どこかに歩き去ろうとしたが、すぐに立ち止まった。
「そうそう。深淵より湧いてくるものたちはね、夜に来るからね。あと、この町はだいぶ良くないことになっているから気を付けて」
「どういうことですか?」
すると、ぐるりと男は龍二の方に体を向けた。
「つまりね、奴らは町の中に溶け込んでいる。陸の上も危ないということさ」
男はそう言うと、手を振りながら龍二の下を去っていった。別れ際になんてことを言いやがるんだと龍二は茫然としてしまった。
あの気持ち悪い怪物が町の中にいるということか。
すると龍二はあたりがすっかり暗くなっていることに気付いた。そして、ちょうどこの間もこの時間帯に怪物が現れたことを思い出した。
とりあえず、江の島に行ってみよう。
龍二はそう思い至ると、走り出した。そして、島に続く道路の前の交差点に辿り着くと、そこに凪がいた。まるで、龍二が来るのを待っていたように、彼の方を向いていた。
「お、おい。平気か?」
「今日は大丈夫。あと、ウシオさんに話は聞いたよ」
「ウシオさんって誰?」
「はぁ? あの黒ずくめのおじさんだよ」
龍二はそういえばさっきの男の名前を聞いてないことを思い出した。あと、あの人はおじさんというには若いだろとも思った。パッと見た感じでは二十代だった。あれをおじさんと言っていいのだろうかと苦笑いした。
「ああ、あの人はウシオさんっていうのね」
「で、あんた、ほんとに私のことを守ろうとか思ってるの?」
「あんだよ、文句あんのかよ。ていうか、海に近付かなきゃいいんだろ、とりあえずは」
町の中にも怪物がいると聞いたが、ひとまずは海に近付かないのが一番手っ取り早いと龍二は考えた。
「それは無理。おつとめがあるから」
「あのぴかーって、光るあれか?」
「そう」
そう言って凪は歩き出した。それはちょうど彼女の家の方角だった。龍二は彼女の家の近くまではついていこうと考えた。
「毎日やってんのか?」
「星辰の合っているときだけね」
再び龍二の頭の上にクエスチョンマークが飛び出してきた。何言ってんだこいつという顔をしている龍二を凪はちらりと見ると「海に行くときはメッセージ送るよ」と言って、凪はスマホを取り出した。
「ID交換しよう」
「お、おう」
そう言えば、まだ交換してなかったなと龍二は思った。学校で顔を合わせることが多いので、そうした発想が一度もなかった。
その後は、怪物のことなど知らなかったかのように、たわいもない会話を交わしていた。そして、凪の家の近くまで来ると、「じゃあね」と凪は言って家の方へ駆けだした。龍二は少し話し足りなかったが、「まぁいっか」と言って、自宅に向かった。
なお、その後、メッセージの方で話の続きが再開されたのは言うまでもないことである。




