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第二十九話 泡沫の時間

 新島真吾は常にタイミングを図っている。


 同じM沢教室で塾の講師のアルバイトをしている鹿森は明るくて、笑顔が素敵でついつい彼女を目で追いかけてしまう。


 真吾は鹿森とほとんど同じ時期にこの教室でバイトを始めた。最初はシフトが合わず、あまり顔を合わせることはなかったが、夏季と冬季の講習会では一緒になることが度々あった。そうした時には話しかけるようにしている。


 今年に入ってからは火曜日にシフトが合うようになった。なので火曜日だけは早めに出勤したりしていたが、夏季講習の始まった今日にいたるまで、仕事以外で彼女に話しかけることはついぞなかった。


 真吾は教室に入ろうとして、今日までの自身のふがいなさを思い出して入り口の前で大きなため息が出てしまった。今日のシフトは午前から入っている。塾講は夕方以降が主な業務時間だが、夏季と冬季の講習では午前に入ることもある。


 この教室では午前から入る生徒はごく僅かである。その分、出勤している先生も少ない。今日は自分と鹿森だけだ。教室長も出勤は午後からになる。そのため解錠は鹿森に任されており、既に彼女は出勤しているはずだ。


 今日はもう少し彼女との距離を縮めたいと真吾は思った。


「おはようございます!」


 その意気込みが勢い余って、大きな声が出てしまった。教室に入ると、案の定、鹿森は来ていた。


「あ、新島先生、おはようございます。今日はよろしくお願いします」


 朝の九時前だというのに元気で朗らかな笑顔だ。今日のバイトも頑張れそうだと思って、小さくガッツポーズをした。今日のシフトは午前と午後の最初のコマまでで、鹿森も同じになっている。つまり、一緒に帰ることができる。


 そこで何か話をして、きっかけを作ろう。そうしよう。


 真吾は頭の中でそう決意して、一旦気持ちを切り替えて、授業の準備を始める。個別指導塾なので一度の授業で複数の生徒を担当する。担当生徒たちとのファイルを探して、今日の授業内容を確認する。真吾は文学部なので、中学生相手でも文系科目の担当が多い。今日は国語と英語と社会だ。


 鹿森は理工学部と言っていたので、理数系が多い。今日の午前に自分と鹿森の組み合わせになっているのは文系と理系の科目をそれぞれ担当してもらう意図があるのだろう。真吾はそんなことを考えながら、テキストだけでは足りない追加課題を用意した。


 昼休憩を終え、午後のコマになると生徒と先生の人数も増えてきて、教室内はにぎわった。教室長もこの頃には教室に出勤していた。真吾と鹿森はこの午後の最初のコマまでだ。午後も午前と変わらず真吾の担当科目は国語と英語だった。


 授業を終えて、各生徒の講評や次の授業の予定など、次に担当する先生への引継ぎを書類に記入していく。これを授業の終わりまで放置していると帰るのが遅くなる。授業の合間に計画的に記入していく必要がある。


 よし終わった。


 真吾は書き漏らしがないかを確認しつつ、横目に鹿森の様子を見た。彼女もちょうど終わったようで、ファイルを棚に戻そうとしている。偶然を装って、一緒に帰るように言ってみよう。そう考えて、鹿森同様に書類をファイルに戻そうと真吾は棚に近付き、鹿森の横に立った。


「鹿森先生、お疲れ様です。今日はもう上がりですよね」


 真吾がそう聞くと鹿森は明るい口調で答えた。


「はい。新島先生もですよね?」


「ええ、どうせなら駅まで一緒に帰りませんか?」


 自然に切り出せたのではないかと思い、真吾は心の中で自分をほめたい気持ちになった。


「いいですよ」


 鹿森が快諾したことで、更に真吾は内心舞い上がっていたが、顔に出さないように努めた。とはいえ、周囲にはそれとなく気付かれていて、近くで二人の会話を聞いていた中学生たちがコソコソと噂をしていた。


 真吾と鹿森は揃って教室を出た。ここの学習塾は駅の近くのビルのテナントの一つに入っている。同じフロアには他の同業者も入っている。二人は並んで歩いて、エレベーターホールに向かった。


 塾に来ている生徒たちに関する情報交換や、同僚の話した冗談などをお互いに語っているうちにビルの外に出て、駅の目の前まで来ていた。この幸せな時間もここまでかと真吾は残念がった。


 すると真吾は、ここで何か予定を提案してはどうかと考え、鹿森に話しかけようとした。すると、鹿森はスマホを取り出していた。


「あ、ごめんなさい。友達から通話が来ているんですけど、出てもいいですか?」


 話すタイミングを逸した。しかし、断るわけにもいかないので「いいですよ」とややひきつった笑顔で返した。


「ありがとうございます」


 そう言って鹿森は真吾から数歩離れた場所に移動して、スマホを耳にあてて話し始めた。鹿森が電話をしている間、どう切り出すべきかを真吾は悶々と考えていた。すると、電話を終えた鹿森が真吾に声をかけた。


「あの、この後、今電話をした友達と会う約束をしていたんですけど、その人がこの駅まで迎えにきてくれているみたいで」


「あ、そうなんですね。どちらにいるんですか?」


 何を聞いているんだ、別にここでさよならでもいいじゃないかと、真吾は口からなんでこんな言葉が出たのかと混乱した。


「あそこのロータリーで待ってくれているみたいなんです」


 車で来ているのだろうか、その人は。友達と言っていたが、もしかして男性なのではないかと、真吾は彼にとって不都合なことを考え始めた。


「そうなんですね。では、ここで。お疲れ様でした」


「はい。お疲れさまでした」


 鹿森は手を振ってあいさつをすると、ロータリーの方に向かっていった。真吾は彼女の背中を見送りながら、どんな人が来ているのか気になって、鹿森に気付かれないように、ロータリーの方に近寄ってみた。


 ロータリーから離れた場所でその周囲を見渡していると、鹿森が長身の男性と一緒にいるのが見えた。その男性の背後にはバイクがあり、二人は何か楽しげに語らった後、男性がヘルメットを被ってバイクに跨った。すると、鹿森もヘルメットを渡されるとそれを被って、躊躇しながらバイクに乗った。


 そうして二人はバスロータリーを後にして、颯爽と去っていった。


「いや、あれ、友達じゃなくて、彼氏だよね」


 真吾は鹿森のことは諦めようと考えた。相手の男性は、彼が立ち向かうにはカッコよすぎたのだ。



「日焼けしたくないだろ、これ着とけよ」


 そう言って渡された力弥の上着を羽織って、緊張しながら彼の後ろに乗るとバイクは走り始めた。バスロータリーを抜け、右折するとバイクはひたすら直進した。十字路をまたぐ大きな歩道橋を抜け、街路樹に囲まれた道を進み、突き当りで赤信号で止まった。


 すると、力弥は疲れていないかを聞いてきてくれるが、疲れよりも緊張が勝っていた。それはバイクにタンデムすることだと朱音は思っているが、運転しているのが力弥であることも理由の一つだ。


 私たちは人から見たらどう思われているのだろう。


 信号が青になり、バイクは走り出すと、右折した。朱音は力弥の背中を見つめながら、そんなことを考えていた。はじめ、彼から連絡が来た時は驚いた。バイクの免許を取ったというのは聞いていたが、まさか後ろに乗れと言われるとは思わなかった。


 別に付き合っているわけでもないのに、こういうことを平然と言ってしまう男なんだなと思い、心がざわついてしまう一方で、他の人にも同じことを言っているのだろうかと不安になってしまった。


 不安に思うなんて、我ながら図々しいな。


 彼の行動がもどかしい。気心の知れたやり取り、優しい気遣い、時折見せる踏み込みすぎた距離感。


 だけど、力弥は決して言葉にはしてくれない。言葉にした瞬間に全てが砕けてしまうことを怖れるように、その一歩を踏み込んでこない。


 何故踏み込んで来ないのかを語ってくれない、朱音自身もその心当たりがない。それでも、知らなければこうして彼のすぐ近くにいられるのなら、それでも良い。


 ああ、一年前から何も変わってないな。


 バイクは晴れ渡った夏の青空の下、小高い丘に向かって駆け上っていく。



 緑のトンネルの中は、セミたちの恋の賛歌で溢れていた。情緒のない言い方をすれば、セミの鳴き声がとてつもなく煩い。しばらく歩くと開けた場所に出た。そこはこのあたりの街を見下ろせる高台になっていている。以前に相棒と来たことがある場所だった。


 ここで彼が語った言葉を思い出す。例え誰に知られることがなかったとしても、そこには意味がある。自分たちも世界を回す一役を担っている。


 時折、挫けそうになることがある。分からないことを前に投げだしそうになることだってある。でも、今ここに来て、あいつの言葉を思い出したら、それも全部必要なことだと、力弥は感じていた。


「力弥、徹先輩の資料に書いてある場所、ここじゃなくない?」


 朱音がタブレットパソコンを眺めながらぼやいた。今日は、怪奇現象研究部における調査の一環で来ている。


「あれ、そうか?」


 力弥は分かっていながらとぼけた。ここに来たのはこの景色を見たくなったからだ。それに、この近くで怪物との戦闘があったのは事実だ。間違いではないはずだ。


「それにしても暑いな」


 高台の付近は木陰はなくダイレクトに日差しが力弥に降り注いでいる。


「さっきの広場まで戻る? 自販機あったよ」


「そうだな」


 そう言って力弥は朱音の傍まで駆け寄ると、来た道を戻った。


 今も、こうして距離を取って歩いている。


 こんな関係がよく続くもんだな。


 朱音が自分の傍にいてくれると安心できる。色んな事を頑張りすぎて疲れた時も、彼女を見ているとふっと疲れが抜けていく。気心の知れた人といるだけで、こんなにも違うのかと力弥は彼女の存在をありがたいと思っていた。


 例え、俺の抱えているものを最後まで打ち明けることができなくても、彼女といられればそれでいい。


 そして、彼女に対するこの感情が何なのかなんて考えなくていい。


 考えてはダメだ。考えたら、終わりが怖くなる。


 そこまで考えると力弥は顔を少し上げ、遠くの木々の枝を見つめた。


 結局、距離を取って誰かといるのは孤独と変わらないのかな。


 木々に囲まれた道は暑さも和らぎ、林の方から吹き抜ける風が涼しくて心地よい。銃弾爆撃のように頭上から降り注ぐセミの大合唱がなければ、雰囲気も良いのだがと思いながら、力弥は視線を下した。


 力弥もまた、彼の相棒のようにいつかは光の粒子となってこの世界から消えてしまう。だから、この時間はいつまでも続かない。それどころか、力弥が消えれば朱音はこのひと時すら忘れてしまう。


 それでも、俺がこの世界に留まれる間だけは、このままであってほしい。


 力弥は楽しそうに自分に語り掛ける彼女の顔を見ながら、心の中でそう呟いた。


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