第二十四話 交わらない道
『電車がまいります。黄色い線の内側までお下がりください』
H子行きの電車のドアが開くと、朱音と力弥は並んで電車に乗り込んだ。太陽は既に西の空に沈みかけ、辺りは薄暗くなっていた。電車は沈みかけている太陽に向かって走っていく。帰宅時間ということもあり、電車内は混みあっていた。
二人は適当なところに摑まりながら、今日あったたわいもないことを語り合った。微分積分学の講義の板書の多さに手が疲れただの、同じクラスの学生のくだらない冗談など語っているうちに次が降りる駅であることに二人は気が付いた。
「ねぇ、今日の話にあったバスロータリーに行ってみない?」
朱音の提案に対して力弥は「いいよ」と快諾した。普段の朱音は南口から出ていくが、例の事故があったバスロータリーは北口になる。意識的に北口に向かい、改札のある二階から階段を降りる。
バスロータリーにはバスを待つ人、バスから降りる人が多く見られた。
朱音と力弥は時計回りにロータリーを移動して、バスが横転していた商店街側に向かう。朱音は周囲を簡単に調べたが、事故から半年以上経過しており、その時の痕跡らしきものは何も見当たらなかった。
「特に何もないかな」
朱音はそう言って力弥に帰ろうと声をかけようとした。すると力弥は駅ビルの壁の前で何も言わずに立っていた。そして、ある壁に手をあて、感傷に浸るようにその壁を見つめていた。
朱音はそっと力弥に近付いて、力弥が見つめている壁を見てみた。そこだけ他の壁と色が少し違っており、補修した痕跡があった。
朱音は事故と何か関係があるのだろうかと思ったが、それにしては力弥の表情はどこか重く、どこか別の場所に意識を飛ばしているようなそんな印象だった。どことなく声をかけにくい雰囲気があり、力弥の後ろで佇んでいると、ふと力弥が朱音に気が付いて振り向いた。
「もういいのか?」
そうやって力弥はいつもの笑顔をこちらに向けてくれた。いつもの彼が戻ってきたと思い、安心したが、先ほどの表情が気になった。すると朱音は思わず、「どっか寄っていかない」と力弥に聞いていた。
「いいよ、今日はバイトもないしな」
力弥がそう言ってくれたので、朱音はバスロータリーを囲む駅ビルの一つに入っているコーヒーチェーン店に行こうと誘った。そこはコーヒー以外にチョコレートパイでも有名な店で、ちょうど駅前広場を上から見渡せる場所に店を構えている。
二人は注文したものを受け取り、店の奥に進むとちょうど広場を見渡せる窓際の席を確保できた。
辺りはすっかり暗くなり、街頭に照らし出された広場には帰宅の途に就く人々が行き交っている様子が見えた。そんな忙しない人々を見下ろしながら、力弥とのんびりお茶をしている今の時間が何だか贅沢に感じた。
「そういえば、力弥はまだあの店でバイトをしているの?」
朱音は今まで『リッキー』という愛称で呼んでいたが、クラブの雰囲気に合わせて、名前をそのまま呼ぶようにしている。
「まぁな。気を使わなくていいし。朱音はバイトを始めた?」
「うん、塾講」
「この辺で?」
力弥が外の景色をちらりと見ながら聞いた。
「えっとね、M沢の方」
「へー、楽しい?」
「中学生がね、生意気なんだけど、可愛いよ」
朱音が楽しそうに語るのを見て、力弥もつられて笑顔になった。
「朱音が先生かー、何気に合っているかもな」
そう言いながら、力弥はマグカップにつがれたコーヒーに口をつけた。
「塾講も楽しいけど、他にも面白そうなバイトはあったけどね。あ、そのうちインターンシップとかも行ってみたいんだ」
「そっか、色々考えてるんだな」
力弥の言葉は温かさがあるものの、それは他人に向けられたもので、彼自身にはそのぬくもりは伝わっていかない。朱音はふとそんな感覚を受けた。
「力弥はどうするの、インターンとか興味ないの? それとも大学院に行くとか?」
「さぁな。何にも考えてないな」
そう言って力弥はコーヒーを口に運びながら、窓の外を眺めた。力弥の視線は街灯の下を歩く人々ではなく、その先の建物と建物の間に広がる暗闇の先に向かっている。
そこには何もないが、朱音の目には、彼は失くしたものを求めるように、黒い空間を必死に見つめているように映った。
「まぁ、まだ一年生だしね、これから考えればいいよね」
朱音はそう言って、ホットカフェラテを口に運ぶ。朱音の言葉に対する力弥の返事はなかった。遠くを見つめる力弥の横顔を朱音は見ながら、彼には未来が見えていない、そんな漠然とした思いが頭の中をかすめた。
見えていないのか、見ようとしないのか、力弥は未来を見れない呪いでもかけられているように、何かを思い出しては未来を考えないようにしている。力弥の顔を見つめるうちに、朱音にはそんなことを考えていた。
それは同時に朱音にも未来の力弥の姿が見えないことを意味した。彼がどこかに行ってしまう、そんな言いようのない不安が彼女を襲う。朱音はそれを拭い去ろうと力弥に問いかけた。
「力弥はさ、どこにも行かないよね」
思いもよらない言葉だった。
誰かがどこかに行ってしまったことを悲しんで力弥にはそうなってほしくない、そんな聞き方をしていることに朱音自身が驚いていた。すると、力弥は朱音の方に視線を戻し、彼女の正面に顔を向けると優しく微笑んだ。
「ああ、俺はどこにも行かないよ」
それは本当なのか、優しい嘘なのかは朱音には分からなかった。ただ、彼の言葉の裏には誰かが自分たちの傍を離れてしまったことを暗に示しているように思えてならない。
ここで一歩踏み込めば、力弥の真意に近付けるかもしれない。しかし、その代償として力弥は遠くに行ってしまう気がした。
踏み出さず、微妙な距離を保てば傍にいられる。
今はそれでいい。
朱音は自分にそう言い聞かせた。
無責任なことを言っているのは自分でも分かっている。それでも力弥は朱音に悲しい顔をしてほしくないと思ってしまった。彼女にはいつも明るく朗らかなままでいてほしいと願ってしまった。だから、そう言うしかなかった。
あいつも同じだったのかもしれない。
あいつのことを見るようになって分かったことは、あいつはいつも一人で、人との関わりを最小限にしていて、自分と同じで未来を見ていなかった。自分は本気になれるものがなかっただけだったが、あいつは本当に未来を見れなかった。自分の終わりが見えてしまって、進路を考えられなかった。
それがこんなに辛いものだって今更理解した。
こうして朱音といることも後ろめたい。
いつ彼女が奴らの毒牙にかかるか考えると胸が痛い。
だから、一人でいるのが楽なんだよな。
分かった気でいた。分かった気になって、あいつを孤独の檻から出してしまった。
あれは正しいことだったのか、今では分からなくなった。
力弥は正面で学習塾のアルバイトであったことを楽しそうに語る朱音の顔を見つめた。ただ、こうして誰かといるのは、それだけで救われる。
例え、俺が明日奴らとの戦いで死んでしまったとしても、今はただ誰かと笑い合えれば、それでいいのかもしれない。
あいつもそう思っていたのかもしれない。
そうであってほしい。
だから、これでいいんだ。
力弥はそう自分に言い聞かせると、「そろそろ帰ろっか」と朱音に言った。朱音はスマホで時刻を確認すると、「そうだね」と言って立ち上がった。二人はカップを返却棚に戻すと並んで歩いた。
二人の想いは交わらない。例え、うちに秘めた想いが同じであったとしても、並行して続く二つの道の上を二人はそれぞれ別々に歩いている。互いの顔を見て、話はするが、手を取って同じ道を歩くことはない。
もし、道が交差してしまったら、一時は近付くことはできても、すぐに離れてしまうかもしれない。それがお互いに怖いのだ。離れたくない思いと、失いたくない恐れが、二人を平行線の道の中に閉じ込める。
今日も二人は共に歩きながら、互いの距離を確認している。
力弥は自宅のデスクにつくと、ノートパソコンを開いた。そして、徹からもらったデータの整理作業に取り掛かることにした。そのために改めて資料を読み直していると、この資料はよく調べられているものの完ぺきではないことが分かった。
怪物たちとの戦いについては力弥は勇輝と出会ってからのことしか知らないが、怪物たちが原因の事故や事件についてはほとんど記憶している。それらを思い出す限り、資料の中には怪物とは関係ないものがいくつか含まれていた。逆に、怪物が関わっているにも関わらず書かれていないものもある。
勇輝が夢に囚われ、力弥が救い出したときは周囲にほとんど影響がなかった。そういうものは当然含まれない。また、H駅から離れたものも同様に含まれない傾向にある。ただ、ニュースになるなど大きな事故や事件であれば資料にも入っている。
これらの事故や事件に関しては、徹独自の『怪奇性』という主観的なパラメータが与えられている。実際には怪物たちが関わっていない案件についてはこのパラメータが低めになっている。
力弥は徹の人間性に疑問を感じているものの、彼のリサーチ能力や分析力、洞察力には感心している。敬服したいと言いたいところだが、彼の人を小馬鹿にしたような態度や妙に朱音に対して馴れ馴れしいのが気に入らず、力弥は徹を先輩として尊敬できない。
とはいえ、これまでの戦いの記録をデータ化するのは良いアイデアだと感じた。
そこで力弥は徹の資料とは別に、自分の記憶を頼りにこれまでの怪物との戦いに関しても、場所や日時などをデータ化し、整理することにした。今日の徹の口ぶりからすれば、このデータを整理することで奴らの背後にいる者、その何者かの意図に通じていると察した。
こうして力弥が独自にデータの整理をするのは徹の思惑通りなのではないかと思うと、少々癪に障ったが、力弥は必要なことだと自分に言い聞かせた。そして、勇輝と出会ったあの夏の最後の日から一つずつ思い出すことにした。




