第十九話 勇気
怪物の気配は国道と県道が交差する場所から感じられた。怪物が現れた影響だろうか、目的地に近付くにつれ停車している車の数が増えている。誰の眼にもこの先に異常があることが分かる。力弥は怪物がいるとされる方を睨んでは、体から溢れる黒い炎を抑えられずにいた。
怪物は交差する道の真ん中にいた。怪物は国道をまたぐ歩道橋に届かんとする巨体だった。力弥は交差点近くのアパートの屋根に降り立つと、その巨大な怪物の姿をまじまじと見た。その怪物の姿は巨大な甲殻類、端的に言えば蟹だった。
硬い甲殻に覆われた体からタラバガニのように何対もの脚が伸び、背中には魚の鰭のような一対の巨大な翼が生えていた。そして、蟹であれば眼がある部分はイソギンチャクのような無数の触手で覆われていた。その巨大な蟹のような怪物はゆっくりと県道に沿って移動している、途中の車を踏みつぶしながら。
力弥は怪物の周囲を見渡した。そして、多くの人が怪物から距離を取っていることを確認すると飛び上がり、空中で姿勢を変えると、怪物に渾身の蹴りを入れた。蹴りのインパクトの瞬間、力弥の黒い体から放たれる黒い炎は蹴り脚に集約していた。
怪物は歩みを止め、態勢を崩しそうになるも無数の脚を巧みに操っては姿勢を維持した。そして、触手で覆われた顔が力弥を捉えた。
すると怪物は巨大な脚を振り上げ、力弥に向かって振り下ろした。先ほどまでのゆったりとした動きからは予測できない素早い動きだった。
力弥は一メートルほど後方に飛びのいて、蟹怪物の攻撃を避けるも、すぐさま別の脚が振り下ろされた。タイミング的に避けることが難しいと判断すると、力弥はそれを両手で受け止めた。怪物が体重をかけてくるが、この程度の重さなら変身した力弥にはどうということはない。この脚をどう対処するか考えていると、手に白い何かが付着しているのに気が付いた。
「カビ?」
蟹怪物の脚に触れている部分から白いカビのようなものが力弥の体の上に広がっていくのが見えた。力弥はひとまず怪物から距離を置こうと、振り下ろされた脚を押し返すと、後方に飛びのいた。そして、手についたカビのようなものを振り払った。
怪物の足元をよく見ると、周囲には白いカビで覆われた地面が所々に見られ、潰された車も白いカビに覆われていた。ただ、この白いカビを怖れて、人々が更に離れていくのを見ると、悪いことばかりではないなと力弥は軽く笑った。
蟹の怪物が力弥の位置を改めて捉えると、力弥は再び脚で攻撃してくると考え身構えた。すると、怪物は思わぬ行動に出た。
背中の魚の鰭のような翼が燐光を放ったかと思えば、怪物の体がふわりと浮いた。「マジかよ」と力弥が呟き、空を舞う蟹の異常な姿に茫然としていると、蟹の怪物は既に力弥の頭上近くにいた。
「まぁ、そう来るよな」
前にもあったなと呟こうとしたその時、蟹の怪物はそのまま体全体で落下して力弥を踏みつぶそうとした。
力弥は後方に飛びのき、怪物のプレス攻撃から逃げることができたが、既に蟹の怪物は一番長い脚を振り上げていた。力弥はその脚が見えていたが、避けることも受け止めることもできず、油圧ショベルのような脚に吹き飛ばされた。
力弥の体は地面を転がり、マンションの前で止まった。そこは分岐する道路とそれに直行する別の道路とに挟まれた三角州のような場所で、マンションや戸建て住宅が建っている。交差点からは十メートル以上離れており、幾人かの野次馬がそこにはいた。
しかし、その場所に力弥が吹き飛ばされたことで、野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。力弥はそれを見て少し安心すると、よろけながら立ち上がった。
戦いは常に一人、虚しくもないし、寂しくもない。
この二年間、ずっとそうだっただろ。
力弥は自分にそう言い聞かせながら、蟹の怪物を睨んだ。
力弥と蟹の怪物の間には歩道橋があり、怪物はそこで前に進めずにいた。その姿が滑稽で、あんなマヌケの攻撃を受けてしまったのかと力弥は肩を落とした。ここまで防戦一方であった力弥は攻撃に転じようと、怪物が歩道橋の前で戸惑っている隙に飛び上がった。
そして、空中で体勢を変え、黒い炎を足に纏わせ、渾身の蹴りを入れようとした。すると、怪物は身を屈め、腹側を守るように背面の甲殻を力弥に向けた。背中の甲殻はごつごつとし、所々から棘のようなものが見られた。力弥の蹴りはその甲殻に命中したが、あまりの硬さに手応えはなかった。
「かってぇ」
力弥は地面に降り立ち、さらに拳を叩きこむが、蟹の怪物の甲殻を砕くには至らなかった。むしろ、殴るたびに手に白いカビのようなものが付着していく。すると怪物は甲殻を力弥の方に向けたままじりじりと歩き出した。力弥は一旦、怪物の体を両手で支えた。
怪物は無数の脚で地面に踏ん張り、力弥の体を押していく。屈んだことで歩道橋の下をくぐり、力弥の体を押したまま道路に囲まれた三角州の方へ向かっていった。力弥は怪物の体を押し返そうとするが、巨大な怪物の力は強く、また手にまとわりつくカビが気になって思った力が出ない。
一旦、この攻撃をいなして、側面から攻めて脚を引き抜くでもしないと埒が明かない。力弥はそう考え、側面に飛びぬこうと周囲を見渡した。その時、自分の後方のコンビニエンスストアの前に逃げ遅れた男児が泣き叫んでいるのが見えた。周囲に大人らしき姿はない。力弥は怪物を押しとどめようとするが、少しずつ子供の方に近付いて行ってしまう。
「くそ、どうする」
怪物の巨体を押し返そうとするが、子供との距離は既に二メートルにまで迫っていた。子供は逃げる際に転んでしまい、どうにか立ち上がろうとしているが、怪物の姿に慄いて体が硬直してしまっている。子供の後ろにはコンビニエンスストアがあり、このままでは子供は怪物とコンビニの建物に潰されてしまう。
その時、視界の端で誰かが子供に駆け寄るのが見え、力弥はその方に視線を移した。
それは斗星暁人だった。
既に怪物との距離は目と鼻の先、逃げようにも無数の脚が動き回り、逃げ道はほぼないに等しい状況だった。斗星暁人はどうにかして子供を守ろうと、その小柄な体で泣き叫ぶ子供の体を庇うように覆った。力弥はその姿にかつての自分を見た。
巨大な怪物を前にして、勇気を奮い立たせ、その身を挺して幼子を守る姿は二年前の自分と同じだった。
きっと、斗星暁人も自分と同じなんだ。
目の前の怪物が常識外の存在で、矮小な自分では太刀打ちできないとしても、誰かを守るためには勇気を出せる。
そんな考えと同時に力弥の頭にはかつての相棒の姿が浮かんでいた。
「勇輝・・・」
あの時のあいつは今の俺と同じことを考えていたのだろうか。
自分のふがいなさを嘆きながら、何の力も持たないただの人が勇気だけを武器に立ち上がったのに、このままでいいのかと。俺の力はこんなものなのかと。
その時、力弥の胸に忘れかけていた思いの欠片から炎が燃え上がるのを感じた。それは力弥の周囲を覆う黒い炎ではない、赤く、強く、そして暖かな炎だった。
暁人は神社を出ると、黒い男に変身した力弥を追って国道沿いの歩道をとにかく走った。はじめはただ彼の行った先を勘で追いかけているだけだったが、国道が混雑し、人々が集まっているのを見るにつれ、この先に何かがあると確信した。
異常が起きている場所に近付くにつれ、その場所に向かおうとする人は減っていった。むしろ、そこから逃げてくる人が増えている。暁人はその人たちが逃げてくる場所の先を前にして足を止め、その方向を見つめた。
この先には力弥がいて、異形の怪物もいる。そこはただの人では立ち入ることすらできない空間であり、そこへ向かう意味を考えた。
怖い。
その場に行くだけで死んでしまう可能性が高い。そこに何があるかを知っていて向かうことは蛮勇と言わざるを得ない。それでも、力弥のあの寂しげで悲しげな声の理由が、彼をこの世界でただ一人にしてしまっていることなら、自分だけでも記憶に留めたい。
暁人は今一度、そのことを心に留めると再び走り出した。
歩道から出て、植え込みと車道を越え、異常が起きている場所へ足を進めた。暁人が抱く思いは孤独な力弥に対する憐憫とは違った。暁人は弱い自分が嫌いだった。だから、一人で戦い続ける力弥に憧憬に近い思いを抱きつつあった。暁人は力弥に強くなる手がかりを求めていた。
道路に挟まれた中州のような場所に暁人は辿り着いた。そしてコンビニエンスストアの前を通り、その先の大きな道が交差する場所を見た。そこには巨大な怪物とそれに対峙する力弥の姿があった。無数の脚をもつ蟹のような怪物に対して、力弥は苦戦しているように見えた。
巨大な蟹に攻撃しているようだが、怪物はびくともしていない。むしろ、怪物と力弥が徐々にこちらに近付いているように見えた。暁人は後ずさりをし、距離を取ろうとした。また、コンビニ内やその隣の集合住宅から人々が逃げてくるのが見えた。
力弥が怪物を抑え込もうとしている姿が見えてきたが、怪物の勢いは衰えない。暁人は流石に他の人たちと一緒にもっと離れようとした。
「うわあああああああん」
暁人が茫然と立っていると、コンビニの前で一人の男の子が転んで泣き叫んでいた。周囲に親らしき姿はない。気付いていないのか、人混みに押されてしまったのだろう。怪物がもう目の前までいる。このままだとあの子は潰されてしまう。
そう思った時には暁人の体は動いていた。
どうしてだろう。
同級生に脅されたり、殴られている時は怖くて動けなかったのに・・・。
こうして誰かが泣いている時はすぐに体が動いてしまった。
こんなことをしても、結果は変わらないし、自分だって死ぬだろうに。
そんな思いとは裏腹に、暁人はその男の子を庇うように、自分の体で男の子を覆った。運が良ければ、この男の子は助かるかもしれない。それは単純な自己犠牲とは違った。暁人は自分のことではどうしても本気になれなかったが、他人のためなら強くなれた、それだけのことだった。
ブルドーザーのように迫りくる怪物とコンビニの建物に潰されて自分は死ぬ。巨大な何かが迫ってくる気配を感じながら、暁人はそう考えた。
しかし、自分の体を圧し潰す衝撃はいつまでも来なかった。むしろ、背中が熱くなっていることに気が付いた。暁人は恐る恐る顔を上げ、怪物の方を見た。
そこには黒い炎を全身から湧きたたせ、怪物の動きを封じている力弥の姿があった。背中に感じる熱は力弥の炎だった。そして、力弥はじりじりと巨大な怪物を押し返し、コンビニの建物から離れ、道路の方へ怪物を押し戻した。
暁人は力弥の炎を見ながら、何か以前とは違う雰囲気を感じつつも、それが何か分からないでいた。しかし、すぐに力弥の作ってくれたこの好機を逃すまいと泣いている子供を抱きかかえ、その場を離れた。力弥はそんな暁人の姿をちらりと見ると、更に炎を体から噴出させた。
炎は次第に力弥の両手に集積し、それぞれの前腕から刃が現れた。そして、蟹の怪物の脚の関節部に向かって刃を振り上げ、力弥の位置から近い一本の脚を切断した。蟹の怪物は力弥の攻撃を怖れ、彼から離れようとするが、慌てていたせいか怪物は体を引き起こしてしまった。
比較的柔らかい腹側を怪物は出したことを力弥は見逃さず、すぐさま距離を詰めていった。そして、怪物の腹に両腕の刃を突き刺すと、刃を伝って黒い炎が怪物の中に注ぎ込まれていく。
「焼き蟹にしてやるよ」
炎が力弥から蟹の怪物に伝わり、怪物の体の中が炎に満たされていくことが容易に想像できた。甲羅の隙間からは溢れた炎が顔を出し、蟹の怪物は動きを止め、ガラガラと音を立ててその場に崩れ落ちた。それと同時に蟹の怪物の体は黒い塵となり、周囲に拡散された白いカビと共にこの世界から消えて行った。
力弥は周囲を見渡し暁人の姿を見つけると、何かを言いたげにしていたがすぐに空を見上げて飛び去って行った。暁人は自分以外の人々が茫然自失しているのを見て、これが記憶の改ざんだと気付いた。そして抱えていた子供を優しく下すと、力弥の飛び去って行った方向へ走った。
しかし、どこまで走っても力弥の姿を見つけることはできなかった。やがて、力弥と話していた神社を抜け、天衣無縫まで辿り着いたが、そこにも力弥はいなかった。肩を落としている暁人を見かねた天衣無縫の店長は暁人に声をかけた。
「彼は明日も同じ時間にシフト入っているから、またいらっしゃい」
まだチャンスはある。暁人はそう考えることにした。
「はい、ありがとうございます」
そう言って、店長にお礼を言うと店を出た。晴れ渡った青空を眺めながら、色々な考えが頭の中を駆け巡った。力弥はどこに行ったのだろう、怪物の暴れた現場はどうなったのだろう、また怪物は現れるのだろうか。
この先も怪物がこの街に現れ、現場に向かうならもう少しこの街に詳しくなった方が良いのではないかという考えに至った。そこで、今日の午後は周辺を歩き回って、少しでも道を覚えることにした。




