第十六話 再会
社会人はこんなものを毎日着るのか。
暁人は鏡の前でスーツ姿の自分を見つめながら思った。そして、服装と顔とのギャップに違和感を感じていた。高校を出たての幼い顔の自分にスーツが似合わないのは仕方ないとしても、染めた髪との相性は良くない。
「ピアスまで入れなくて正解だったかな」
今までの自分から脱却しようと、眼鏡をやめてコンタクトを入れて髪を茶色に染めるという、所謂『大学デビュー』をやってみた。しかし、入学式の後でも良かったのではないかと今更ながらに後悔している。後悔しても始まらないので、仕方なく駅に向かうことにした。
今日はこれから都内のA山キャンパスで入学式がある。両親は昨日から都内のホテルに泊まっており、渋谷駅で待ち合わせすることになっている。入学式の開始時間までは余裕はあるが、首都圏の複雑な電車に慣れていない暁人は早めに出発しようと考えた。
京央線は最寄り駅から途中最低一回乗り換えることで渋谷まで行くことができる。しかし、停車駅によって様々な種類があり、電車に乗る機会の少ない暁人は面食らってしまった。各駅停車は分かるが、区間急行と快速の違いが分からない。そして、急行の上に特急がある。この特急には特急料金がかかるのだろうか。
前日の夜に暁人は自宅から持ってきたノートパソコンで京央電鉄のホームページを見ながら、それらの違いを理解しようと努めた。そして、何となく分かった気になったが、スマホの乗り換えアプリを頼りに行けば何とかなるだろうという結論になった。
スマホや貴重品、電車の中で読む本などを入れたバックパックを背負うと下宿先を出た。近くの幼稚園では子供たちが集まりつつあり、可愛らしい声が響く。その声を聞きながら、駅に向かった。そして、駅ビルを望む小道を歩いていると先日の黒い男に変身した男性のことを思い出した。
あの後、ネットニュースを見てみたが、駅前での出来事は駅ビルの看板の落下事故ということになっていた。自分が見たのは夢だったかと思ったが、見たものの姿ははっきりと脳裏に焼き付いている。また、黒い男に押された感触や、彼の炎から感じた熱も確かに覚えている。しかし、SNSで様々な検索キーワードを入れてもあの怪物や黒い男のことは出てこなかった。
暁人はあの男性にまた会えると期待していたが、あの日以来、会えていない。あの時に感じた、また会えそうな予感はただの気のせいだったのかと残念な気持ちになった。そんなことをぼんやり考えているうちに、駅に到着していた。
通勤ラッシュの時間より遅い時間ではあるが、新宿行きの特急電車には多くの人が乗り込んでいった。始発駅でこれだけ人が乗るのなら、この後どうなるのかと暁人は不安を感じていた。ラッシュ時を外していたのでぎゅうぎゅう詰めということはなかったが、渋谷駅まで一度も座ることができない程度には乗客は多かった。
入学式というのは大学だから特別違うということはなかった。とにかく大人が何かにつけて話したがる場であることに変わりはない。何かためになりそうなことを言っていないか、暁人は気を配ってみたものの、特段何もなかったというのが率直な感想である。
入学式の直後にも関わらず、幾人かの学生らは集まっている様子が散見された。この大学には高等部があり、そこからの内部進学生だろう。大学に入ってすぐに友人ができているのを暁人は羨ましそうに眺めていた。まぁ、授業が始まってからでも大丈夫だろうと自分に言い聞かせた。その後、暁人は両親と正門前や学内で写真を撮るなどをしてから、帰宅することにした。
既に太陽は西の空に傾き、街は夕日の赤に彩られていた。A山キャンパス前の通りを道なりに歩き、宮益坂を下りて駅に向かった。駅に近付くにつれ、帰宅の途につく人々が目に付く。
バスターミナルを望む交差点は信号待ちをしている人で溢れていた。暁人はそんな人々の最後部でぼんやり立っていると、突然肩を叩かれた。暁人は何か呼びかけられるようなことをしただろうかとドキドキしながら、そちらを振り返った。
そこには彼に忌まわしい記憶を植え付けた人物の一人がいた。
「よう、斗星」
そこには眼鏡をかけたやや長髪の男性が立っていた。暁人と同年代で、スーツを着ている。暁人と同じように大学の入学式の帰りのように思える。暁人に声をかけた男性は、その眼鏡の奥の目を細めると薄ら笑いを浮かべた。
暁人は声を出せず、唇がぶるぶると震えている。そして、この場において自分と同様にスーツを着ているということから、目の前の人物も同じ大学に入学しているという可能性に気付くと愕然とした。
「お前も蒼学か?」
そう聞かれて、暁人は目の前が真っ暗になった。背中は汗をかき始め、心臓が激しく脈動し、息が苦しくなってきた。すると信号が変わり周囲の人が歩き出し、自分が渋谷の街にいることを思い出した。そうした風景の変化が暁人の精神の乱れを抑えてくれた。
「う、うん。さささ、佐野君も?」
それでも呂律が回らず、相手の名前を呼ぶのが精いっぱいだった。呼吸を整え、少しずつ平静さを取り戻そうと努めた。
「やっぱりな。さっき大学で見かけてもしかしてって思ったよ」
「ふ、ふーん」
暁人は逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、恐怖で上手く体が動かなかった。
「これからさ、田島と加山と遊びに行くんだけどさ」
「た、田島君も蒼学なの?」
暁人はもっとも聞きたくない名前を耳にして、その場に立っていること自体が辛くなってきた。本人がいたら、腰が抜けていたかもしれない。
「いやいや、あいつはもっと良いところ行ってるよ。でよ、ものは相談なんだけど、お前、金かしてんれない?」
四月はこんなに寒かっただろうかと錯覚するほどに、暁人の全身を冷たいものが覆った。せっかく、あの地獄から抜けて来たのに、東京に来ても続くのかと暁人は戦慄した。そして、弱くて逃げるしかない自分から変わりたいと思っていた決意がガラガラと砕ける音が聞こえた。
その時、彼の視界の端で信号が変わりかけていることに気が付いた。暁人は激しく脈動する胸を押さえ、息を整えた。
逃げるしかない。
佐野一人であれば逃げ切れると考え、震える足に力を込めた。
「ご、ごめん。この後、用事あるから」
そう言って、信号機が赤に変わりつつある横断歩道を全力で駆け抜けた。佐野が後ろで何かを言っているのが聞こえたが、一切耳を傾けず、人混みをかき分けながら暁人は渋谷駅の京央線乗り場まで走り続けた。
長いエスカレータを駆け上り、交通用ⅠCカードをかざして改札を抜け、今まさに発車しようとしている急行電車に乗り込むとようやく一息つくことができた。そして、電車のドアにもたれかかり、息を整えながら外の景色を眺めた。
結局、逃げ出してしまった。
強くなりたい、立ち向かえるようになりたいと思っていたのに、それは叶うことはなかった。
変わりたいと思っていても、自分に恐怖を植え付けた元凶を前にしてはどうしようもないのだなと、暁人は己の弱さを嘆いた。一方で、これは果たして自分だけのせいなのか、そもそも自分を『いじめ』てきた彼らが悪いのではないか。
変われない自分への悲嘆は、やがて自分を追い込んだ他者への憎しみに変わりつつあった。暁人は自分をいじめてきた彼らへの恐怖が憎悪に変わろうとした時、ふいにガラスに映る自分の顔が目に入った。
その誰かを憎まんとする自分の表情に暁人は気付くと自分の中にある黒い何かを見たようで戦慄した。次の瞬間、ガラスに映る顔は普段の自分に戻っていた。そして、車内アナウンスが流れ、降車駅が近いことに気が付いた。
「明大前、明大前。お降りのお客様はお忘れ物などなさいませんように・・・」
目の前のドアが開き、暁人は乗り換え駅に降りた。そして、周りの人混みに合わせて歩いた。自分の中の黒いものは、弱い自分を覆い隠して強く見せようとする何かなのだろうか。それは果たして強さなのか。暁人は乗り換えホームの場所を確かめながら、モヤモヤと考え始めた。
この黒い誰かを憎む感情がどうして今更自分の中かから現れたのか。もし、あの時にこの強い感情が自分を支配していれば、その時に何か変われたのではないか。自分はあの頃から何か変わったのか。
自分の中の黒い感情のことを考えているうちに、先日の黒い男に変身する青年のことを思い出した。彼の纏う黒い炎はまるで自分の中にいた黒い憎悪と同じように思えたのだ。その考えに至る頃には、暁人は最寄り駅に向かう急行電車に乗っていた。
そして、ドアによりかかって外の景色を眺めていた。日は沈み夜となり、電車の車窓からは街の明かりが見えていた。
あの人の心は誰かを憎んだり、恨んだりする心が支配しているのだろうか。
でも、時折顔を出す悲しみは何なのだろうか。
悲しみが憎悪を生み、やがて悲しみは憎悪の海の中に沈んでしまったのか。
電車は地下に入り、車窓の景色は完全な闇となった。暁人は何もない闇の先を眺めては、憎み続ければ自分は強くなるのか、そうすべきなのかを闇の先に問いかけたかった。しかし、問いかけるべき相手はあの青年なのではないかと思い直すと、そっと目を閉じた。
*
今日から大学生としての日々が始まる。暁人はSキャンパスの正門の前に立つと、様々な感情が自分の中から溢れ出してきた。本来であれば希望に胸を高鳴らせて大学の門をくぐるはずだった。しかし、昨日の佐野との再開が暁人の明るい大学生活に影を差した。
学部や学科が違えば出会う可能性は低い。
それに新しく友達を作ればいい。
そして、嫌なら嫌とはっきり言えばいい。
そう自分に言い聞かせると、暁人は胸を張って大学の正門を通り抜けた。しかし、周りの学生たちの中に佐野がいたらどうしよう、彼を目の前にしたらまた足が震えてしまうのではないか。そう思うと不安感でいっぱいになった。
そうやって正門を入って数メートルのところで暁人は佇んでいると数人の学生たちに暁人は囲まれてしまった。
「ぼくたち、ウィンディサークルっていうテニスサークルなんですけど。新入生ですか?」
暁人はおそろいのウィンドブレーカーを来た数名の学生たちからサークル勧誘を受けていた。よく見ると、周囲には同じようにサークル勧誘している学生らが新入生に声をかけていた。
「ねぇ、新入生ですよね?」
「あ、はい」
暁人の不安をよそに、大学二、三年生と思われる学生は声をかけてくる。暁人はそんな遠慮のない彼らの態度にむしろ救われた気がした。
「今度、新歓コンパをするんで来てくれませんか。これビラ」
そう言って勧誘者たちはビラを渡すと次の学生に声をかけに行った。暁人は茫然としていたが、それは同時に地獄のような高校生活とは隔絶された場所であることを感じさせた。そして、少し気分が軽くなるのを感じながら、顔を上げて歩き出した。そこへ新入生と分かるや次々と学生らが暁人に声をかけていく。
「君、新入生だよね。オールラウンドサークルに興味ない?」
「うちもテニサーなんだけど、新歓に来ない?」
「ねぇ、ダイビングとかやってみたくない?」
上級生らの熱烈なラブコールは嬉しい反面、彼らの勢いに暁人はすっかり気圧されてしまった。そして少し怖くなって後ずさりしていると、誰かにぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
暁人が後ろを振り返ると、そこには思いもよらない人がいた。あの青年にまた会えるそんな予感がするという暁人の直感は正しかった。そう、そこには黒い男に変身する、あの日に出会った青年がいたのだ。
暁人は彼の存在に驚き、ぶつかった拍子に自身の体勢を崩していることに気が付かなかった。すると、その男性は倒れかける暁人の背中に手を回し、倒れかけていた彼の体を支えた。
「危ないよ」
目の前の青年はあの日のことを覚えていないのか、暁人に笑顔で声をかけた。あの日にも見たアンダーリムの眼鏡が爽やかさと優しさを感じさせた。そして、暁人が自分の足で立つまで支えてあげていた。
「あの、ありがとうざいます」
暁人は力弥の方を見つめながらお礼を返すと、あの日のことを聞こうとした。すると、離れた場所から誰かが目の前の青年に声をかけているのが聞こえた。
「力弥さーん、朱音さんが呼んでますよー」
「おう、今行く」
力弥と呼ばれた男性はそう言って返事をすると、暁人の方に向き直った。
「次は気を付けなよ」
そう言って、青年は手を振りながら立ち去って行った。暁人は「はい」と彼に聞こえるか聞こえないかの声で返事をした。そして思わず「カッコいいなぁ」と声が漏れていた。外見だけでなく、転びそうな人を支えてあげるさりげない心遣いや優しい声かけに至るまでが全てが洗練されていた。心なしか今の青年のやり取りを見ていた周囲の女子学生から黄色い声が漏れているような気がする。
「力弥さんか」
暁人は今の青年の名前を頭に入れると、学科の授業のオリエンテーションのある教室に向かうことにした。




