ep55 ブックメーカー
【コーデリア皇女】
嗅ぎなれない薫りと空気が流れる気配で私は目覚め身体を固くした。
揺らめくオレンジの明かりが天蓋のカーテンに映り、男の手がドレープを作ったシルクのカーテンを僅かに捲った。
「起きてらっしゃいましたか、コーデリアさま。」
「ぎ、ギボンズ。何故、私の寝室に?しかも夜遅くに。」
「少し、コーデリアさまと内密の話がしたくてね。」
母の寝室は此の寝室へ入る手前に或る筈なのに、母が起きている気配がない事に私は身を固くして、ランタンの明かりに照らされ、歪んだ笑顔を見せているギボンズを睨みつけた。
「ああー、心配なさらず。ふっ。大丈夫ですよ、警戒せずとも。コーデリアさま。ワタシはコーデリアさまを襲う心算も傷つける心算もありません。今後の事もありますからね。ワタシはコーデリアさまと仲良くしていきたい、と考えているのですよ。」
ギボンズはそう囁くように告げてから、天蓋のカーテンを開いてクリスタルガラスの水差しを置いたサイドテーブルにランタンを置き、広い寝台の足元に腰を下ろして、私の顔を油断なく見た。
私は、ギボンズが自分の寝台に触れたことへ激しい嫌悪感が湧き、自然と眉間に力が入っていった。
「まあ、夜も遅いので用件だけを手短に伝えましょう。実はお母様のノイザン公爵夫人がコーデリアさまの父君を殺した証拠をワタシが持っているのですよ。」
「、、、う、うそ。よ。」
「いいえ、哀しい話ですが本当です。実の母が実の父を殺すなど、本当に不幸なお話です。コーデリアさま。妻が夫を殺す物語など良くありますけでね。しかし此の不幸な話が、表に流れたならば、どんな悲劇が訪れるでしょうか、、、ねっ?ん?」
勝ち誇った表情でギボンヌは灯ったランタンの明かりの中で私を窺うように視線を合わせて来た。
そんな事に成れば、幾らアハルト公国の姫だからと言っても、母は無事では済まないだろう。
アハルト公国とブレイス帝国との断絶は決定的となり、何方の王家も傷を負う。
今、ギール王国へ入ることが決まっているレオナルド叔父さまの話もどうなるか。
そうして私は、、、。
そこまで私が考えた時、寝室の扉があく音がして、小さな足音が聴こえた。
「コーデリア殿下?話し声が聴こえたので夜分、申し訳ありま、、貴方はギボンズ、、、様。どうして、こんな時間に、コーデリア殿下の寝所に。」
「ワタシはコーデリアさまから話があると呼ばれただけだ。リアナ嬢こそ、何故ここに?ノイザン公爵夫人の部屋の入り口には護衛が居た筈だが?」
「居なかったので不審に思って、コーデリア殿下の様子を伺いに来たのです。大丈夫ですか?コーデリア殿下。」
「ええ、有難う、リアナ。」
「ワタシはコーデリアさまに呼ばれてきたのですよね?ねぇ、、、コーデリアさま?」
「、、、うっ、え、ええ、そうね。」
「では、コーデリアさま。夜も遅いので話の続きは後日、お休みなさい。」
そうギボンズは告げて、ランタンをサイドテーブルから左手で取り、悠然と私の寝室からオレンジの明かりと共に去って行った。
リアナは、ギボンズがランタンを持ち去り訪れた暗闇の中で、器用に火種を出して壁に掛かったオイルランプに火を灯して、私の視界を明るく照らしてくれた。
「コーデリア殿下。お顔が真っ青ですよ。何か良からぬことをギボンズに。」
「、、、いえ、何でもないわ。ギボンズと二人きりだったから緊張したのね。来てくれてありがとう、リアナ。」
私は心からリアナに感謝の言葉を述べた。
あの侭ギボンズの空気に飲まれて話を続けていたら、私は良からぬ何かに巻き込まれて仕舞っていただろう。
ギボンズは、それを望んで此処へ現れたのだろうけれど。
母へ話すのではなく、深夜コッソリと私にギボンズは話を持って来た。
でも、扉の向こうに或る寝室で眠る母は如何したのだろう。
母が居れば、ギボンズが私の寝室へ入ることを幾ら何でも許しはしないだろう。
母は私に貞淑であるように、17歳を半ば過ぎた今でも私を囲い込む様にして日々を暮らしている。
私が習い事をしている間に、ギボンズの部屋に通う母を知っているだけに、その事に私は呆れてしまうけども。
私はギボンズが寝室へ入って来たのに反応の無かった母を心配して、慌ててリアナに母の様子を尋ねた。
「ノイザン公爵夫人は、ぐっすり眠っていらっしゃいましたよ。」
リアナは私を安心させるように優しく微笑んでそう答えた。
それを聞いて安心した私は口の中がカラカラに乾いている事に気付いて、リアナに水を持って来るように頼んだ。
サイドテーブルの上に置かれたクリスタルガラスの水差しを持ち、リアナは静かにグラスへと水を注いだ。
ふと顔を上げるとオレンジの明かりに照らし出された窓に雨粒が当たっているのが、メイド達が降ろし忘れていたレースのカーテンのドレープの下から見えた。
この季節に雨が降るなんて。
何処までも広がる夜の暗闇に湿度が混じって来るのを感じて、私は薄い夜着の肩から肌寒さに包み込まれて行った。
※※※※※※※※※※
お馬鹿な弟ケビンからの事後報告を受け、幾ら捨て子だからと言って夜間に大人が皆無と言うケビンの話は捨て置けず、ハーマー通りに或る実家のテラスハウスへ『ショーン、ケント、デニー』を連れて来させて、執事のカールソンと妻でメイド長で或るリリーに世話を頼んでおいた。
取り敢えず、俺よりも真面目なカイルは、家からライブリッジカレッジへ通っているから無理のない程度で、子供達を観てくれるように頼んでおいた。
俺も大抵に緩い性格だけど、ケビンの大らか過ぎる性格に、ドッと疲れを感じる兄弟で再会した2カ月ぶりの5月の午後だった。
アランも元気で遣っていると良いけどな。
そんな話をしながら、俺はクランベル伯爵と伯爵邸に或るビリヤードルームで訪れている野郎共とも挨拶を交わした。
屋敷の目の前に或るスクエアガーデンの一角では、クランベル伯爵の母親と一粒種の嫡男スティーブンとで、クランベル伯爵に招かれた貴婦人たちとティー・パーティーをも催している。
シーズン中は、幾度かこう言う日があるので、俺は余り参加したく無くて、ジーンに回避するように頼んでいた筈なのに、スケジュールを読むのが完璧なジーンらしくなく、偶にポカをしてこうして参加する羽目に陥る。
まあ、今日は貴婦人たちの相手に飽きた紳士たちの集いだけども。
ブックメーカー役のフレイル伯爵が、真剣な表情で後攻で打ってるハリーズ男爵の邪魔に成らないように立って球の行方を目で追っていた。
先攻のフローズン侯爵も息をのんでゆったりとしたソファーに座って緊張した面持ちでビリヤード台を見つめていた。
2人のギャラリー(賭けてる奴等)であるトゥエイン男爵とキュー子爵もソファーに座って、ジッと白い球を目で追っている。
ブックメーカー役のフレイル伯爵は金満家で或るけど、あくまで役であって素人の筈なのだけども。
ただのビリヤードに此の緊張感は、俺からすれば可笑しいって思う。
絶対に「そんな馬鹿なっ!」ってオッズでフレイル伯爵がゲームメイクしたのに違いない。
つうか、勝負しているハリーズ男爵とフローズン侯爵2人で賭ければ面倒は無いのにと、賭けが嫌いなって言うか、憎しみすら抱いている俺は思う。
父の従弟もこんなことで借金を増やしたかと思うと俺は溜息しか出ない。
そのお陰で、クランベル伯爵にあしらわれつつ、俺は慣れない日々を今でも悪戦苦闘して過ごしているのに。
俺の気持ちを察したのかクランベル伯爵は俺を空いている喫煙出来るテーブルへと誘った。
ジーンとアールが、シダの一片で葉巻に火を点け、ゆっくりと円を描くように空気を回して、ソファーに座ったクランベル伯爵と俺に渡して呉れた。
左手で受け取った葉巻を3本の指で抓んで、俺は切られた吸い口からゆくっりと煙を吸い、口の中で燻らせ、久し振りにエスニア産の葉巻を吹かした。
すると座った左後方から喜ぶキュー子爵の声が聴こえて、フローズン侯爵の話声と喜色に満ちたハリーズ男爵の声が聞こえて来た。
あの様子じゃブックメーカー役のフレイル伯爵が負けたのか。
幾ら支払うか判らないが、ご愁傷様。
クランベル伯爵邸のビリヤードルームはシガールームも兼ねているので、葉巻を吹かしたい人は室内にいる使用人へ声を掛ければ、好みの葉巻と火種を用意される。
フリップの書斎では、葉巻を吸えたけど実家やジュリアと暮らしていたテラスハウスでは、シガールームは無い。
無理を言えばジーンの居た部屋なら吸えただろうけど、女性がいる場所で葉巻を手にするのも、気が引けるしね。
「しかし、子供を引き取ったなら、未だ未だ下の弟のケビン少佐は婚姻する気が無さそうだね。アドミラルを休んでいるカイル大尉の相手は決まっているのかい?チャーリー。」
「ケビンは無理そうな気もするけど。それとクランベル伯爵。カイルはアドミラルを辞めて外科医に為る為にライブリッジカレッジへ通っているのですよ?あれ?俺はそう報告した筈ですけども。」
「ふふっ、今辞めるのは、恩給の支払われる額的に勿体ないからね。休職扱いにしているから、そのようにチャーリーからカイル大尉へ伝えて於いて呉れるかい?弟のスレインが、カイル大尉が辞めてしまうのは勿体ないって言って居たよ。結構、カイル大尉は下の者に慕われていたみたいだね。」
「いや、有難いですけど良いのですか?クランベル伯爵。結構、ベルフ首相からクランベル伯爵って敵視されてるから、足を引っ張られる材料にされないですか?俺はそっちの方が心配ですよ。」
「その程度で、どうこうされる程に私は軟じゃないよ、チャーリー。でもチャーリー、心配して呉れて有難う。」
「いえ、クランベル伯爵に問題が無いなら良かったです。そう言えば、最近グリンジット・ハウスの方へはベルフ首相たちも集わなくなりましたね。グリンジット・ハウスがリバティ党の集会場みたいに成ってたから心配だったんですよ。まあ、コーデリア殿下の精神衛生上とても良いことですけどもね。クランベル伯爵。」
「ふふっ、グリンジットハウスは、金蔓はいなくなるし、監査は入るしで、ベルフ首相たちには、役得よりも危険の方が多くなったのだろうね。」
「はあ、碌でも無い。流石、アイスエッジ元首相の娘婿。いや、孫娘婿だったかな。」
「アイスエッジ元首相の娘婿だね。でもアイスエッジ元首相と違うのは、戦争をしてでも植民地を広げたい、とベルフ首相は考えている所だね。確かにアイスエッジ元首相は議会へ金権政治を根付かせた人だけど、財政を赤字にしたく無くて、極力他国と戦わず外交で話をつけようとしていたのは、称すべき処だと思うよ。私も色々と学ぶべき点が在ったしね。」
「まあ金権政治は兎も角、戦わずに済むのが俺も一番ですよ。友人や弟も軍に居ますから。でもヒット中将を筆頭に植民地相や外務卿や商務相もバリバリにブレイス帝国拡大派ですよね。またヒット中将を戦時大臣に復活させるみたいだし。財務卿とアドミラルの方は、財源の目途が立つまで戦わない方が良いと言っているみたいですけども。」
「まあアドミラルは、今作っている新しい帆船が整うのを待っている所だから、戦いたくない訳ではないんだよ、チャーリー。銀行や投資会社がベルフ首相を後押しをしているのだろうね。しかし来年には、ローゼブル宮殿にコーデリア殿下が引っ越すから、何事もなく国内を回して居て欲しいね。」
「とうとうですか。今の侭ならノイザン公爵夫人と離れて、コーデリア殿下お1人でローゼブル宮殿へ移れそうですね。」
「ふふ、油断は禁物だよ、チャーリー。好事魔多しだからね。」
「ええ、クランベル伯爵。」
運ばれて来たエンジ色と金で彩色された珈琲カップをテーブルに並べ、ジーンが香ばしい薫りを立てて湯気の立つ琥珀色の珈琲をカップと揃いの陶器のポットから注ぎ入れた。
「チャールズ・レスタード伯爵、私と1ゲームしませんか?」
「こんな所でクランベル伯爵と密談ですかな?レスタード伯爵。」
「フローズン侯爵に、ハリーズ男爵。密談などしてませんし、どうせ賭けこみの勝負なのでしょう?俺は似非貴族でプライドが有りませんから賭けはしませんよ。残念でした。」
「おやおや、では何の話を?」
「私もエスニア産の葉巻を貰おう。」
フローズン侯爵とハリーズ男爵は思い思いに話しながら、ジーンたちが火を点した葉巻を受け取り、口に咥えてゆっくりと味わい、淡い煙を吐き出した。
クランベル伯爵と俺も葉巻を口にして、気楽な調子で来年にはグリンジット・ハウスから移って行くコーデリア殿下とローゼブル宮殿の話を始めて、ベルフ首相に対しての話題を逸らした。
ちらりとビリヤード台の方を見ると、トゥエイン男爵とキュー子爵がゲームを開始したようだ。
何回賭けるか俺は知らないけども、フレイル伯爵、チョー頑張れ。
俺とクランベル伯爵は、これまでの戦績をフローズン侯爵やハリーズ男爵から、楽しく聞かせて貰った。
俺は、無粋だと思いつつも、興味本位でフレイル伯爵が幾ら賭けていたのかを2人に尋ねた。
容赦ねーなあ。
ブックメーカーを遣るのは、素人にはお薦め出来ない。




