4/13-③「朽ちてほしい者」
額に鈍い痛みが走った。同時に、頭部が急激に後方に押し出される。その勢いに上半身も持っていかれ、下半身を踏ん張ることができない。よろめきながら何歩か後退りした後に尻もちをついてしまう。
「……」
痛みやダメージはもちろんあったのだが、頭突きの威力としては、俺がこの有様になる程では無かったはずだ。頭突きの作用とは別に、何か推進力のようなものが働いたような。
というか、状況が飲み込めない。俺は何故長良井さんの従兄に攻撃されているんだ。微かに鈍痛が反響する頭でそんなことを長々と考えている暇もなく、雲間漏月なる男は次の行動に移った。
「立てや」
雲間漏月は倒れた俺の胸ぐらを再び掴もうと俺の方へ歩を進めて手を出そうとした。
「一体何がしたい、漏月。やめろっ!」
しばらく唖然としていた長良井さんだったが、すぐさま我に帰り、雲間漏月の腰に後ろから手を回して拘束し、進行を止める。
「どけ、世恋」
だが、相手は大人の男。いくら長良井さんでも、力で敵うはずもなくいとも簡単に拘束を解かれる。そして、雲間漏月は彼女の肩を後ろ手に触った。すると途端、少しも力を入れていないように見えるのに、彼女が後方へ5mほど弾かれる。そして、彼はまたこちらへ近づいてくる。
「おい、立て……ん?」
俺は指を咥えてそれを見ていたわけじゃない。そちらがその気なら、こちらからも一撃見舞ってやろう。俺は彼の瞬きの間に彼の背後を取った。そのまま背中を右足で蹴り飛ばす。
「……っ」
彼は前方につんのめり、そのまま地面に這いつく―
「え?」
ばらない。這いつくばりそうで這いつくばらないのだ。足首だけで全体重を支えているような構図である。今、彼と地面が形成している角度は実に30度。それなのに、その状態を維持したまま、地面に着く気配がない。それどころか、30度から60度、60度から90度、直立の状態に戻っていく。2秒の間にこれは起こった。そして、彼はこちらを振り向く。
「マイケル・ジャクソン……?」
思わずそう溢してしまった。たった今の雲間漏月の所業は、かのキング・オブ・ポップの代名詞ともいえる技、ゼロ・グラビティのまさにそれであった。だが、出会ってから今までの一連の彼の動きから判断するに、彼のそれはおそらくダンススキルなどではなく―
「お前、俺と同類か?」
彼は呆気にとられている。威嚇する表情は崩さないが、明らかに動揺している。この反応とこの問いかけはもう黒だろう。こちらとしても驚きなのだが、また一歩俺の過去に近づける喜びの方が勝ってしまう。
「あん?なに笑ってんだ?」
思わず顔に出てしまったか。しかし、長良井さんはこれを知らなかったのだろうか。俺に彼、雲間漏月の情報を何も言ってこなかったということは、知らなかった可能性が高いが…。
長良井さんの方を振り返る。
「……?」
彼女はやはり動揺していた。というより呆然としていた。雲間漏月を穴が開くほど凝視している。従妹であり、異能者でもある彼女ですら知らなかったのか。そうすると、意外と身近に異能者は潜んでいるような気がしてくる。
「おい、何とか言え」
いらだたし気に彼は俺の肯定を催促する。
「……俺も能力者です」
そう答えた。彼はようやく冷静になってきたようである。
「…とするとだ。…おい、世恋。お前もなのか?」
長良井さんも彼の真実を知らないように、彼も長良井さんの真実を知らないようだ。当然といえば当然か。
「……ええ、そうよ」
長良井さんは、その事実を噛みしめるように、従兄に起きている事態を飲み込もうとするように頷いた。
「はぁ、マジかよ…」
彼は深いため息をついた。一気に肩の荷が下りたようなそんなため息を。
「…じゃあ、何か?お前は世恋の『友達』ってことか?」
途端に、そんな拍子抜けな質問を彼はぶつけてきた。やけに友達という単語が強調されていた。
「…はい、そうなるかと」
質問内容に少し戸惑いはしたが、否定する理由も無いし、少なくとも俺はそう思っているので肯定した。
「ぶっ…はっはっはっはっはっは」
雲間漏月は思い切り噴き出して笑い始める。余程面白いのか顔が赤みがかり、涙すら出ている。
「あの…どうかしました?」
「はっはっ、あー、久々にこんな笑ったわ。でも、まずひとつ言わせてくれ」
彼はすぐさま真剣な顔になった。そして、色付き眼鏡を外し、瞬時に跪き、頭を地面に着ける。
「え」
「マジですいませんでしたっ!」
どうやら、出会い頭に戦闘開始した非礼を詫びているらしい。男の本気の土下座である。ならば、こちらもそれに報いなければ。
「あ、はい。大丈夫ですよ、大した怪我はしてませんし。誤解が解けて嬉しいです」
どんな誤解のされ方をしたらあの事態になるのかまだ理解できていないのだが、まあいい。
すると、彼は嬉しそうに顔を上げて俺を見上げる。
「本当か?」
戦闘時の威嚇態勢からは想像もできないほど、物凄く無邪気な笑顔である。
「はい」
「ああ、良かった。ありがとな、えっと―」
彼は姿勢を崩し、あぐらをかきながら両腕を後方につく姿勢をとる。
「宇治山辰巳です」
「辰巳……タッちゃんか」
即座に俺の名前が変換された。
「きっしょ」
俺の後ろでそんな声が聞こえた。苦笑いするほかない。
「いやぁ、世恋に友達が、それも男友達が出来るなんて思ってもみなくてよ。てっきり悪い男に拉致られたもんだと……いや、ほんとすまん」
中々に悲惨な誤解だった。俺はまだしも長良井さんに関しては耳も当てられないほどの誤解である。
「余計なお世話よ、クソ野郎」
長良井さんが俺の隣まで歩いてきて、雲間さんを罵った。
「あ?心配してやったんだろうが。少しは俺を労えや」
「仮に私が危機にあったとして、お前に助けられるくらいなら舌を噛み切って死ぬわ」
「あぁん?言ったな、お前。絶対噛み切れよ、ブチッといけよ?クソガキ」
「何がガキよ。まだ大学生の分際で私にそんなことを言う資格はないわよ、失禁野郎」
「それやめろや。勘違いされるだろ、せこせこ中二病女」
以下略。
※※※
「時間停止か…チートだな。ビームには勝てるけど」
俺がなんとか口論を辞めさせた後、雲間さんの車に乗り込んだ。先程それなりに暴れてしまったし、二人の口論がかなり白熱してしまったので、近隣住民とのトラブルを避けたかった。ついでに、すぐ近くだが家まで送ってもらうことになった。車中では当然、異能の話題になった。今は長良井さんと俺の能力を雲間さんに告げたところである。雲間さんは余計な一言を感想に付け加えた。
「は?舐めんなよ、失禁。じゃあ、教えてくださる?お前の能力」
いつもとは対照的に統一感のないめちゃくちゃな口調と毒々しい言葉遣いで、雲間さんに接する。
「言われなくても教えてやんよ、中二病」
雲間さんもこの毒づきっぷりである。
「俺はな……身体のあらゆるところから推進力を生むことが出来るんだ」
やはりか。俺が頭突きの威力に比例しない倒れ方をしたのも、触れただけで長良井さんを弾き飛ばしたのも納得がいく。
「身体のあらゆるところから失禁するのね。汚らわしい能力だわ」
「さっき手も足も出なかったくせによく言うぜ。てか、失禁失禁いうのやめろって」
先程から踏み込んでいいものかすっと気になっているのだが、何故彼は事あるごとに失禁呼ばわりされているのだろう。女性にされるにはあまりにも精神的に重い揶揄われ方である。
「おい、タッちゃん。なんだよ、その眼は。違ぇよ!俺の名前の『漏れる』って漢字からこいつが大袈裟に開拓しただけだ」
彼は必死に弁明する。
「はっ、どうだか」
彼女は相変わらずこの調子である。
「ていうか、お前も私の名前をもじって『世恋』女とか揶揄ってるじゃない。とやかく言われる筋合いはないわ」
「始めたのはお前だろうがっ!」
ここまで芸術的な口論を毎回見せられると、この二人にある種の絆を見出さざるを得ないのだが。しかし、今はもっと他にすべき話題がある。俺が舵取りをしなければ。
「…ところで、何故雲間さんは異能のことを長良井さんに黙ってたんですか」
「おいおい。冗談キツいぜ、タッちゃん。じゃあ、なんでこいつは黙ってたんだよ」
いきなり雲間さんの空気が変わる。鋭利な刃物のような雰囲気を纏う。彼の口元から覗く八重歯のように。
「…」
珍しく長良井さんが何も言い返さない。或いは言い返せない、と言う方が正しいのだろうか。
「それはこいつが俺を遠ざけてたからじゃないのか。俺の真実をこいつが知らなかったのもこいつが相手を知ろうとしなかったからじゃないのか。違うかよ、世恋」
車内が沈黙で包まれる。タイヤが地面と擦れる音とエンジンの駆動音しか聞こえなくなる。
「……それはあなたも同じではないの」
長良井さんがようやく口を開く。同時に、車は長良井さんの家の前で止まった。
「まあ、お前との関係性だとそう言われても仕方ないかもな。だが、俺は信頼できる何人かには伝えてるぜ。お前はどうだ?どうせマユミさんにも伝えてねぇんだろ?誰も信用してねえもんな」
バックミラー越しの、そして色付き眼鏡越しの雲間さんの眼光は鋭い。長良井さんの何もかもを見透かしているようだ。しかし、俺はその瞳にどこか悲しさも感じた。
「それは…」
長良井さんが口籠り、少し俯く。まさか長良井さんが言い包められるとは。それだけ痛いところを突かれたということか。雲間さんにしか、長良井さんに突き付けられない鋭利さを彼らのやりとりから感じた。
「じゃあな。トリオさんによろしくな」
「…っ」
殺意の籠った力強い舌打ちと閉扉だけ残して彼女は車から降りた。
「ふぅ…」
雲間さんはまた、肩の荷が下りたような溜息をつく。
「タッちゃん、今日は色々とごめんな」
恥ずかしそうに彼は微笑む。既に彼は鋭利さと毒気を全て取り払っている。それと引き換えに暖かさと悲しさを感じる。
「いえ、雲間さんと会えてよかったです」
出会い頭の頭突きや長良井さんとのおぞましい口論には多少動揺したが、これは嘘偽りない本心だ。異能者としての彼に対しても。そして、一人間としての彼に対しても。
「ははっ、そうか?…世恋のことだけどよ。これから迷惑ばかりかけるだろうし、いつまでも経っても中二病臭い奴だけど、これからよろしく頼む」
彼は後部座席の俺を振り返り、頭を下げた。彼への印象はこの数分でがらりと変わった。俺が思っていた以上に、彼は「大人」で、そして先程までの言動からは想像もできないほど彼は長良井さんを想っている。
「…今のは世恋には内緒で頼むぞ。自分で気づかなきゃ、自分で進まなきゃ、多分意味はねぇ」
長良井世恋と雲間漏月。彼らの何と形容すれば良いのか分からない歪な関係性の結末を俺は見届けたい。そう思った。
「こちらこそよろしくお願いします。今のところは助けられてばかりですけど」
そう言って俺も頭を下げた。長良井さんに対して、そして雲間さんに対しても。
「はははっ、タッちゃんはそんなタマじゃねえよ。…で、家どこだ?送るぜ」
「あ、この隣のアパートです」
雲間さんは弾けるように笑った。