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閑話「ドクター・ワトソンと眠れない男」

 その男は医者だった。

 健康的な肌艶(はだつや)と、ふんわりと豊かな明るい茶髪。何物にも眠りを(さまた)げられたことがないとでも言うようにすっきりとした目元に、均整(きんせい)の取れた顔立ち。近年、その過重労働が取り沙汰(ざた)される医者の実情の真反対に位置するような男であった。


「こいつら、やっぱ速すぎるよな……」

 

 男は、医局の自身の机で三組あるレントゲン写真とかれこれ一時間も(にら)み合っていた。

 ようやく疑念が確信に変わった男は、立ち上がって廊下に出た。そして、白衣から取り出したスマートフォンで何者かに電話をかけた。

 医局にいる同僚たちには聞かせられないとでも言うような態度であった。


 数度のコールの後、電話がつながった。


「…おい、名探偵。お前の()()()()が俺の病院にいるぜー」


 男は、吹けば飛ぶような軽々しい口調で喋り出す。


「……あん?名前?確か…長良井世恋、宇治山辰巳、岸波夢路、だったはずだ」


 そして、吹けば飛ぶような軽々しさで患者の個人情報を漏出(ろうしゅつ)した。


「……おう。またなー」

 

 男は、軽々しく電話を終えた。

 ―男の名は、川霧網代(かわぎりあじろ)。県立中央病院整形外科に勤めるれっきとした医者である。


 ※※※


 その男は患者だった。

 丁寧に整えられた黒髪は耳の下辺りまで生え、そのところどころに白髪が(まと)まって線形を作っている。彼は誰と接するにしても幸薄(さちうす)そうに微笑み、その白髪と相まってやけに儚い印象を与える。その幸薄さはおそらく目の下に淡く刻まれた(くま)の原因であろう。


「あのぉ…」


 ベッドで身体を起こして読書をしていたその男は、病室に入ってきた女性に声をかけた。


「…はい?」


 彼女は、彼と同室に入院する患者であった。先日入ってきたばかりだったが、そこまで大した傷病は無いように思えた。今しがたも、どこかへ出かけて帰ってきたところのようである。


「あ、どうも。隣に入院している者です」


 男は、いつもの幸薄そうな笑みで物腰柔らかく接した。


「どうかしましたか?」


 彼女は、相当(いぶか)しんでいるようであったが、一応、男に取り合ってくれた。


「いやぁ、先程散歩から帰ってきたときに向こうの病室から楽しそうな声が聞こえてきたもので……あなたもいらっしゃいましたよね?」

「ええ。外まで聞こえていましたか……すみません」


 いくらかの好奇心を(はら)んだ問いに対して、彼女は幾分か申し訳なさそうに答えた。


「ははは、いえいえ。私はああいう微笑ましいの好きですよ。病院はあれくらい明るくて良いと常々思っています。ずっとしぃんとしていたら気が滅入っちゃいます」


 冗談交じりに彼は持論を語った。


「…そういうものですか」


 彼女は、未だ彼の意図が読めずに訝しげに受け答えをする。


「はい。…あ、そういえば昨日も女の子がお二方来られていましたね。全員、お友達なんですか?」

「……断言はできかねますが、多分、友達……なんだと思います。中には教師もいますが」


 彼女は、即答したいようなもどかしさを感じさせながら、歯切れ悪く回答した。


「そうですか。それは良いことですね」

「ええ…」


 二人の間に言いようのない静寂が流れた。

 数秒ののち、男が再び口を開く。


「少し羨ましいです。私は()()()()友達がいませんので…」


 彼は、身に纏う儚さの度合いを一層増したように見えた。


「そうですか…」


 彼女は何と返していいか分からないようで、何かが喉につかえたような息苦しい表情をした。そんな話を私にしてくるな、というような辟易(へきえき)も感じさせた。だが―


「…でも、私もつい一週間前までそうでしたよ」


 彼女は、今の自分に言える精一杯の激励を、不本意とでも言うように、顔を(しか)めながら贈った。


「これは驚きました。そうだったんですか」

「はい。まだ、右も左も分かりませんが……」

「ははは」

「まあ、私にも出来たので、あなたにも出来るんじゃないですか」


 彼女は、分不相応な激励心を保つことが出来ず、適当な口調になりだした。だが、(いささ)か男に気を許しているような様相であった。


「…だと良いですね。手始めにあなたがなってくれてもいいのですが」

「えぇ……」


 だが、男の余りに突飛な提案に、先刻よりも大袈裟に辟易してみせた。


「ははは、嫌そうですね」


 男は、その対応にもどこ吹く風で、愉快気である。


「こういうのは自然となるものじゃないんですか。知りませんけど。というか、あなたは何故入院を?」


 彼女はいかにも面倒臭そうに話を片付けながらも、男の事情について聞こうとした。


「ああ…まあ、色々原因はあって話すと長くなるんですが、一番つらい症状で言えば不眠ですかね…」


 彼は、自身の病状を語りながらも幸薄そうな笑みは崩さなかった。そこまで大した病状では無いのかと思わせるほどに、普通の調子で語った。


「眠れないんですね…」


 彼女は、幾分か(あわ)れむような表情を見せたが、男の内側に深く踏み入ろうとはしなかった。


「ええ。両手で収まるくらいにしか眠れたことはありません。熟睡は片手で収まります」


 男は、最早自慢げに語っている。


「それはお気の毒に…」

「ははは、気にしないでください」


 彼女も言葉とは裏腹に、相変わらず、そこまで重々しくは受け止めていないようで、傍から見れば話題とテンションが些か嚙み合っていない様子であった。


「…あ、友達になるんですから名前くらい教えて下さいよ」

「えぇ…友達になるとは言ってませんが……」


 男が再び突飛な提案をして、彼女も再び分かり易く嫌な顔をした。


「…まあ、一応。長良井世恋と言います」


 彼女は、嫌々ながらも名前を告げた。そして、男も名前を返す。


「良い名前ですね。私は―」


 ―男の名は、閨川隙之介(ねやがわげきのすけ)。県立中央病院に入院する患者である。


「退院しても、暇があれば見舞いに来てくださいね」

「えぇ…」

「ははは、冗談ですよ」


 男は愉快そうに、儚げに笑った。

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